最終更新日: 2004/2/7

雑記帳(釣り編-C)


 

● 2004/2/7(土) 釣り師の「原罪」について 

 

¶ 最近掲示板に「物議をかもす書き込み」があったことに関して,少し考えてみました。この件の概要は,倉敷のマサさんが書かれていた文面に対して,名前を伏せる形で「批判」の書き込みがあった,ということです。

マサさんは,次のように書かれていました。

(A) 良型の魚を波止に下ろします。写真を撮ったり、サイズを測ったりします。その時、魚の目は、私をずーーーと追っています。魚を締める前、必ず魚の目をタオルで隠します。以前、目を隠さずにナイフを出したとき、魚が暴れてどうしようも無かったことがあります。・・・・・魚は、分かっているのだと思います。どれほどの魚の命を奪ってきたことでしょう。「必要以上」の魚の命を、奪いたくはありません。

これに対する「批判」は,次のようなものでした。

(B) 必要以上 って? 私たちが釣りをして奪っているのは「必要」以内ではないでしょう。私らの釣りで命を奪っているのは、私は「必要」という範囲を越えていると思います。違いますか? 魚が必要なら、それを糧にしている漁師(店)から買えばいいわけですから。あくまで私らの釣りは、「趣味」なのですから。いまさら、必要以上のとか、カッコつけるのはやめましょうよ。

(B)の文面は「ケンカを売るような書き方になっているので不愉快だ」という面はもちろんありますが,その点は棚上げして,ここに提起されている問題意識についての,私の感想を述べてみたいと思います。(B)の書き込みに対する批判を展開するつもりはありません。いただいたご意見を私なりに咀嚼して,この件に関する自分なりの答えを改めて考えてみよう,と思っているだけです。これをお読みの皆さんも,たぶん少なからず「言いたいこと」はおありと思いますので,自由に掲示板に書き込んでください。「荒らし」はたぶんもう来ないと思いますので。

¶ まず,「必要」という言葉の定義を,現実レベルで考えてみましょう。「釣りによって魚の命を奪うのは『必要』とは言わない。魚が必要なら魚屋で買えばよい」というのは,確かに筋の通った理屈だと思います。一方で,その理屈をそのまま使って「釣りによって魚を獲ることは,自分にとって『必要』だ」と反論することは可能です。なぜなら,「新鮮な魚は,釣りによってしか手に入らない」からです。あるいはコブダイは魚屋には売っていないので,コブダイを食べたければ自分で釣るしかありません。これを「必要」と言わずして,他に言葉があるでしょうか?

¶ ただし,この理屈にも弱点はあります。「釣れた魚を食べる」ことによってしか釣りという行為を正当化できない,という点です。これだと,ブラックバスやヘラブナを釣ることは許されない,というヘンな結論になりかねません。そもそも,上の二つの意見には共通点があります。それは,どういう理由にせよ「生き物の命を奪う」という行為の当事者が,その行為を自分自身にどう「納得」させるか?ということを考えようとしている点です。他人向けの「言い訳」ではありません。「あなたが魚の命を奪っていることをどう考えるのか?」と他人(たとえば「すべての釣り人は悪人だ」という立場に立つ人)から問われれば,弁解はいくらでもできます。そうではなくて,その行為と「自分の気持ち」との間にどう折り合いをつけるか,という問題であると思います。そういうことに思いが至らずただ欲望のままに釣りをする人に比べれば,(B)の意見はある種の「問題意識」を提起しているという点を評価されるべきだと思います。

¶ そこで,「食べる」ことは切り離して考えてみます。これまでにも多くの皆さんが言われているように,「釣り」という趣味は「殺生」を伴うものであり,それが多かれ少なかれ「罪悪感」に結びつくのが人間の自然の姿というものでしょう。私にもそうした気持ちはもちろんあります。その観点から私が釣りをする理由を端的に言えば,「魚に対する罪悪感」よりも「魚を釣る行為から得られる楽しみ」の方が勝っているからです。したがって,多くの釣り人と同じように私も,心の底で何らかの「贖罪」を求めています。「自分への言い訳」と言ってもいいでしょう。私のそれは,たぶん多くの釣り人と同じです。「釣った魚は,食べることによって供養する」「食べる分以上の魚は釣らない」「余分に釣れた魚はリリースする」--- そういう理由づけで「納得する人」と「納得しない人」がいるのは当然のことです。しかし納得しない人も,何らかの「言い訳」を持っているはずです。罪悪感の方が大きければ釣りをやめるしかないわけですから。

