最終更新日: 2015/12/20

雑記帳 (社会問題編-S)


 

◆ 2015/12/20(日) 選択的夫婦別姓制度の判決に思うこと

 

この問題には前から関心を持っていたが,今回の最高裁の判決は意外だった。

「選択的夫婦別姓制度は認めるべきだ」という判決が出るに違いない,と予想していたからだ。

報道によれば,最高裁の15人の判事の意見は,現行の(夫婦同姓を義務づける)制度を是とする

人が10人,否とする人が5人だった。前者の10人に対しては,「合理的判断」というものを

一体どう考えているのか?という強い疑問を抱かざるを得ない。

最高裁の判事の判断にケチをつけるとは,お前は何様だ?と批判されそうだが,まあ聞いてほしい。


 

■今回の判決に対する感想

まず,判決が出た翌日(12月17日)の中国新聞に載った「判決要旨」を正確に再掲しておく。

要旨は新聞記者が書いたものだから不正確かもしれないが,本文は長すぎて読む気にならないので,

以下の(多数意見の)要旨が正しいことを前提として議論を進めることにする。

後の説明のために,段落ごとに番号を振っておいた。

 

(1)夫婦や子どもが同じ姓を名乗ることには合理性がある。どちらの姓を名乗るかは夫婦の協議に

委ねられており,民法の規定に男女間の形式的な不平等は存在せず,法の下の平等を定めた

憲法14条に違反しない。

(2)夫婦が同じ姓を名乗る制度は日本社会に定着している。家族は社会の自然かつ基礎的な

集団単位と捉えられ,その呼称を一つにするのは合理的だ。

(3)一方,結婚して姓を改めた人がアイデンティティーの喪失感を抱いたり,社会的信用や評価の

維持が困難になったりするなどの不利益を受けることは否定できない。夫の姓を選ぶ夫婦が

圧倒的多数を占める現状では,妻となる女性が不利益を受ける場合が多いとみられる。

あえて結婚しない選択をする人もいる。しかし,現在の制度が旧姓を通称として使用することまで

許さないわけではなく,通称使用が広まることで不利益は緩和される。

従って,別姓を禁じた規定が個人の尊厳と男女の本質的平等に照らして合理性を欠く制度だと

認めることはできず,自由意思による結婚や男女平等を定めた憲法24条には違反しない。

(4)これらの判断は,いわゆる選択的夫婦別姓制度に合理性がないと断ずるものではない。

この種の制度の在り方は,社会の受け止め方に依拠するところが少なくなく,国会で論じられ,

判断されるべきだ。規定を改廃する立法措置を取らない立法不作為は違法ではなく,賠償請求は

認められない。

 

これらの説明の「合理性」を,1つずつ検証していくことにしよう。

 

(1)夫婦や子どもが同じ姓を名乗ることには合理性がある。どちらの姓を名乗るかは夫婦の協議に

委ねられており,民法の規定に男女間の形式的な不平等は存在せず,法の下の平等を定めた

憲法14条に違反しない。

検証1:「夫婦や子どもが同じ姓を名乗ることには合理性がある」という文言について。

判決本文にもしこう書いてあるのだとしたら,この裁判官たちは合理的判断ができない(あるいは

悪意を持って論点をごまかしている)と断定してもかまわない。主語の選択が不適切だからだ。

この問題の本質をふまえて表現するなら,こうでなければならない。

× (a)夫婦や子どもが同じ姓を名乗ることには合理性がある。

○ (b)夫婦や子どもが同じ姓を名乗るのを義務づけることには合理性がある。

(a)にはある程度納得する人でも,(b)については「そうだろうか?」と思うはずだ。

この問題の本質はここにある。(詳細は後述)

検証2:「どちらの姓を名乗るかは夫婦の協議に委ねられており,民法の規定に男女間の

形式的な不平等は存在せず」というくだり。これは,法理論としては合理的なのかもしれない。

しかし,理念的すぎて現実に目を向けていない(それを本人たちが自覚しているから「形式的な」

という言い訳を加えているのだろう)。こんな理屈が通るなら,たとえば「警察の取り調べを可視化

すべきだ」という主張も完全に否定されるだろう。なぜなら被疑者には黙秘権が認められている

のだから,(あくまで形式的には)可視化しなくても被疑者に不利益が生じる余地はない。

 

