最終更新日: 2015/3/1

雑記帳 (社会問題編-O)


 

◆ 2015/3/1(日) 教育勅語を考える

 

中国新聞の1面の下段に,マイナーな出版社の怪しい本の広告がよく載っている。

これを見るのが好きだ。こんないかがわしい本を誰が買うんだ?とツッコムのが楽しい。

もっとも,自分の本もここの広告欄に載ったことがあるが。

 

その中で,1冊の本が目に止まった。

逆にしたらよくわかる教育勅語 -ほんとうは危険思想なんかじゃなかった」という本だ。

何なく中身の想像がつく本だが,案の定というか…

筆者のHPをのぞいてみると,こんなことが書いてある。

http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=779

世の論者、曰く「戦前の日本には教育勅語という危険な思想が蔓延していた。」と。

どうやら教育勅語で明治天皇が臣民にお命じになったことは危険思想らしい。

そこで、「逆・教育勅語」というのを考えてみた。

一、親に孝養をつくしてはいけません。家庭内暴力をどんどんしましょう。

二、兄弟・姉妹は仲良くしてはいけません。兄弟姉妹は他人の始まりです。 

三、夫婦は仲良くしてはいけません。じゃんじゃん浮気しましょう。 

四、友だちを信じて付き合ってはいけません。人を見たら泥棒と思いましょう。 

五、自分の言動を慎しんではいけません。嘘でも何でも言った者勝ちです。 

 

以下,この調子で続く。(全部で12項目ある)

要するにこの人が言いたいのは,「逆にして考えたら,明らかに間違ってますよね。

だから,もとの教育勅語は正しいのです」ということらしい。

念のために,本物の教育勅語はこうなっている。(ウィキペディアより)

父母ニ孝ニ (親に孝養を尽くしましょう)

兄弟ニ友ニ (兄弟・姉妹は仲良くしましょう)

夫婦相和シ (夫婦は互いに分を守り仲睦まじくしましょう)

朋友相信シ (友だちはお互いに信じ合いましょう)

恭儉己レヲ持シ (自分の言動を慎みましょう)

博愛衆ニ及ホシ (広く全ての人に慈愛の手を差し伸べましょう)

學ヲ修メ業ヲ習ヒ (勉学に励み職業を身につけましょう)

以テ智能ヲ啓發シ (知識を養い才能を伸ばしましょう)

コ器ヲ成就シ (人格の向上に努めましょう)

進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ (広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう)

常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ (法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう)

一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ 

(国に危機があったなら自発的に国のため力を尽くし、それにより永遠の皇国を支えましょう)

 

まさかとは思うが,この「逆・教育勅語」の著者(倉山満氏)のバカ丸出しの

主張に対して,「そうだそうだ,そのとおりだ」と思う人が世の中にいるのだろうか?

というか,大勢いるんだろうなあ。嘆かわしいことだ。

おまえら,何のために学校へ行ったんだ!と言いたいよオジサンは。

 

断っておくが,オジサンが直感的に思ったことは,教育勅語の中身そのものとは関係ない。

この著者の言っていることが「知性的でない」というのが率直な感想だ。

ただし,本人はそれを十分知った上で,愚かな(と彼自身が思っている)大衆を

扇動して自分の名を上げたいだけかもしれない。もしそうなら,頭が悪いとは言えない。

 

これを読んでいる皆さんは,まさか彼の主張に納得したりはしませんよね?

本当に念のためですが,以下に解説しておきます。

 

父母ニ孝ニ (親に孝養を尽くしましょう)

 

教育勅語の最初に出てくるこの項目について,倉山氏は「逆に考えるとこうなる」と言う。

 

親に孝養をつくしてはいけません。家庭内暴力をどんどんしましょう。

 

違うよね。

 

「親孝行をしましょう」の逆は,

「親孝行をしてはいけない」ではない。

「親孝行を(しても)しなくてもよい」だ。

 

