最終更新日: 2009/10/18

雑記帳 (社会問題編-I)


 

◆ 2009/10/18(日) 鞆の浦問題の教訓

 

福山市・鞆の浦は,今年全国的に有名になった。

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9E%86%E3%81%AE%E6%B5%A6%E5%9F%8B%E7%AB%8B%E3%81%A6%E6%9E%B6%E6%A9%8B%E8%A8%88%E7%94%BB%E5%95%8F%E9%A1%8C

 

おおざっぱに要約すると,次のようになる。

 

●県・市は以前から港を埋め立てて橋をかける計画を進めていたが,地元の完全な

   同意は得られていなかった。(ただし地元には工事賛成派が多い)

●これに対して「貴重な文化遺産を保護するために工事を中止すべきだ」という声が

   国内外から上がり,地裁は工事にストップをかける決定をした。

●県・市はこれに反発し,2009年10月15日に高裁に控訴した。これについて,上記

(ウィキペディア)には次のようにある。

 

控訴した理由として広島県土木局長は「景観に配慮し計画を練ってきた。(福山)市議会も

計画推進の決議をしているので、裁判に関係なく今後も計画を継続したい」とし、判決に

ついては「今後の公共工事全般に甚大な影響があり、到底容認できない」と批判した。

 

この問題に限って言うなら,県・市の主張は「本音を隠している」という印象を受ける。

本音とは何かと言えば,「鞆に文化遺産としての価値がたとえあったとしても,

それは我々(県・市)には関係のないことだ」という考え(組織論)である。

 

その姿勢自体を非難することはできない。文化財を保存するのは国の仕事であって,

地方自治体はそういう問題を考える当事者ではないからだ。

 

このように割り切って考えれば,「鞆の浦問題」の何が問題なのかは自明である。それは,

 

意見が対立する問題において,片方の利益だけを代表する人々が,

『行司役』(是非の判断の主体)になってはならない

 

ということだ。現状では国土交通大臣が待ったをかけているために,この問題は膠着

状態になっている。国土交通省も文化財保護の責任者ではないのだが,地元の利益

だけを一方的に考えればよいという立場でもない分,まだ中立性が期待できる。

県が「計画を継続したい」と希望するのはかまわないが,実行するかどうかの判断は

県や市ではない別の誰かが行うべきだ。

 

なお,県・市は自分たちの守備範囲で最善の努力をしようとしているように見えるが,

今回の地裁判決に対する県・市の反論には,疑問を感じる点が2つある。

 

第1は,「景観利益の判断基準があいまいだ」という主張である。これは一見もっともらしい

反論に思えるかもしれないが,残念ながら県・市にはそう主張する資格がない。なぜなら,

彼ら自身が既に同じ過ちを犯しているからである。ウィキペディアにもあるとおり,県は

工事による景観の変化について,次のように主張している。

 

「計画は自然景観の構造を大きく変えるものではなく、景観にも配慮しており損失は小さい。」

 

しかし,「損失は小さい」と主張する根拠は何か?と問われれば,彼らとて明確に答えることは

決してできないだろう。つまり,今回の裁定で,仮に裁判所が景観利益なるものを「不当に」

重視したのだとしても,県・市はそれと全く同様に「不当に」景観利益を軽視している,と言う

ことができる。だから,この点に関しては「どっちもどっち」である。

 

似たようなことは,たとえば埋め立てや原発の建設前のアセスメントにおいて,当局がしばしば

「工事が環境に与える影響は軽微である」と推定するようなケースにも見られる。しかし,

自然環境への影響という点については,諫早湾の例を見るまでもなく,事後にその予測が

正しかったかどうかが明確に形となって現れる。これに対して「景観の変化」は限りなく

主観的なものであり,「工事の後で景観が変わったかどうか」は見る人によって評価が異なる。

つまり,景観利益を定量的に表す明確な基準を作ることは,実質的に不可能である。しかし,

だからといって,景観利益を無視してよい,ということにはならない。

 

第2は,「公共工事そのものができなくなる(おそれがある)」という主張である。

ロジカルに言えば間違ってはいないが,常識的に言ってこの主張には共感できない。

それはちょうど,「原発から放射能が漏れる恐れはゼロではない」とか,「子どもが転落

しないようにすべての川土手に柵を設けるべきだ」とか,「優勝しなければ2位でも最下位

でも同じだ」といった,極端な二元論を持ち出す人々と同じ発想である。

 

話が横道にそれるが,この種の「ダメ二元論」の典型例としてすぐに連想されるのは,

「言論の自由」という言葉を安売りする人々である。その一例が,最近話題になっている,

光市の母子殺害事件の犯人の少年を実名で記した本の出版に関する議論だ。

念のため,新聞記事(毎日新聞=9月29日付け)を見ておこう。

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20090928ddm041040041000c.html

山口・光の母子殺害:来月、ルポ出版 元少年を実名で表記

 