(2)(A)夫婦が同じ姓を名乗る制度は日本社会に定着している。(B)家族は社会の自然かつ基礎的な

集団単位と捉えられ,その呼称を一つにするのは合理的だ。

検証:これも同じ。問題は「呼称を一つにすること」が合理的かどうかではない。「呼称を一つにする

のを強制すること」が合理的かどうかだ。そして「呼称を一つにするのを強制するのは合理的だ」と

いう結論の根拠はどこにあるのか?普通に読めば「(A)が(B)の根拠だ」という解釈しかできない。

つまり「夫婦が同じ姓を名乗る制度は日本社会に定着している。だから夫婦同姓を全国民に強制

するのは合理性がある」ということだ。しかし,こんなロジックに「合理性」があるわけがない。

こういう理屈が通るなら,たとえば「たばこが健康に悪いという意識は日本社会に定着している。

だからたばこの販売を禁止することには合理性がある」という主張も成り立つだろう。

 

(3)一方,結婚して姓を改めた人がアイデンティティーの喪失感を抱いたり,社会的信用や評価の

維持が困難になったりするなどの不利益を受けることは否定できない。夫の姓を選ぶ夫婦が圧倒的

多数を占める現状では,妻となる女性が不利益を受ける場合が多いとみられる。あえて結婚しない

選択をする人もいる。しかし,現在の制度が旧姓を通称として使用することまで許さないわけではなく

通称使用が広まることで不利益は緩和される。

検証:これはひどすぎる。何て見苦しい言い訳だろう。この文面をどう読んでも,「結婚で姓を変えた

人が不利益を受けることもあるが,その不利益を解消する責任は裁判所にはない」という意味にしか

解釈できない。じゃあ原告は何のために裁判を起こしたんだ?という話になる。こんな理屈が通るなら,

いわゆる「1票の格差」だって同じ理由で否定できるだろう。「票の重みに不平等があるのは事実だが,

それを是正するのは裁判所の責任じゃない」と言えばいいのだから。しかし実際には最高裁は,

この問題について何度も違憲判決を出し,国会に是正を促しているではないか。

また,「あえて結婚しない選択をする人もいる」という文言にも,時代錯誤のバイアスが見てとれる。

この文面を書いた人は「男女は結婚するのが当然だ」と考えているが,その意識そのものが問題なのだ。

さらに上の文章には,論理矛盾も含まれている。「現在の制度が旧姓を通称として使用することまで

許さないわけではなく」というくだりだ。「通称」とは非公式の名前という意味だ。非公式の名前を使うことに

対して「許す」も「許さない」もない。たとえ「旧姓を使ってはならない」というルールを作ったとしても,

そのルールを無視して使うから「通称」なのだ。よく考えてほしい。「旧姓を公式な名前として使用する

ことを許さない」ということはありうる。しかし,「旧姓を『通称として』使用することを許さない」ということは,

「通称」という言葉の意味から考えて原理的にありえない。論理矛盾とはそういうことだ。

 

(4)従って,別姓を禁じた規定が個人の尊厳と男女の本質的平等に照らして合理性を欠く制度だと

認めることはできず,自由意思による結婚や男女平等を定めた憲法24条には違反しない。

検証:(1)〜(3)のどこから「すべての夫婦に同姓を義務づけることは合理的だ」という結論が導かれるのか?

さっぱりわからない。あえて理由を探すなら,(2)にある「夫婦が同じ姓を名乗る制度は日本社会に定着して

いる」という点しかないだろう。しかしその認識は,世論調査の結果から見ても大いに疑わしい。半分強の

人々が選択的夫婦別姓に賛成しているのだから。

 

参考までに,裁判長の見解(要約)も見ておこう。

寺田逸郎裁判長の補足意見

人々が求めるつながりが多様化するにつれて規格化された仕組みを窮屈に受け止める傾向が出てくるが,

制度に選択肢が設けられていないことの不合理を裁判の枠内で見いだすことは困難であり,むしろ,

国民的議論,民主主義的なプロセスで合理的な仕組みを決めることこそ,ふさわしい解決だ。

検証:これもおかしい。この裁判長のロジックは,「該当する法律がないのだから,法的な妥当性の判断を

裁判所が行うのは難しい」と解釈できる。しかし,該当する法律がなくても,裁判によって実質的に権利を

勝ち取るケースは山ほどある。たとえば「環境権」は法的に認められた権利ではないが,日照権や景観を

守る権利はしばしば裁判で実質的に認められているではないか。

 

