日記帳(2019年6月16日)

 

4月のオフ会が終わった頃からずっと仕事が忙しく,なかなか釣りにも行けない。

仕事が一段落したので,今日の日曜日は午前中瀬戸田・名荷港で3時間ほどミニ反転カゴをやった。

しかし魚は1匹も釣れず。フカセの先客が2人入っていたが,その人たちの竿も一度も曲がらなかった。

今年はこの時期の本命のマダイは難しいかもしれない。先端近くで釣ったが満潮ごろの潮はいい感じだった。

下の写真は,先日釣ったチャリコを干物にしたもの。こうやって食べるとどんな魚でもおいしい。

ちなみに下の写真は,上の娘が広島のスーパーで見たことのない魚を売っていたというので送ってきた写真。

白身魚で名前は「バサ」と表示されているが,聞いたことのない名前だし身の感じも見たことがない。

醤油で煮つけて食べたが脂っこくてうまくなかったそうだ。まあ見るからに深海魚っぽいし,バター焼きとかで食べるのが正解だろう。

今日の午後はその娘が孫を連れて遊びに来たので,みろくの里へ連れて行ってやった。家族連れでかなり賑わっていた。


 

夜はだいたい夕飯のあとNHKの9時のニュースを見て,寝るまでTVの録画を見たりパソコンをつついたりしている。

なかなか釣りに行けない分,ユーチューブで釣りの動画はちょくちょく見る。

ああいうところで一度は釣ってみたいと思うような場所がよく出てくるが,さすがに五島列島まで行くことは一生ないだろう。

あんたら仕事大丈夫なん?

https://www.youtube.com/watch?v=DJPs8DsoTPM

日曜日はなんやかんやで忙しく,これからは暑くもなるし,釣りは行っても短時間で切り上げることが多い。

特に夏や冬は屋外に出るのが億劫になるので,映画はよく行く。

今年見た映画で一番面白かったのは,まだ公開中の「コンフィデンスマンJP」だ。シナリオがよくできていた。

逆に一番ダメだと思った映画は,ゴールデンウィークを中心に公開されたアニメ「バースデー・ワンダーランド」だ。

ストーリーにも登場人物の行動原理にもまるで説得力がない。金返せ,と思った。

 

昔は小説も読んでいたが,近年はエンタメはマンガやユーチューブや映画があれば十分で,

まじめに頭を使うのは新聞雑誌やネットのニュースを見る方が手っ取り早い。

最近のニュースで言うと,「老後は貯金が2千万必要」とかな。

実際にどのくらいの額が必要になるかは人によって違うだろうが,手元にあるお金でやっていくしかない。

それが無理なら,考える順番としては最初に生活保護,次に介護施設への入居だろう。

うちの父がその種の施設に入ったときに言われたが,生活保護を受けている人でも(介護保険の点数にもよるが)

自分の月収の範囲内で介護施設に入れるそうだ。


 

最近のニュースで特に気になったのは,大津市の交差点で車2台の衝突に巻き込まれて幼稚園児2人が死亡した事件だ。

この事件が起きた翌日の新聞には,2台の車を運転していたそれぞれの女性の実名が出た。

一方の女性は直進しており,そこへもう一方の女性の運転する右折車が衝突し,はずみで右折車が園児の列に突っ込んだ。

しかしきのうの新聞の社会面の隅に,こんな趣旨の小さな記事が載った。

「直進していた車を運転していた女性は,過失度が低いとして不起訴になった」

それを伝える報道では単に「女性」としか書かれていない。

しかし事故直後の報道では,彼女の実名がニュースにも新聞にも出た。

これは,本人にしてみればどういう気持ちだろうか。

交差点で直進していた自分の車に横から右折車が突っ込んできたら,誰でも避けようがない。

交差点での事故だから形式的には過失の度合いがゼロ対100ということはないだろうが,

実質的には自分に責任があるとは思えない。だから検察も不起訴にしたのだろう。

それなのに自分は,あたかも犯罪者であるかのように実名をさらされた。

そのことに関してマスコミも警察も(たぶん)謝罪しないだろう。

これは,社会正義の観点から考えておかしいんじゃないだろうか。

話が飛躍するかもしれないが,われわれが高校生だった頃には,大学入試の合格者の実名が新聞に載っていた。

それを見て多くの人は「近所のあの子が○○大学に受かっとるげな」というような話をした。

今の人から見れば,そんな個人のプライバシーをあばくような野蛮なことが昔は平気で行われていたのか,と感じられるだろう。

大津市の事故で不起訴になった女性についても,将来は「そんな野蛮なことをしていた時代もあった」と言われるようになってほしい。


 

