日記帳(2018年12月2日)

 

ゆうべが忘年会だったので,今日の日曜日は仕事場でゆっくりしている。

年末になったので,今年を振り返ってあれこれ書いてみたい。

 

その1。とりあえず最近のニュースからということで,カープ・丸選手のFAによる巨人移籍について。

正直,全く予想外だった。8割方はロッテ移籍,残り2割はカープ残留,と思っていたからだ。

丸が巨人を選ばないだろうと思った理由は,2つある。

1つは,人工芝(東京ドーム)でのプレイが選手寿命を縮めると言われていること。

もう1つは(こちらの方が大きいが),巨人を選べば丸本人にダーティーなイメージがつきかねないことだ。

出身地の千葉ロッテへ入れば,ファンは大歓迎し,間違いなく地元の「英雄」になれる。

一方巨人に入った場合は,世間の人は「結局は金の力に負けたのか」とどうしても思う。

金銭的な条件で仕事先を選ぶのはプロとして当たり前であり,それ自体は非難すべきことではない。

しかし,自分がそういう目で見られる(自分の子供が学校でいじめられるという可能性もゼロではない)ことを

承知の上で丸が巨人を選んだとしたら,よくも悪くも勇気のある決断だとは思う。

本人は「野球人として成長したい」という趣旨のことを言っているようだが,それには説得力がない。

巨人に移籍しても,新たに対戦するのはカープの投手だけだ。

しかしパリーグのロッテに移籍すれば,ほとんどの投手との対戦が新たな勝負になる。

打撃の求道者としての道を選ぶのなら,その方がはるかに自分の「成長」につながるだろう。

また,同じくFAで西武から楽天へ移籍した浅村の場合は,かつて世話になった石井GMとの人間関係が大きかったと報道されている。

新井がカープから阪神へ行ったときも,兄貴分である金本を慕う気持ちが強かったという。

しかし丸と巨人の誰か(たとえば原監督)との間に,個人的なつながりがあるという話は聞いたことがない。

つまり,「ロッテではなく巨人を選んだ」ことの理由がよくわからない。多くの人が「結局お金でしょ」と思っても仕方がないだろう。

丸選手の決断にケチをつけるつもりはない。ただ自分が彼だったら,巨人入りというリスキーな選択はしなかっただろう。

ちなみに,丸がFA宣言をしたとき,地元メディアがファンにアンケートを取った。

結果は「本人の権利だから,自分のやりたいようにすればいい」という意見が6割くらい,

「カープを出て行かないで」という意見が4割くらいだった。これは健全な数字だと思う(ぼくは6割の側だ)。

4割の人の多くも,自分の言っていることがある種の「わがまま」であることは承知の上だろう。

丸選手には,新しい職場での活躍を祈りたい。

 

その2。今年の新語・流行語大賞の候補の30語が発表されている。

例年思うことだが,これらのほとんどは「言葉」というより「事実の説明」でしかない。

たとえば「悪質タックル」「金足農旋風」「カメ止め」などがそうだ。

こんな1年もたてば消えてしまう言葉を選んでも意味がないように思うのだが。

「なんでこれがノミネートされてないの?」と思うような言葉もある。たとえば「意識高い系」などだ。

文春に能町みね子さんが毎年書いているが,「新流さん」はスポーツ好きのおっさんというイメージが確かにある。

ちなみに個人的に選ぶ今年の新語・流行語大賞は,「マイルド・サイコパス」だ。

サイコパスに関する本は今年たくさん出たが,だいたい100人に1人くらいの率で(マイルドな)サイコパスの人がいるそうだ。

その人々には,たとえば「平気でうそをつく」「他人の痛みに対する共感力が弱い」などの特徴があるという。

つまり,トランプ大統領のような人だ。

日本のどこぞの政治家もネットでフェイクニュースを流す人たちも,マイルド・サイコパスだからと説明されれば腑に落ちる。

彼らは一種の脳の病気なのだから,同情こそすれ責めてはいけないよ。なんてな。

ついでに言うと,言葉の感覚というのは人によって違うので,カープのキャッチフレーズを好む人も世の中にはいるのかもしれない。

今年が「ドドドォー」,来年が「水金地火木ドッテンカープ」だそうだ。

痛い!痛すぎる!・・・・・・・とオジサンは思うんですけどね。

 