対比のために,選択的夫婦別姓制度を認めるべきだという少数意見を出した判事の見解も挙げておく。

合理的判断とは,こういうものを言うのだ。

木内道祥裁判官の意見

同じ姓でない夫婦は破綻しやすく,子の育成がうまくいかなくなるという根拠はないのだから,例外を

許さないことに合理性があるということはできない。不利益を緩和する選択肢として,多数意見は

通称を挙げるが,法制化がないままでは合理性の根拠とはならない。国会の裁量権を考慮しても,

制度は裁量の範囲を超えるものである。


 

■「権利」とは何か

ここで,視点を変える。この問題については自民党の一部の政治家の抵抗が大きいというのは

前から言われているが,そういう政治的な話は棚上げして,「権利」とは何だろう?ということを

正面から考えてみたい。

およそ「権利」が問題になるとき,必ず「利害の対立」がある。つまり,ある人の権利を認めることは,

別の人の権利を侵害したり制限したりことを意味する。だから権利というものは,無制限に認めれば

いいというものではない。ある権利を認めるかどうかは,対立する利害のバランスをどう判断するかに

よって決まる。

わかりやすい例として,嫌煙権を考えてみよう。

嫌煙権を認めれば,その代償として「喫煙権」が制限される。したがって嫌煙権を認めるかどうかは,

次の2つを比べることによって判断される。

(A)嫌煙権を認めることのメリット

(B)喫煙権を(全面的に)認めることのメリット

(A)は,言うまでもなく「間接喫煙による健康被害を免れる」というメリットだ。

一方(B)は「喫煙者が好きなときに好きな場所でたばこをすえる」というメリットだ。

両者を比較して(A)>(B)という結論を出したから,今日では嫌煙権が認められているわけだ。



同様の理屈を「言論の自由」に当てはめてみよう。ここで対立する権利を,次のように定義する。

(1)自由言論権=国民の誰もが自由に言論を発表できる権利

(2)言論統制権=国家が国民の言論を制約する権利

現在の憲法では基本的に(1)を認め,(2)を認めていない。

そこには「(1)の権利を認めることのメリット>(2)の権利を認めることのメリット」という判断がある。

ただし詳しく見ると,(2)は部分的に認められている。たとえば公務員に課せられる「守秘義務」だ。

公務員は,退職後であっても,業務上知った秘密を公表してはいけないことになっている。

これは,言論統制権を部分的に認める方がメリットが大きいという判断による。

 

さて,そこで話を選択的夫婦別姓制に戻してみよう。

一方には「夫婦が別姓を選択する権利」がある。では,それに対立する権利とは一体何だろうか?

言い換えれば,一部の夫婦が別姓を選択することが,別の誰かの不利益になるのだろうか?

嫌煙権の場合,これを認めれば喫煙者の自由が制限されるという問題がある。

自由言論権の場合,この権利を公務員に無制限に認めれば,国や自治体の行政運営に支障を

きたすおそれがあるという問題がある。だから,これらの権利が議論の対象になるのはわかる。

しかし「夫婦が別姓を選択する権利」については,そういう利害の対立がどこにあるのかよくわからない。

言うまでもないことだが,「別姓の夫婦が存在することは一部の人々に不快感を与える」なんていう

理由付けは成り立たない。それが通るなら人種差別さえ正当化されるだろう。

選択的夫婦別姓制を「権利の対立」という観点からとらえるとき,(嫌煙権の場合とは違って)