¶ 一方で,「罪悪感を持たない人」は,「言い訳」をする必要はありません。そういう人たちは,「しょせん趣味なのだから,そんなに深く考えなくてもいい(楽しければいい)」と言うかもしれません。もしかしたら(B)の意見はその延長にあるのかもしれませんが,私はむしろ,(B)も自分の罪悪感に向けた一種の「言い訳」だと解釈しています。その点では,(A)も(B)も考えのレベルは同じだと思います。どちらが「より良い」言い訳か,と優劣をつける必要はないでしょう。各人の「言い訳」を批判するのは,たやすいことです。たとえば,「キャッチ&リリース」という行為は,魚に対する一種の贖罪という面を持っています。しかし,実際にはリリースした魚の多くは死んでしまう,という批判もよく聞かれます。それでもなお,私は「キャッチ&リリースをしよう」と考える釣り人たちの「優しさ」に共感を覚えます。たとえそれがマスターベーションであったとしても,です。そもそも,本当に「殺される魚」の側に立って考えるなら,相手が釣り人だろうと漁師だろうとサメだろうと,「殺される」という事実に変わりはありません。家畜のウシやブタを殺して食べるのも,当然同罪です。「大型魚が小型魚を捕食するのは自然のサイクルだが,釣りはそうではない」という意見も,相対的なものです。職漁者も乱獲で魚資源を枯渇させていますから。「しょせん趣味だから派」の人たちを批判するなら,「各人が何らかの自制心を持って乱獲を自重しなければ,現実問題として魚の数が減ってしまい,釣りを楽しむことができなくなるではないか」と言うことができるでしょう。この批判には十分な説得力があります。一種の「公共の利益」にかかわることですから。

¶ (A)の意見は,そういう現実レベルでの問題意識を強く反映しています。(B)はその部分に対する認識が見えてこない点が,おそらくは多くの皆さんを不快にさせている別の理由であろうと推察します。ただ,この項で取り上げたかったのは,現実レベルの実害のことではなく,「気持ち」の問題です。私の気持ちを端的に言うなら,「万引きも殺人も,犯罪であることに変わりはない」とか「優勝しなければ二位でも最下位でも一緒だ」というような開き直りは,好きではありません。全然端的ではないですね。つまり,「盗人にも三分の理」というか。いや,違うな。まあ要するに,「お魚さん,ごめんね。キミたちに迷惑かけとるお詫びに,自分にできるだけのことはするけんね。でも釣りはやらせてね」ということです。そういう態度を「偽善だ」と言う人もおられるでしょう。「偽善で何が悪い?」と開き直るつもりはありません。たとえ自己満足であれ,あれこれ言い訳を考えることで多少の贖罪を果たそうとする多くの釣り人たちのケナゲな気持ちを私は愛しますし,自分もそうありたいと思っています。


 

● 2004/1/9(木) 再び釣り場のゴミのこと 

 

¶ 前にも似たようなことを書きましたが・・・。釣り場のゴミに関する私の考え方は,もしかしたら普通の人とちょっと違うかもしれません。「ゴミを放置して帰るのはイケナイことだ」 --- これは,言うまでもありません。一方で,「釣り人が増えれば,ゴミも増える。そこまでは避けられない」とも私は思っています。問題は,そういう現実に対してオマエはどう行動するのか?という部分です。

¶ ひとつの寓話を考えてみます。ある波止に10人の釣り人が別々に来て,全員が釣り場で1本ずつ缶コーヒーを飲みました。10人の中に「悪い人」が2人いました。彼らは,空きカンを放置して帰りました。残りの8人は,「普通の人」でした。彼らは,自分の飲んだ空きカンを持ち帰りました。しばらく時が経つと,放置された空きカンは何十本にもなっていました。「悪い人」たちが何度もカンを捨てて帰るからです。