その3。今年もいろんな事件があった。

個人的に印象に残る事件の第2位は,女子体操のパワハラ問題だ。

詳細は省くが,当事者である19歳の宮川選手は,速見というコーチに殴る蹴るの暴行を受けていた。

ところがこの事件が特異だったのは,宮川選手本人がそれを「パワハラ」と認識していなかったことだ。

逆に速見コーチと自分を引き離そうとした体操協会の塚原副会長夫妻を非難した。

この場合,「コーチの暴行はパワハラに当たるか?」という疑問の答えは「ノー」だと思う。

前にも書いたが,パワハラにせよいじめにせよ,受けた本人がそう感じているという要件が必要だ。

新興宗教の教祖様が信者からお金を集める行為が詐欺ではないのと同じことだ。

つまり,ハラスメントとかいじめとか差別とかいう問題は,目に見える結果だけでは判断できない。相撲の「かわいがり」もしかり。

仮に速見コーチに(指導の一環として)蹴られた結果として宮川選手が足に負傷したりすれば,当然コーチは責任を問われる。

しかしそういう指導方法を宮川選手自身が積極的に望んでいたのだとしたら,その負傷は選手本人の責任でもある。

19歳という年齢は微妙だが,少なくとも大人なら「自分が無知だったために騙された。相手が悪い」という理屈は通用しない。

新興宗教の洗脳から逃れた元信者が「貢いだ金を返せ」と教祖を訴えても裁判に勝てないのと同じだ。

 

で,今年最も印象に残った(あるいは考えさせられた)事件は,ジャーナリストの安田純平さんが人質から解放された件だ。

この事件が興味をそそるのは,安田さんの自己責任をどう考えるか?という意見の分かれる問題を提起しているからだ。

まず,下の新聞記事を見てみよう。11月25日の中国新聞に掲載された「識者評論」で,タイトルは「安田さんを巡る自己責任論」。

筆者は大学教授のY氏で,「専門は言論法」とある。

安田純平さん解放を巡って巻き起こった,自己責任論。本人の記者会見を境に,ネット上の激しいバッシングはやんだようにも見えるが,結果的に誤った認識がまん延・定着することにならなかったか。これが,ジャーナリズム活動に対する不信感をより高めることになることを危惧する。

本人が言うところの責任は,危険地に自分の意思で入る限りにおいて,結果責任が伴うものだ,という意昧に理解できる。しかし巷間のそれは,国に迷惑をかけたことについて責任を取れ,取れないのであれば危険地に行くのは単なる身勝手だというものだ。この「無責任な迷惑者」像を後押ししているのが「安田=怪しい人」観であろう。

拘束されていたにしては元気過ぎるとか,歯がきれいすぎるといった,勝手な推測が独り歩きし,韓国との二重国籍であるとか,日本国パスポー卜は没収されているなどのデマが飛び交う。まさにフェイク情報が基になった自己責任論が拡散し,総体として「危険地取材は自己責任」が定着したということになる。

こうしたフェイクを信じ,あるいは信じないまでも何となく拡散させてしまう状況にあるのは,シリアあるいは中東情勢についての無関心と,メディアに対する不信感が根底にあるからだろう。

前者は,距離的にも経済・政治上でも縁遠い国であり,戦争が身近なものではないということから,そもそも「どうでもよい」感情の上で,怪しいと言われればそうかなと反応してしまう状況が出来上がっている。

しかもそれに,1980年代後半以降に高まってきた,メディアに対する圧倒的な不信・不要感がかぶさっている。それが戦争取材を含めてジャーナリズム活動への理解不足や,ジャーナリスト個々人に対するリスペクトの決定的な欠如につながっていると思われる。

こうした問題は,今回自己責任論として現れたが「うそつきメディア」 「マスゴミ」との呼称に代表される,既存マスメディアや報道活動に対ずる敵対的な位置関係や,自分と志向が合う者とのみつながりを深め,異にする意見や事実をフェイクニュースとして一刀両断する状況と,構図が同じであることがわかる。

さらに政府が有する自国民に対する保護義務と「政府に盾突く人=偏った人=間違っている人」といった昨今の偏向報道批判が,ねじれた形で結びついている。政府にあらがう者が,国に助けてもらって恥ずかしくないのかという,「非国民」呼ばわりの風潮だ。

これも,とりわけ安全保障が問題となる場合には,表現の自由より国家利益を優先して報道すべきだという近年の議論の反映であるともいえる。「本来国益ではなく市民の知る権利のために活動すべきジャーナリス卜だが,一方で進む社会的認識の「ずれ」との関係で相対的に弱く軽い立場に置かれてしまっている。