山口県光市母子殺害事件を巡り被告の元少年(28)を実名で表記したルポルタージュ本が

10月1日に発売される。著者で一橋大学職員の増田美智子さん(28)は「『元少年』という

表記は記号であってイメージがわかない。一人の人間としての彼を感じてもらうために、被告の

承諾を得て実名表記を決めた。『元少年』という表記は彼への人権侵害ではないか」と話している。


本はインシデンツ(東京都日野市)が出版、タイトルは「A(元少年の実名)君を殺して何になる」。

08年4月、現在の職に就く前のフリーライター時代に取材を始めたという。元少年とは25回の

接見や手紙のやり取りを重ね、元同級生など周辺者へ取材した。増田さんは「裁判になった

少年の氏名などを出版物に掲載することを禁じている少年法に反するのではとの指摘もあるが、

面会を重ねて、一般の人が想像する元少年のイメージとズレがあるのではないかと感じた」と

話している。インシデンツの代表でジャーナリストの寺沢有さんは「加害者も人間。名前は事件の

全体像を知るうえでの要素」と話した。

この事件に関して「言論の自由」を持ち出す向きもあるが,言わせてもらえば,こんなものは

議論するに値しない。少年の同意があろうがなかろうが,著者と出版社が100%悪いと思う。

本の出版の動機が,著者の功名心と出版社のセンセーショナリズム(扇情主義)にある

ことは,ほぼ間違いない。上の記事で筆者と出版社サイドが提示している出版の理由づけが

いかに苦しい「言い訳」であるかは,誰の目にも明らかだ。筆者の年齢が28歳というのも,

この推測を裏付ける有力な傍証になる(この年齢の学者なら,さぞ野心に燃えているだろう)。

 

もう一度鞆の浦問題に立ち返って,別の角度から一般化を試みてみよう。

広島県には,似たような問題がもう2つある。それらを表にまとめると,次のようになる。

問題

賛成派

反対派

@鞆の浦の埋め立て工事

県・市・多くの地元住民

(生活重視)

全国の市民団体など

(文化遺産重視)

A広島市民球場の跡地に公園などを作る案

(国際都市志向)

地元経済界

(経済の活性化志向)

B広島飛行場(旧広島空港)の存続

地元経済界

(交通の利便性重視)

(予算の効率化志向)

 

 

Aは,広島市の出した計画に対して,地元は「もっと集客(商業)施設がないとダメ」と反論している。

Bは,現在の広島空港(東広島市)は広島市内からのアクセスが悪く,地元経済界は「市内(宇品)にある

旧広島空港から東京への直行便の復活」を求めている。

 

これらに共通しているのは,(当たり前のことだが)対立の一方の当事者は「地元」である,ということだ。

これは広島に限ったことではなく,八ツ場ダムも普天間飛行場も上関原発も同じである。そしてもう1つ

重要なポイントとして,「地元を100%満足させようと思えば,それと引き換えに何かしらの大きな

損失が生じる」という点も忘れてはならない。たとえばBで地元の意向を100%取り入れようとすれば,

その代償として現在の広島空港の経営は深刻な打撃を受けるだろう。

 

最近マスコミを騒がせている八ツ場ダムも同じだ。端的に言えば民主党は「限られた予算をダムに

回さずに他の事業に使おう」と言っているのだから,カネが回って来なくなるダム建設予定地の住民が

怒るのは当たり前のことだ。しかし,地元が怒っているからといって民主党を批判するのは間違っている。

鞆の浦の計画に立ち返って言うなら,「道路が狭い」という現実を改善する最も安上がりな方法は,

「一部の住民に立ち退いてもらって,道路を広げる」ことである。福山市はその方法について,

「(立ち退き対象となる)地権者の理解が得られなかったから」港を埋め立てる,と言っているが,

うちの近所でも道路を広げるために実質的に立ち退きを強要されている家はある。

誰かの利益になることは,誰かの損になるのが普通だ。利害関係者のうち一方の言い分だけを

聞いていたのでは,正しい判断はできない。ここで注意が必要なのは,たとえば鞆の浦問題では,

県や市は「(地元サイドに味方する)一方の当事者」であって,中立の立場ではないということだ。

もっとシビアな言い方をするなら,県や市が言う「地元の生活の便の向上」という理由付けはウソでは

ないが,それだけが工事の動機ではないだろう。2004年に新たに就任した福山市長が鞆の出身だった

ことから凍結されていた計画が再び動き出したという事実や,(航空写真を見れば明らかなように)

港を埋め立てることによって幹線道路が完成する仕組みがずっと前からできていたことも,県・市が

ここまで工事の推進にこだわる背景にはあるだろう。しかし,かりにも自治体の長が,「道路の幅を

広げないと鞆はゴーストタウンになってしまう」と言わんばかりの極論を吐くのは感心しない。

 

逆に,「貴重な文化財だから絶対に保存しなければならない」とも一概には言えない。

要は,カネ以外の面も含めた「損得勘定」の問題だろう。景観利益のような定量化できない要素を

含めて損得勘定を査定するのは難しいが,最終判断を下す主体が(一方の当事者である)県や市で

あってはならない。より中立性が期待できる裁判所が「ダメ」と言ったのなら,県・市はそれに従うのが

筋だと思う。

 

要するに「鞆の浦問題の教訓」とは,「意見の対立する問題については,より中立な立場で

問題を見ることのできる第三者が判断を下す方がよい」ということだ。テレビの討論番組の

ように当事者同士がケンカをしても,お互いの立場を理解して譲歩することはまずありえない。

この雑記帳でたびたび言っているように,議論では物事は解決しないのだ。

 

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