ウィキペディアでは(おそらく批判を配慮して)「孝養を尽くしましょう」と表現しているが,

上の本物の教育勅語の最後を見ると「…皇運ヲ扶翼スヘシ」となっている。

つまりこの文章は全体で1つであり,12の項目を並べて最後に「〜しなさい」と

命令しているわけだ。

だから,正しい「逆・教育勅語」とは,次のようなものになるはずだ。

1.親に孝養を尽くさないことは許されます。

2.兄弟・姉妹が仲良くしないことは許されます。

3.夫婦が互いに分を守り仲睦まじくしないことは許されます。

4.友だちがお互いに信じ合わないことは許されます。

5.自分の言動を慎まないことは許されます。

 

言うまでもないことだが,たとえば「この仕事は今日中にやらなくちゃいけませんか?

と君が上司に尋ねた場合,上司が君にする返答は次のどちらかだ。

(A)イエス。今日中にやれ。(You must do it today.)

(B)ノー。今日中にやらなくていい。(You don't have to do it today.)

中学の英語では,「(A)の逆は(B)だよ。You mustn't do it today.(今日中にやっては

いけない)じゃないから気をつけるように」と教える。つまり(B)は,「今日中にやっても

いいし,やらなくてもいい」という意味だ。これを「逆・教育勅語」の第1条に当てはめると,

あなたは親孝行してもいいし,しなくてもよろしい」ということになる。

 

さて諸君。これらは「間違っている」だろうか。もしこれらが間違っていないと思うのなら,

論理的に考えて,あなたは元の教育勅語の方が正しくないと思っていることになる。

以下の議論では,まず教育勅語の最初の徳目(道徳の項目)である「親孝行」について

考えてみたい。

 

◆ 「親孝行すべきだ」という道徳は成り立つか?

この問いに答えるには,「道徳が成り立つ」とはどういう意味かを確認しておく必要がある。

ここではそれを「『〜すべし』という文言が(社会常識から考えて)ほぼ全員に適用できる」と

定義しておこう。

その定義に沿って言うなら,「親孝行すべきだ」という徳目は,現代の日本では成り立たない

ちょっと考えればわかることだ。この徳目が成り立つと考える人は,次の疑問に答えねばならない。

親から虐待を受けている子どもでも,親孝行すべきなのか?

この疑問に対してイエスと答える人がいるなら,道徳を学ぶ必要があるのはアンタの方だ。

逆にこの疑問に対してノーと答えるなら,「親孝行」という徳目は成り立たないと認めることになる。

なぜなら,上の青字の定義に抵触するからだ。

ここで「ほぼ全員」という文言が重要になってくる。おそらく明治時代の日本なら,親孝行という

徳目は成り立っていたのだろう。それは,ほぼすべての親が「孝行されるに値する」存在だったから。

言い換えれば,(あくまで想像だが)昔の親はほぼ全員が自分の子どもを愛していた。

「孝行されるに値しない親」は,まあ100人に1人くらいだったろう。だから「親孝行しなさい」と

いう言葉に誰もが納得できた。大切に育ててもらった親に恩を返すのは当然だ,という意味で。

しかし今では,「孝行されるに値しない親」の比率が上がってしまった。10人に1人くらいかな?

「9割の人には適用できるが,残りの1割には適用できない」ような徳目は,もはや徳目ではない。

上に青字で定義したとおりだ。言い換えれば,青字の定義を別の定義に置き換えれば,親孝行と

いう徳目は成り立つ。その定義はたとえば「9割以上の人に適用できる文言」だ。当然,残りの

1割は道徳の対象外,つまり「道徳を知らなくても許される=親孝行しなくてもよい」ことになる。

しかし,道徳の重要性を説く人々は,そんな人間の存在を決して許さないだろう。

結局,親孝行という徳目を正当化するためには,「育児放棄する親が少なからずいる」という

現実を無視せざるを得ない。そこに,道徳教育推進論者たちの本質的な問題点がある。

 

◆ 「子孝行すべきだ」という道徳は成り立つか?