また話は変わって。

きのうの中国新聞の「オピニオン」という欄(社説の横にある)に,「ハンセン病家族訴訟という問い」という記事が載った。

執筆者O氏の経歴は「学校職員を経て災害ボランティア活動などに参加。『ハンセン病問題を共に闘う全国市民の会しまね』事務局を預かる」とある。

以下は,ハンセン病療養所のある高松市沖の大島へ通っているというO氏が,入所者の女性Xさんとのやりとりを記した一節だ。

「筆者はこの離島へ,折に触れて通ってきた。青松園に入所しているXさん(※記事では実名)に面会するためだ。

初対面の時から,彼女は本名も生まれも明かし,多くの話をしてくれた。「今は幸せよ」とよく口にする。

その一言に,筆者は首をかしげた。というのも,園の船で職員と同じフロアに乗れて乗り降りに手を添えてもらえる,

あるいは高松の町の食堂やタクシーで拒まれなくなった,といった当たり前の話だからである。

不当に奪われた人生を取り戻せたわけでもないのに「幸せよ,じゃないよ」と言いたくなるのだ。」

この記事を読んで,思ったことを語ってみたい。

O氏の気持ちは十分に理解できる。彼自身は,自分はハンセン病患者のために真剣に活動していると思っているだろう。

しかし彼のその思いは,厳しい言い方をするなら「自己満足」の性格が強い。

Xさんは,一口で言えば自分の人生を完結させている。悔しい思いは当然あるだろう。

しかし誰を恨んでも,失った過去が戻って来るわけではない。

そういうとき,9割くらいの人は自分の運命を受け入れる。自分が「幸せ」になるにはそれしかないと悟るからだ。

残りの1割くらいは(あくまで感覚的な数字だが),一生をかけて自分を不幸にしたものと戦おうとする。

Xさんは9割側の人であり,O氏は1割側の人だ。O氏がXさんの言葉に「首をかしげた」のは,2人の思想が違うからだ。

普通に考えれば,Xさんは自分で「今は幸せよ」と言っているのだから,もう他人の助けは必要としない。

したがってO氏が関わるべきはXさんではなく,今も苦しんでいる別のハンセン病患者であるべきだ。

では,O氏がその療養所にいるすべてのハンセン病患者と会い,その全員が「今は幸せだ」と言ったなら,

O氏は自分の役目が終わったと考えて「ハンセン病を共に闘う会」を閉じるだろうか?たぶんノーだろう。

彼の活動は「ハンセン病の患者のため」というより「自分自身のため」というウエイトの方がたぶん大きいからだ。

それが悪いというのでは決してない。むしろ人の活動のほとんどは,そういう性格のものだと思う。

たとえば自分の住む場所とは違う地域で大災害があったとき,多くの人は募金をする。

その行為には,「被災地の人たちのため」「自分のため」という2つの性格がある。

「自分のため」とは,困っている人たちを助けることによって(俗っぽく言えば)自分の「魂のステージ」が

上がったような気になる。その満足感を味わいたいということだ。

この2つの性格はフィフティ・フィフティではなく,思いやりの気持ちという動機の方がずっと強い人もいるだろう。

自分の生活の一部を犠牲にするほどの額の募金をする人がいたなら,それはそういうことだ。

逆に「自分のため」という動機の方が強すぎると,O氏とXさんのような関係が起こることになる。

ただし動機が自己中心的なものであっても,結果としてその行為によって誰かが救われるのなら,それは善行だ。

それでもぼくは,自分に関して言えば,誰かに何かをしてあげるのは基本的には自分を満足(あるいは納得)させることが目的だと思っている。

要するに「いいことをした」という気分を味わいたいのだ。

 

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