最終更新日: 2001/03/01

雑記帳 (社会問題編-@)


 

● 2000/6/26(火)  社会的強者の責任について

 

今日はちょっとマジメに書こうと思う。

ぼくは今でこそヤクザな稼業(笑)についているが,最初に入った職場は役所だった。その初任者研修で「公務員として,一般人以上に襟を正して行動しなければならない」というような趣旨のことを言われて,それは違うんじゃないか?という意見を感想レポートに書いたことがある。当時はこのように思っていた --- 警察官や教師が事件を起すとやたら新聞にデカデカと載るので,あたかもそうした職業に携わる人たちの起す犯罪の率が異常に多いかのように錯覚するが,実際にはそんなことはあるまい。新聞はどうして,一般人が起こした同種の事件は載せないのに,公務員の事件だけを取り上げるのだろうか。誰が起した犯罪であれ,罪の重さに変わりがあるわけじゃないだろう --- たしかぼくらが高校生か大学生の頃,刑法の尊属殺人に関する重罰規定(親を殺した者には一般の殺人より重い刑を課すという規定)が撤廃された,というニュースを聞いたことがある。あれと同じで,公務員のモラルだけが高くあらねばならない,というのはおかしいと思う ---。

しかし今では,考え方が全く変わった。ある意味では当たり前のことだが,「社会的地位と社会的責任とは比例する」と思う。だからたとえば読売や朝日の記事には格段の正確さと客観性が求められるし,日刊ゲンダイや週刊宝石はほとんど何を書いても黙認される,という現実があり,(個人攻撃でない限り)それはそれでいいのだと思う。

自分の考え方がこのように転換した大きなきっかけは,突拍子もない話だけれど,「同和問題」にある。ぼく自身はこの問題に関しては全くの部外者であり,直接の利害関係は何もない。ただ,役所の研修のメニューに入っていたので,否応なく考えを巡らすことになった(広島県は特にこの問題に敏感なので)。そこでかなり長いこと真剣に考えた結果,自分なりに次のような結論に達した。

いわゆる「差別」は,その対象が被差別部落出身者であれ有色人種であれ障害者であれ,あるいは子供の「いじめ」であれ,大きく言えば「攻撃的」なものと「自己防衛的」なものとに分かれると思う。そして現実問題としては,後者(自己防衛的差別)の方がずっと多いんじゃないだろうか。たとえば子供のいじめを考えてみても,ストレスのはけ口として積極的にいじめを行う者はごく一部であり,他の大多数は「下手にかかわって自分もいじめられては困る」という恐怖心から結果的にいじめに荷担しているのだと思う。いわゆる部落差別にも,多分にそういう面がある。だからぼくは,同和問題の課題として「結婚差別」と「就職差別」とが同列に論じられることにどうしても納得できなかった。「周囲に反対されて部落出身者との結婚を思いとどまる人」を非難するのは,あまりにも酷だろう。本人同士は,心情的には結婚したいに決まっている。しかし,「お前があの相手と結婚したら,お前の家族も親戚もみんな差別に遭うぞ」と脅されて,平気で結婚の意志を通せるような人はなかなかいないはずだ。つまり結婚差別というのは,弱者の自己防衛という性格が極めて強い(だから弱者に責任を押し付けるのでなく,部落差別がなくなれば結果として結婚差別もなくなる,と考えるべきだ)と思う。零細企業における就職差別も,図式としては同じだ。しかし,大きな企業は違う。収入の額に応じて税率が上がることからもわかるとおり,我々の社会は「社会のおかげで利益を得た者は,その度合いに応じて相応の利益を社会に還元しなければならない」という暗黙の了解の上に成り立っている。部落出身者や精神障害者を雇用することに(企業サイドから見て)ある種のリスクがあるとしても,「社会的強者」である大企業は,そのリスクを負う社会的責任がそれだけ大きいと思う(結婚差別の場合,その種の社会的強者はほとんどいない)。