多くの人は,「育児放棄した親にまで孝行する必要はない。親の方が悪いのだから」と思うだろう。

そうすれば必然的に,「親の方に道徳を教えるべきだ」という発想が出てくる。

そこで,「親は子を大切に育てるべきだ」という徳目を設定してみよう。これは成り立つだろうか?

結論を言えば,この徳目も成り立たない。ただし,親孝行が成り立たない理由とは違う。

親孝行は「成り立たないケース(育児放棄)」があるが,「子孝行」にはそんなケースは思い浮かばない。

では,なぜ「子孝行」は成り立たないのか?ここで,徳目が成り立つもう1つの条件が見えてくる。

<徳目が成り立つ条件>

@社会のほぼ全員に適用できる。(上で述べたとおり)

A実際にはそれを実行できていない人が多い。

考えてみれば当たり前の話だ。たとえば「健康を大切にすべし」という徳目は成り立たないが,

それはAの条件を満たさない(言われなくても誰でも健康は大切にしている)からだ。

「子孝行」もそれと同じで,@の条件は満たすがAの条件を満たさない。

逆に言えば,教育勅語の第1条に「親孝行」が出てくるのは,この徳目が当時Aの条件を

満たしていた,つまり当時も「(この徳目を作った人から見れば)親孝行しない子ども」が

大半だったということを意味している。もっとも現実には,親孝行の延長として「国への忠誠心」

を養うことに主眼があったのだろうが。

ここまでの話で言いたかったのは,価値観の多様化した現代社会では,親子関係のような

プライベートな問題を道徳で縛ることはできない,ということだ。

 

◆ 性善説と性悪説の問題

文言から察するに,教育勅語は基本的に次のような思想に立脚している。

(A)国民一般に対しては性悪説

(B)敬愛の対象となる者に対しては性善説

(A)について言えば,教育勅語を教え込まれるべき一般国民は「指導しなければ怠けてしまう」

ものとしてとらえられている。だから「〜すべし」という文言になっているわけだ。

一方,敬われる側,つまり親・友人・夫や妻・国家は「常に正しいもの」としてとらえられている

そりゃそうだ。正しくない者を敬めという言葉に説得力がないのは,育児放棄する親を考えればわかる。

しかし言うまでもなく,(A)と(B)の間には矛盾がある。親・友人・夫や妻は,国民一般の構成員だ。

要するに教育勅語は,「君たちは国が指導しなければ堕落する怠け者だ」と言っておきながら,

「怠け者同士でお互いを尊敬し合え」と言っているわけだ。そんな言葉に説得力はない。

じゃあ,なぜそんな無理な徳目を持ち出したのか?

たぶん「身近な人たちを敬う気持ちが,最終的に国を敬う気持ちにつながる」と考えたからだろう。

その思想が正しいかどうかについては,ここでは詮索しない。そう思いたい人は思えばいい。

少なくとも言えるのは,(B)は常識的に考えておかしい,ということだ。

「敬愛の対象となる者が常に正しい」わけがない。今も昔も同じだ。

人間が大勢集まれば,その中にはヘンな人も一定数含まれている,と想像するのが自然だ。

たとえば教師。昔の教師は尊敬されていた?夏目漱石の「坊ちゃん」を読んだことあるだろ?

たとえば警官。戦前の警官がどんなことをしたか,本やなんかで読んだことあるだろ?

そして,国家。先の戦争で,国は日本国民に何をしてくれたのか?あるいは何をしでかしたのか?

これも人によって意見が違うだろうから詮索しない。ただ,国家とは実質的には政府であり,

政府は人間の集まりだ。その人間の中には当然,ヘンな人も一定の比率で含まれている。

だから「政府が常に正しい」とは言えない。そんなことは,言われなくても誰でも知っている。

要するに,教育勅語の前提となっている「敬愛の対象となるものは常に正しい」

という思想は間違っている

さらに突っこんで言えば,心の弱い人間ほど「絶対的に正しいもの」を求めたがる。

オウム信者しかり,ネット右翼しかり。深く考えるのがこわいから,楽な結論に逃げ込むのだ。

自分にとって「正しいもの」をいったん決めてしまえば,あとは何も考えなくてすむ。

それはただの怠け者にすぎない。「国家は正しい。だから従え」−実にシンプルな徳目だ。

しかし現実には,国家は常に正しいわけではない。それはちょうど,「親は常に孝行に

値するわけではない」というのと同じくらい自明のことだ。

 

◆ 道徳を学ぶ必要があるのは誰か?