「個人と個人の権利の対立」はそこには存在しない。だから何らかの対立があるとするなら,

それは公務員の守秘義務と同様の「個人と国家(行政)との権利の対立」だということになる。

個人の権利の方は「夫婦が別姓を選択する権利」だから,非常にわかりやすい。

では,この問題に関する「国家の権利」とは何だろうか?言論統制権と同様に考えれば,それは

「姓の統制権」だということになる。その権利を行使することは,国家にとってどんなメリットがある

のだろうか?− ここが,言論統制権とは決定的に違うところだ。「公務員に行政の秘密をべらべら

しゃべられては困る」というのは,普通の人でも「まあそうだろう」と納得できる。

しかし,「夫婦が別姓だと国家や行政が困る」と言われてもまるでピンとこない。

一部の夫婦が別姓であることによって国が被る実態的な不利益というものがイメージできないからだ。

つまり「国家が困る」という発想の内実は,「自分(たち保守派の人間)が生理的にいやだ」という

感情論でしかない。そういう情緒的な理由と,夫婦が同姓を強制されることの実態的なデメリットを

比べたとき,どちらが優先されるべきかは,普通の人なら誰でもわかることだ。

ただし「普通の人」とは誰なのかという点は明確にしておく必要がある。(詳しくは後述)

 

以下,2つの点を補足する。

まず,夫婦同姓を義務付ける根拠として保守派が一番言いそうなのは

家族が同じ姓を使うことで,家族のきずなが強まる(はずだ)という理由付けだろう。

しかし,こんな感情論は簡単に論破できる。

そもそも家族単位の戸籍を採用している国は,日本以外にはない。

だから,たとえば日本に来た外国人男性が日本人女性と結婚した場合,どちらか一方の姓に

合わせるよう強制されることもない。では,彼らは姓が違うゆえに家族のきずなが弱いのか?

さらに,夫婦同姓を法律で強制している国も日本しかない。(ウィキペディアによる)

では日本以外の国の法律は,夫婦の関係を軽視する悪法なのか?もちろんノーだろう。

だから,夫婦に同姓を強制することに合理的根拠はない。

また,「夫婦が別姓になると,子どもの姓をどうするかという問題が生じる」という声が出ているが,

これにも論理的な整合性がない。上記のとおり今回の判決では,「どちらの姓を名乗るかは夫婦の

協議に委ねられており,民法の規定に男女間の形式的な不平等は存在せず」と説明されている。

つまり,「姓は夫婦で話し合って決めるのだから問題ない」ということだ。だったら,同じ理屈で

子どもの姓も夫婦の話し合いで決めればいいだけの話だ。子どもの姓を決める過程で夫婦間の

いさかいが起こるおそれがあると言うのなら,夫婦が結婚時にどちらの姓を名乗るのかについての

話し合いでも同様のいさかいが起こるおそれも当然想定しなければならない。

それを避けるためのセーフティネットは,選択的夫婦別姓制度しかあり得ない。

次に,夫婦同姓を強制されることの実態的な不利益について言及しておく。

「個人のアイデンティティー」という側面が強調されがちだが,もっとリアルな問題もあるのだ。

たとえば免許証,保険証書,各種カードなどの名義人は,姓が変われば変更の手続きを

しなければならない。その負担はほとんど女性に行く。離婚した場合はなおさら面倒だ。

1つ1つは小さなことであっても,結婚したほとんどの女性がこういう迷惑を被る以上,

裁判所であろうが国会であろうが,現状を放置することは道義的に許されないと言うべきだ。


 

■民主主義の敵

民主主義は,「社会=個人の集まり」という思想を前提としている。

多数決などによって社会全体の意思を一応は決めるが,各人は(社会を乱さない範囲内で)