¶ しばらくして,また10人の釣り人が来ました。今度の10人の中には,「悪い人」が2人,「普通の人」が6人,「ちょっといい人」が2人含まれていました。「ちょっといい人」は,自分の飲んだ空きカンのほかに,放置された空きカンの中から1本だけを拾って,2本の空きカンを持ち帰りました。その日から,放置された空きカンの数は増えませんでした。減りもしませんでしたが。

¶ 今度は,別の10人が来ました。やはり「悪い人」が2人含まれていましたが,残りの8人のうち「ちょっといい人」が4人いました。彼らは自分の空きカンと放置された空きカンの2本ずつを持ち帰ったので,少しずつゴミの量は減っていきました。最後には,この波止には空きカンのゴミはなくなりました。でも,空きカンをそこいらに捨てて帰る人がいなくなったわけではありません。「捨てる人」より「拾う人」の方が多くなったから,ゴミが溜まっていかなくなったのです。

¶ 私は,このお話の中に出てくる「ちょっといい人」でありたい,と思っています。空きカンについては,実際に上のような行動をとっています。「もっといい人」なら,波止のゴミを全部まとめて持ち帰るでしょう。でも,私にはそこまではできません。カキを使った後の釣り座の掃除についても同様です。自分の釣り座のまわりに他の人がカキを使って放置して帰った跡があれば,私はできるだけそこも掃除して帰るようにしています。でも,波止全部をきれいにするわけではありません。自分にできる範囲内で「小さなボランティア」みたいなことをするのが,釣り場のゴミ問題に対する自分なりの答えなのです。

¶ 「マナーを守ろう」「ゴミは持ち帰ろう」といくら呼びかけても,それに応じない「悪い人」は必ず出てきます。では,どうしたらよいのか?--- ゴミの放置に対しては,「罰則を作る」というのも一つの方法でしょう。しかし,それにも限界があります。死刑制度があっても凶悪犯罪がなくならないのと同じです。マナーというのは結局その人の「生きざま」の問題であって,意識的にマナーを無視する人に対して「マナーを守れ」というのは,「オマエの生き方を変えろ」と命令するのに等しいことだと私は思います。相手が子供ならともかく,いい大人に対してそんなコトは言いたくありません。

¶ 「お互いマナーを守りましょう」というようなことは,言わなくても普通の人にはわかっています。問題は,一部の「悪い人たち」です。彼らの存在を前提としたうえで,われわれ一人一人がどう振舞うか?と考えてみると,取るべき(あるいは,取ることのできる)態度は2つに大別できると思います。1つは「叱る人」になることです。マナーの悪い人を見かけたら厳しく注意する「監視員」のような人がいれば,少なくともその場所に来る「悪い人」は減るでしょう。でも彼らは,別の場所でまた悪いことをするだけです。どの場所にも「叱る人」がいてくれるのが理想ですが,そうもいきません。そこで,もう1つの方法として私は「拾う人」になろうとしたのです。波止にゴミを捨てる人に面と向かって注意するような度胸は,私にはありません。「叱る人」より「拾う人」になることの方が,私にとってはずっと簡単なことです。そして,私のような「拾う人」が増えれば,いずれ釣り場のゴミは少なくなると思っています。実際,私がよく通う波止の中には,近所の人が毎朝自主的にゴミを拾って歩いているところもあります。そういう場所では,ゴミを出す人自体が少ないようです。他の人がゴミを捨てていれば「自分もいいだろう」と思いますが,きれいな波止に自分だけゴミを捨てるのは気がひけますから。