--- というわけで,大企業たる自動車メーカーには,古タイヤの不法投棄を防止するようなシステムを考える責任がある。環境負荷の大きいペットボトルを量産する飲料メーカーもしかり。公務員は一般的に社会的強者なのだから,一般人の模範となる姿勢を示すことで,よりよい社会の建設に寄与すべきだ,という理屈は,十分筋が通っている。

そういう意味で,あれだけの大企業の経営者でありながら,自分の会社と球団の利益しか考えない渡辺某という男こそ,日本中で最も非難されるべき人物である。上原をオリンピックに出してやれよ,おっさん。強硬に反対しとるのはアンタだけじゃないか。--- 結局これが言いたいのね,わし。

追記:ぼくは部落差別の解決の必要性自体を否定はしない。しかし,それを学校教育に持ち込むことには賛同できない。我々が中・高校生の頃に受けてきた同和教育は,解放運動家による「洗脳」の域を出るものではなかった。社会的弱者への不当な取り扱い(女性蔑視や子供のいじめも含む)に対する取り組みは道徳教育全般の課題であり,ことさらに「同和問題」を特別扱いする必然性はどこにもない。そもそも,大人にできないことを子供に期待する(子供に未来を変えてほしいと託す)こと自体は悪いことではないが,その期待に応えられないからといって子供を責めるのは,あまりにも身勝手だろう。「いじめに遭っている子を見て知らぬふりをするのは,自分もいじめに加わっているのと同じだ」と子供に説教するのは,ぼくには無責任な教条主義にしか聞こえない。それで本当に自分の子供がいじめられて不登校になったら,誰か責任を取ってくれるのか?だいいち,あんたらは自分の実生活でそうやって「正義の人」を演じているのか?

ちなみにうちの娘は,親であるぼくと同様,小学校で少し前まで「いじめられっ子」だった。ぼくは娘にいろんなアドバイスをした。それらは基本的に「どうやったらいじめられずに済むか」というテクニックの問題,つまり自己防衛のための保身術である。弱者が自己防衛して何が悪い。もしうちの子が「○○ちゃんが仲間外れにされている。私はつき合ってあげてもいいけど,私まで仲間外れにされたら困る」と言ってきたら,ぼくは「今のクラスの中でのお前と友達の人間関係を考えて,大丈夫そうなら(決して自分を裏切らない友人が他にいるなら)その子と付き合えばいいし,ヤバそうなら付き合うのはやめときなさい」とアドバイスするだろう。自分にさえできないことを子供に押し付けるつもりはない。しかし,必要以上の警戒心を抱くあまり何もできない大人になってほしくもない。自分なりの信条やこだわりを大切にしながらも,現在置かれた状況とのバランスを考慮に入れて行動する習慣を,子供らには身につけさせてやりたい。単なる正義感や単なる自己保身だけで動く人間にはなってほしくない。それがわが家の教育方針である。万一娘が将来億万長者にでもなれば,お前の肩にかかる社会的責任はそれだけ重いのだぞ,と言ってやるつもりだ。そんなことはまずないだろうが。


● 2000/4/5(水)  〜くたばれ規制緩和〜

 