元来紛争地に限らず,大規模自然災害でも,事件・事故においてすら,取材活動は社会で保護することが,近代民主主義社会の合意であったはずにもかかわらずである。紛争地取材がジャーナリストの当たり前の行為としてみなされないまま,あしき事例として社会に認識されたのであれば,日本のジャーナリズムの基盤がさらに弱まることになるだけに,今回の問題は重く深い。

 

人は誰しも,自分の見たいものを見て,見たくないものからは目を背ける(あるいはそれを軽視する)傾向がある。

トランプ支持者は,(おそらくはより中立的であるはずの)メディアの報道よりも,トランプ自身が語る与太の方を信じようとする。

上の記事を書いたY氏も,その点において何も変わらない。つまり上の記事は,知識人・言論人の主張としては落第点だ。

どこに問題があるのかと言えば,最初の方に出て来る次の文言だ。

本人が言うところの責任は,危険地に自分の意思で入る限りにおいて,結果責任が伴うものだ,という意昧に理解できる。しかし巷間のそれは,国に迷惑をかけたことについて責任を取れ,取れないのであれば危険地に行くのは単なる身勝手だというものだ。

Y氏はこの主張において,「責任を取る」というのが具体的にどういうことなのかを真剣に考えていない。

それは,「安田さんは自分の行為に対してどう責任を取るべきか?」という問題が,Y氏本人の頭の中で「どうでもいいこと」だからだ。

Y氏の頭の中にあるのは,簡単に言えば「健全なジャーナリズムを守るためにどうすればよいか」ということだけだ。

それはちょうど,トランプ支持者が「自分たちの生活を守るためにどうすればよいか」という点しか考えないのと同じだ。

要するにY氏の主張は,それ自体が反知性主義的であると言える。

では,「知性主義的」な主張とはどうあるべきだろうか?

 

一番大切なのは,議論の相手を見下さないということだ。これを守れない人が世の中にどれだけいることか。

相手も自分と同じ程度にその問題にコミットしようとしている(はずだ),という前提に立つこと。これが民主主義的議論の基本だ。

ネットでちょっと検索すればわかることだが,安田さんの「自己責任」を問う世間の声は,次のように要約できる。

@誘拐の目的は身代金だったはずだから,安田さんが解放されたということは誰かが彼の身代金を払ったに違いない。

A安田さんは,自分のために誰かがお金を払った(はずだ)という事実に対する自分の責任をどう考えるのか。

  (もし日本政府が裏で身代金を払ったのなら,国民の税金が安田さん個人のために使われたことになる)

Bさらにその身代金は誘拐犯たちのテロ活動の資金源になるはずだから,安田さんは結果的にテロリストたちを支援したことになる。

Y氏は,このような本質的な疑問を(意図的に?)無視して,代わりに瑣末なフェイクニュースを批判している。

Y氏本人がどの程度自覚しているかは別にして,自分の主張にとって都合がいいことばかりに目を向けていると言える。

その根底には,Y氏が議論の相手をいわば「無知な批判者たち」として見下す気持ちがあると思う。

露骨に言えば,「ジャーナリズムの専門家として,無知な君たちを教育してやろう」という感覚だ。

何回も同じことを書くが,たとえば反核運動に関わる人たちのほとんどはそういう発想に染まっているように見える。

彼らは言う。「核兵器がなくならないのは,多くの人が原爆(などの核兵器)の本当の恐ろしさを知らないからだ」

― この発想は,完全に「上から目線」だと言ってよい。核抑止力を信じる人々にも,彼らなりの正義はあるのだ。

そういうふうに「自分と相手は対等だ」という前提に立たなければ,民主主義というものは成り立たない。

 