今日の「不登校」という現象は,かつては「登校拒否」と呼ばれていた。

当時の文部科学省は「学校に行かないことは悪いことだ」と認識しており,子どもを学校へ

来させるよう教師を指導していた。しかし,教育専門家の批判や教育現場の実態を考慮して,

ある時期に大きく方向を転換した。今日では文部科学省を含む教育関係機関と関係者の

ほぼすべてが「無理をして学校へ通う必要はない」という認識で一致している。

「登校拒否」という言葉が問題になったのは,「子ども本人の意志で登校しないことを選んだ」

ように響くからだ。実際はそうではなく,「行きたくても行けない」事情を抱えている子が多い。

この過程が我々に与える1つの教訓は,「自分の意志ではどうにもならないことが,世の中

ではよく起こる」ということだ。そういうケースでは,(学校へは通うべきだという)道徳を

説いても意味がない。ここに,道徳に関する路線対立の根源がある。つまり,

理想主義者(≒道徳教育推進論者)は,何でも「心の問題」に帰着したがる。

現実主義者は,「心で解決できること」よりもそうでないことの方が多いと考える。

どちらの立場をどの程度取るかは,人によって違うだろう。

ちなみにオジサンは,かなり現実主義者寄りだ。

たとえば「いじめの問題は道徳教育で解決できる」という発想には賛同しない。

しかし「心の強さ」のようなものが一切不要か?と問われると,そうは思わない。

少なくとも言えることは,「不登校は本人が怠け者だからだ」とか「いじめられるのは本人が

弱いからだ」のように考える人にこそ,道徳教育は必要だろうと思う。そういう人はえてして,

自分が絶対正しいと思っていて,まわりに責められても自分の非を認めようとしない。

現実主義者には客観的な事実という判断基準があるが,理想主義者の頭にあるのは

目に見えない理想であり,(ほかに比べるものがないために)いくらでも美化できるからだ。

そういう人にこそ,「相手の立場に立って物を考えなさい」という道徳が必要だと思う。

なぜなら,そういう人は,自分のことは棚に上げて他人を批判したがる傾向が強いから。

教育勅語には,「兄弟姉妹は仲良くせよ」「自分の言動を慎め」「広くすべての人に

慈愛の手を差しのべよ」なんていう教えがあるが,教育勅語復活論者たちは自分が

その教えを正しく守っていると胸を張って言えるのかを考えてみればいい。

自分にできない(できなかった)ことは,自分の子どもにもできないのだよ。

 

参考までに触れておくと,道徳が学校で正式教科になることが決まったが,その発端は

一部の保守政治家たちが「上から教える道徳」の重要性を強調したことによる。

しかし有識者会議では,多様な価値観を自発的に育てることを道徳教育の目標とした。

ここにも理想主義者と現実主義者との路線対立が見て取れる。(今のところ後者の勝ちだ)

そして,教育の専門家は現実主義路線を取り,よく物のわかっていない素人は理想主義に

飛びつく。素人にとってはその方が楽だからだ。「教育というものはこうあるべきだ」という

自分だけの理想を口走っていれば,細かいことは考えなくて済むからね。「教育」の部分に

「夫婦」とか「女」とかを入れてもいい。そういう人は万事をそういうふうにとらえるものだ。

 

最後に,今日の社会に適した徳目があるとすれば,それはどんなものかを考えてみた。

以前日記帳に書いたのと同じ,次の5項目だ。自分の子孫にはこれを家訓として残したい。

1.自分を愛しなさい。

2.他人を許しなさい。

3.自分の頭で考えなさい。

4.責任感を持ちなさい。

5.自由でありなさい。

 

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