この言葉はいろんな場面で使われているけれど,規制緩和ってホントにいいことなのか?と,ずっと前から思っていた。

ぼくらが子供の頃,うちの近所には商店街があった。うちは八百屋で,目の前はまだ田んぼだった。隣は洋服の仕立て屋。2軒隣はパン屋。電気屋,タバコ屋,肉屋,本屋,喫茶店・・・それに映画館。日本のどこにでもある小さなコミュニティーが,そこにもあった。現在うちの実家の八百屋は細々と営業しているが,周りはほとんどサラリーマンの民家とマンションに変貌している。全国で商店街が消えつつあり,その最大の元凶は大型ショッピングセンターの進出にある,と言われる。「大店法」とかいう法律が撤廃されて,大きなチェーン店が全国どこにでも出店できるようになったせいだが,あれはバブルの前の頃だったろうか。消費者の目から見れば,確かに便利になったかもしれない。食料品も薬もカー用品も本も,1つのスペース内を移動するだけで買えれば,楽ではあるだろう。しかし,その影響で店をたたんだ人たちは,今どうしているんだろうか。商店街がなくなれば,地域のつながりも弱くなる。ぼくらが子供の頃,うちの八百屋はいろんな雑貨やお菓子を売っており,子供のたまり場だった。うちの前には空き地があり,いつも数人以上の子供が遊んでいた。今は通学途中以外の子供を戸外で見かけることはほとんどなく,大人も車で移動するので道を歩く人さえ少ない。それらがすべて大型ショッピングセンターやコンビニのせいだとは言わないが,お金の流れの中で鎖の1つの環が失われることによって,将棋倒しに地域社会が衰退していったような気がしてならないのだ。

最近,居酒屋や食堂に行くと,アジア系外国人の店員が多いのに気づく。うちの娘の通う小学校には,近くの工場で働くブラジル人の子女が20人以上在学している。確か日本では,外国人の単純労働は認めてなかったんじゃないのか。別にその人たちを悪く言うつもりは全然なくて,問題にしたいのは「経済や社会を活性化するために,外国人労働者を積極的に雇用すべきだ」という一部の論調である。これも規制緩和の一種だろう。しかしぼくは,この意見には大反対である。外国人労働者を単純労働力として認めてしまったら,経営者なら誰だって賃金の安い外国人を雇うに決まっている。そしたら,職にあぶれた日本人労働者はどうすればいいのか。(いわゆる3K労働は,日本人には就労希望者が少ないので外国人労働者に頼らざるを得ないと以前は言われていたが,この不況ならそんなことはないだろうし,第一ダーティーな仕事は外国人にやらせよう,という発想自体が問題だと思う)

さらに,日本という国が外国でしていることとその影響を見聞きするたび,同じ日本人として恥ずかしい思いでいっぱいになる。たとえばマツタケであり,エビである。中国のある村では,日本の商社が大量の天然マツタケを買い付けに来て「マツタケ・バブル」が起こり,それまで平和に暮らしていた人々が金銭欲のカタマリとなって地域社会が崩壊したとか。あるいは東南アジア各地では日本人向けのエビの大量養殖が自然破壊を助長しているとか。はたまた日本向け携帯用コンロの固形燃料の輸出のためマングローブ林が伐採されているとか。マグロも,カズノコも,クジラも,タラガバニも・・・要するに日本人の欲望が,世界中の人々に不幸をふりまいている,という図式が現実にある。これも元をただせば,輸入自由化という規制緩和の産物である。そう言えば,コメだってそうだ。コメについては外圧で無理やり自由化させられたというよりも,結局は自動車その他の輸出で生じた貿易黒字(アメリカ側から言えば赤字)を「損失補填」するためにコメその他の農林水産物が犠牲にされたにすぎない。「日本の農家も国際的な競争力をつけるべきだ」だと?たわけたこと言ってんじゃねーよ。生活(賃金)水準が100対1くらいの国と競争して,勝てるわけねーだろが。

結局「規制緩和」というのは,強いものがますます栄えて,弱いものはドロップアウトしていく,という弱肉強食の社会システムを助長する元凶にしかすぎないような気がする。それが人間や社会の発展の必然なのだ,と達観する人もいるだろうが,そうした規制緩和が進んだここ20〜30年の間に,我々の暮らしは豊かになったと言えるのか?今回ちょっと硬いことを書いてしまったけれど,わたくしは基本的に「規制緩和」には反対である。この世から大型ショッピングセンターとコンビニがすべてなくなってしまえば,我々の生活の質はもっと向上するんじゃないか,と心底思う。

 

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