¶ 私の考え方には,批判もあると思います。自分がゴミを捨てても誰かが拾ってくれると思えば,「悪い人」はいつまでたってもゴミの放置をやめないだろう,という声も聞こえてきそうです。また,私のようなやり方だと結局悪人が一番得をして,善人が割を食うだけじゃないか,と思われるかもしれません。でも,皆さん。あなたも神戸の地震のとき,コンビニの募金箱に小銭を入れたでしょ?--- 世の中は,損得勘定だけで成り立っているわけではありません。「悪い人」がこの世の通り道のあちこちに開けた穴を,「ちょっといい人」たちの善意で埋めていけばいいんじゃないでしょうか。ゴミの問題については,現実的対応としてたとえば,人が大勢集まる釣り場に「募金箱」を設置するという案も考えられます。そこで釣りをする人は,波止の清掃費用としてたとえば1人100円ずつをこの箱に入れます。そのお金をプールしてゴミ箱を設置し,回収車に取りに来てもらえば,波止のあちこちに散乱したゴミはなくなると思います(100円では少ないかもしれませんが)。もちろん,「悪い人」は募金なんかしません。「普通の人」や「ちょっといい人」の善意で,「悪い人」のマイナスをカバーし合うことができるんじゃないか,というのが私の基本的な考え方です。善人だけがその箱に100円を入れることになりますが,それを「理不尽だ」とは私は思いません。「なんで自分だけがこんな損(苦労)をせにゃならんのじゃ」というふうに考えたら,ボランティア活動なんかする人は一人もいなくなってしまいます。これは私個人の考えであり,これをお読みになっている皆さんに「ちょっといい人」になりましょう,と呼びかけているわけでは決してありません。ゴミの問題に対して「自分が」どう振舞うかは,一人一人が考えればいいことだと思いますよ。


 

● 2003/4/9(水) マキエ規制のこと 

 

¶ 今日たまたま釣り情報誌の編集長さんと電話で話をしていたら,「今広島県は大ごとなんじゃ」という話を聞いた。この4月1日からマキエの規制が強化されて,違反者の取り締まりが始まるらしい。詳しいことは雑誌などでも紹介されると思うが,基本的に遊漁船にも釣り人個人にもマキエの使用は禁止される。現実には監視員を常駐させることはできないので,いわゆるタレコミを通じて遊漁船の船長などを見せしめのために摘発するだろう,という。「マキエ」の定義については,「かぶせ釣りのカキはマキエに該当するのか?」編集長さんが保安庁に問い合わせたところ,条例で想定しているマキエとは違うようにも思えますね・・・という説明だったが,まだ正式な結論は出ていない,とのこと。

¶ これについては,いろいろ釈然としない点がある。まず,マキエを規制する理由である。主に次の2つが考えられる。

@ マキエは海を汚す(環境が悪化する)から。

A マキエをすると魚が釣れすぎて,魚資源が減少するから。

  どっちでしょうかね?と編集長さんに尋ねたら,両方でしょう,という答えが返って来た。常識的に言えば確かにそうかもしれないが,Aは理由にならないと思う。魚をたくさん獲ってはいかん,というなら,漁業の規制をまず考えるべきだろう。漁業者には規制はあるのか?あったとしても,その規制は守られているのか?--- 広島のスーパーでは,ヨコワマグロと称して30cmくらいのクロマグロの幼魚を時々売っている。タイもアジもカサゴも,釣り人ならリリースするようなサイズの魚がしばしば店頭に並んでいる。あんな乱獲を,まずもって規制すべきだと思う。また,養殖が可能な魚なら放流によって数を増やせばよい。また,漁業統計の数字が実態を反映しているとは限らない。広島県内のチヌの漁獲高のうち何割かが釣り人によって釣り上げられているという統計もあるが,だから釣り人が釣りすぎだ,とは一概には言えない。漁業者は市場価値が高い時期しかチヌを獲らない,という理由があるからだ。Aは漁業者の権利保護の面が強いが,漁業者自身は魚資源枯渇の問題を真剣に考えているのか?もっと言えば,漁業者は自分の職場としての海の環境を守るべく真剣な努力をしているのか?偏見かもしれないが,釣り船の船頭の中には海がゴミバコであるかのごとく何でもかんでも海に投げ捨てる人が多い。海を守るためには,最終的には海にかかわる人間一人一人のモラルを高めるしかないと思う。

¶ 一方,@については納得できる。しかし,釣り人にマキエを一切使うなというのは,現実問題として無理だと思う。それはちょうど,ドライバーに速度制限を守らせるようなものだ。どうしても守らせたいなら,一番効果的なのは,釣具店でマキエを売ることを一切禁止することだろう。そこまで本腰を入れてやるのなら,それはそれで理解できる。しかし,規則だけ作って実態は野放しであり,たまに思いついたように取締りをして運の悪いヤツだけ捕まえる,というようなやり方をするのだったら,そんな規則はない方がいい。ちょうど警察の取締りと同じで,当局に対する一般市民の反感を増幅するだけだ。

¶ ところで我々釣り人の立場から言えば,「マキエとは何ぞや?」という点をまず決めてもらわないと困る。たとえば,次のような例はどうだろうか?