では,上の@〜Bの意見についての個人的見解を述べよう。

ぼくは基本的に,安田さんの行動には批判的だ。安田さんは自分の「責任」に対する自覚が足りないと思う。

安田さんは拉致されることを覚悟の上で紛争地へ行き,実際に拉致された(そしておそらく身代金が支払われた)。

この事実に対して安田さんが「責任を取る」方法は,いくつか考えられる。例を挙げてみよう。

(1)拉致された時点で自殺する(自分に対して身代金が払われることに対する責任を回避するため)。

(2)誰がいくらの身代金を払ったかを関係者から聞き出し,自腹を切ってその費用を返金する。

(3)自分の非を全面的に詫びて,今後一切このような行動は取らないと誓う。

(4)自分の体験を(たとえば本にして)公表し,その情報的価値が身代金の価値を上回るということを証明する。

これらのうち,(1)は現実的ではない。拉致されている間「あきらめたら終わりだ」と思っていたと本人が語っている。

また(2)も,前半と後半の両方が現実的ではない。仮に日本政府が身代金を払ったとしても,関係者は決して口外しないだろう。

(3)は,仮に安田さんがそのような謝罪を行ったとしても払った金は戻ってこないが,少なくとも一定の「贖罪」にはなるだろう。

(4)は,可能性としてはありうる。情報の価値は単純には金銭に換算できないが,Y氏のようなジャーナリズム専門家はその土俵で勝負すべきだ。

いずれにしても,「お金の問題」は避けては通れない。

なお言えば,今後安田さんがどうしても同じような取材活動をしたいなら,次のような方法もありえなくはない。

まず,保険会社と交渉して「拉致保険」を新設してもらい,安田さんがそれに加入する。

この保険は,今回のような事件が起きたとき,保険会社が安田さんの身代金を支払うというものだ。金額は最低でも億単位になるだろう。

安田さん本人に保険料の支払いが無理なら,特定の出版社(あるいは出版協会のような組織)が立て替える。

代償として出版社は,安田さんが解放された後に出版されるであろう本の版権を得る。

このようなことをしても払った身代金が回収できるわけではない(つまり上記Bの批判には答えられない)が,一定の筋は通る。

出版社側がそのような金を払いたくないというのなら,彼らは結局安田さんが持ち帰る(はずの)情報を高く評価していないことになる。

結果的に安田さんは紛争地での取材を行えない。つまり(4)の逆が証明されるわけだ。

 

以上の考察をもとに実際の安田さんの言動を見ると,もう一度言うが彼は自分の「責任」を十分に自覚していない。

世の中には,「あとは誰かが適当にやっといてね」という特権的な態度を取っても許される人々がいる。

たとえば会社の社長や政治家は大きな方向性を決めるだけで,細かい作業は社員や官僚に任せる。

しかし一介のジャーナリストにすぎない安田さんには,そんな特権はない。

「自分はジャーナリストだから,取材することにしか関心がない。その過程で起きた(自分にとって)瑣末な問題は,

自分以外の誰かが適当に処理してくれればいい」という発想が,彼の頭の中には確実にある。

しかし,そういう「特権」を持つことを許されるのは,たとえば会社の社長や政治家の偉いセンセイだけだ。

安田さんを含むわれわれ庶民は,自分がしたことに対してまわりの誰かに迷惑をかけたのであれば,

少なくともその人たちに謝り,「今後こういう失敗はくり返しません」と誓うのが当たり前だ。

そういう当たり前のことができない人は,一人前の社会人とは言えないのだ。

 

その4。今年見た映画の中で,ある意味で印象に残っているのは,是枝監督の「万引き家族」だ。

去年「三度目の殺人」を見たときに感じた違和感が,確信に変わった。ぼくはこの監督の作風を好まない。

たとえば,こんな話があったとしよう(是枝作品と直接の関係はない)。

「主人公の男が,5人の男女を次々に殺していく。男には殺人の動機がありそうだが,本人と5人との関係は明かされずに映画が終わる」

― このような映画を見たとき,「あえて説明をしないことで深みが生まれるのだ」という評価をする人もいるかもしれない。

しかし,そういう作風は好きくない(←「未来のミライ」)。

「三度目の殺人」にも「万引き家族」にも,そういう感じがある。要するに,説明が足りなさすぎる。

そこを評価する人々はただのsnobに見えて仕方がない。(snob=someone who thinks they are better than people from a lower social class 〈LDOCE〉)

で,今年見た映画の中で面白かったのを5本挙げておく。

「ジオストーム」「スリービルボード」「空飛ぶタイヤ」「カメラを止めるな」「ボヘミアンラプソディ」

アニメ映画では,「未来のミライ」は期待の大きさにはちょっと届かず,「ペンギン・ハイウェイ」の方がよかったかな。

ちなみにアニメで一番面白かったのは,「せいぜいがんばれ!魔法少女くるみ」だ。

https://www.youtube.com/watch?v=4_KIW3uBaWE&t=2s

今年買って読んだコミックでは,次の9作品を挙げておく。興味のある人は調べてみてください。

彼方のアストラ(篠原健太),ゴールデンゴールド(堀尾省太),月曜日の友達(阿部共実)

ディエンビエンフー(西島大介),レッド最終章(山本直樹),キューティーミューティー(さやわか/ふみふみこ)

デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション(浅野いにお),銀河の死なない子供たちへ(施川ユウキ),ランド(山下和美)

 

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