@ 「マキエとは,集魚効果を有するすべてのものである」という定義をするなら,メバルのエビ撒き釣りはどうか?サシエのエビの一部をマキエにするのもいかん,ということになれば,かぶせ釣りでカキを砕いて撒くのも不可だろう。では,チヌは濁りを好む魚なので,チヌ釣りの際に海砂を撒く人もいる。これもダメなのか?しかし,海で採った砂を海に撒いて何が悪いんだ?砂がいいんだったら,カキだっていいはずだろう。

A「マキエとは,サシエ以外で魚が口にするものである」という定義をするなら,要するに「ハリのついていないエサがマキエだ」ということになる。では,マルキューの「くわせダンゴ」はどうか?これは粉を水で練ったダンゴをサシエとして使うもので,実際に使ったことはないが,本によるとピンポン玉くらいの大きなダンゴをサシエとして使うらしい。要するに,マキエとサシエを兼ねたエサということになる。常識的に考えればダンゴのチヌ釣りのバリエーションだろうが,「このダンゴはマキエではなくてサシエですよ」とも言える。普通のダンゴ釣りにもそれと同じことが言える。一応ダンゴの中にハリが埋まっているのだから,それはサシエと言えなくもない。コイやボラの吸い込み釣りの場合,ダンゴ=サシエと考えるしかない。吸い込み釣りを禁止するというのも変だし,吸い込み釣りが認められるのならチヌのダンゴ釣りも認めざるを得まい。

B「マキエとは,サシエ以外の有機物である」という定義をするなら,カキの身だけを使ったぶっこみ釣りはどうか?こういう釣り方をする人も,けっこういる。その人たちは,海で採ったカキの身を釣り場でむいて,むき身にハリを刺してエサにする。では,余ったカラはどうするか?当然,海に捨てる。これもマキエか?これがマキエでないと言うなら,その捨てるカラを砕いて捨てたっていいだろう?それすなわち,かぶせ釣りである。

¶ 規則を作ったお役人は釣りのことはよく知らないだろうから,「マキエ」と言えばふかせ釣りやサビキ釣りしか頭に浮かばないのだろう。その種のマキエは度が過ぎると海の環境を悪化させるだろうし,そういう釣りに何らかの歯止めをかけたい気持ちは理解できる。ただ,「マキエは禁止」という文面だけを読むと,かぶせ釣りもダメなのか?という疑問も起こる余地はある。現実的には何ら心配してはいないが,我々も規則に違反しているという後ろめたさを持って釣りをしたくはないので,「マキエの定義」はきちんと公開してもらいたい。

¶ ところで,マキエの規制強化が実効を上げる可能性はかなり低い。それは釣り人,釣具メーカー,釣具店,そしてとりわけ遊漁船にとっては大きな打撃になる。関係者の数はあまりにも多い。自分だけがまじめに守っても仕方がない,と思うのが人情だろう。規制には都道府県ごとの格差も大きく,そもそも当局にその規制をどれだけ本気で徹底しようという意志があるのか疑わしい。単なるアリバイ作りじゃないのか?という気さえする。海を保全する最善の方法だと個人的に思うのは,決して禁止規定の強化ではない。規則をいくら作っても,破るヤツは破る。違反者全員を取り締まることができないのなら,規制には実効はない。前から言っていることだが,海を守るための資金を釣り人から強制的に徴収するのがベストだと思う。釣具メーカーの価格に上乗せできないのなら,広島県が独自に「海の環境税」のようなものを条例で作ってはどうか?ギャンブル税と同じように,釣具店の売り上げの一部を税金として納めさせ,その資金で海の清掃や浄化装置・漁礁などの設置を行えばよい。マキエの規制強化は,かぶせ釣り師にはおそらくは直接の影響はないだろう。これが何らかの効果を上げて海がきれいになるのならそれでいいけれど,同じ釣り人として,ふかせ釣りやサビキ釣りを一切やめろ,とは言いたくない。

 

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