自分の意思を持ち続けることが許される。一方,民主主義の対立概念である「君主主義」では,

一人の君主の意思が社会全体の意思となり,全員がその意思に従うことを要求する。

その意味で,「民主主義=個人主義」「君主主義=全体主義」と考えることもできる。

そして選択的夫婦別姓制度に反対する人々の思想は,ほぼ次の2つのタイプに分けられるだろう。

(A)民主主義的思想 : 自分にとって,夫婦は同姓であるのがよい。そして,夫婦同姓制度を

維持するのは社会全体にとってもよいことだと思う。選択的別姓制度の主張は理解できるが,

同姓制度を維持するなら彼らには我慢してもらうしかない。

(B)君主主義的思想 : 自分にとって,夫婦は同姓であるのがよい。社会全体も自分の考えと

同じであるべきだ(社会全体の意思は1つであるべきだから)。よって夫婦同姓制度は維持

されなければならない。

(A)は「普通の人」の思想だが,(B)は今日の日本社会の中ではテロリスト的思想と言ってよい。

つまり(B)の思想を持つ人々は,民主主義の敵だ。彼らは(本人が自覚しているかどうかは

別にして)民主主義というものの価値自体を信じていない。

「自分ではない誰かが決めてくれた唯一の価値観を設定して,全員がその価値観に従う。

その方が社会はよくなる」というのが彼らの基本思想だ。

これは宗教そのものであり,自分の頭で物を考えようとしない態度だと言うこともできる。

民主[個人]主義と君主[全体]主義の差は,次のようにも表現できるだろう。

民主主義 : あなたの意見は私の意見とは違う。しかし,あなたがそう考える権利を私は否定しない。

君主主義 : あなたの意見は私の意見(=君主の意見)とは違う。だから,あなたがそう考える権利を

               私は否定する。

 

そんな極端な…と言うなら,次の記事を見ていただこう。

これは今回の判決が出る前(12月12日)に中国新聞に載った論説だ。

選択的夫婦別姓制度に反対するある学者が書いたもので,筆者は埼玉大名誉教授のHという女性。

「1946年生まれ。東京大学大学院博士課程修了。専門は哲学,日本文化論」と説明されている。

(赤字の部分には後でコメントする)

 

「選択的夫婦別姓の方が便利だから民法の規定を変えるべきだ」という意見があるが,交通法規と

違って人間生活の根幹に関わる民法の場合,コンセプトがしっかりしている必要があり,ただ便利

なら良いというわけにはいかない。

民法「夫婦は夫または妻の氏を称する」としている。この「氏」と「姓」の相違をよく知る必要がある。

姓は「どの家に生まれたか」を表すもので,いわば縦のつながりを示す。一方,現行の民法で定める

ように,夫婦が結婚して新しい家族をつくる際に名乗る氏は,横のつながりを示すものといえる。

すなわち,育った家を出て,新たに自分たちが責任を持って家族をつくる。その結束の旗印として,

どちらかの姓を選んで同じ氏を名乗る。これは@十分に理屈の通ったシステムだと思う

完全な夫婦別姓制度もそれはそれで「育った家,祖先を大切にする」という筋の通ったシステムだ。

しかしA選択的夫婦別姓制度となると,どういうコンセプトでどんなシステムをつくろうとして

いるのかが見えてこない

「結婚で名字が変わると自分らしさを失ってしまう」というのは確かに自然な心理かもしれない。

しかし,そもそも男女の結婚というものはカルチャーショックの連続だといえる。

「男ってこんなことも気付かないの?」「女ってこんなことにこだわるの?」。

そういう驚きを乗り越えて「異文化理解」を深めていくのが結婚だ。夫婦に同氏を義務付けている

現在の日本の制度には,自分とは異質な人間と家族をつくって生きていく覚悟があるかを問う

意味合いもあるのだ,といえるかもしれない。

いずれにしても重要なのは,名前は単なる個人の持ち物ではないのだということだ。

「氏名は人格の象徴」といわれるが,それは人間が家族の中で生まれ育ち,自分もまた未来へと

命をつないでいく,そういう存在であることの上に成り立っている。氏名,姓名のシステムを考える

とき,そのことを忘れてはならないだろう。

 

一般人(たとえば政治家)がこういうことを言うのはまあ許せる。しかし仮にも大学の名誉教授

ともあろうものが,よくもここまで知性を放棄した文章を書けるものだと唖然とするしかない。

上記の記事には君主[全体]主義者の思想が典型的に現れているので,その内容を少し検証

してみたいと思う。便宜上,この教授を(女性だが)H氏と呼ぶことにする。

まず,Aから見ていこう。H氏の主張を要約すると次のようになる。

「すべての夫婦は同姓とする」「すべての夫婦は別姓とする」のどちらかのシステムなら

わかりやすいが,同姓と別姓を混在させるコンセプトが理解できない。

ここに,君主主義者(すなわち全体主義者)の思考回路が典型的に現れている。

要するに「ゼロか100か」の発想であり,中間を認めないのだ。

先に述べたように,君主主義者は君主に象徴される1つの思想だけが正当だと考え,

それ以外を排除する。その態度は必然的にゼロ・トレランス(不寛容)の方向に向かう。

天皇制を崇拝する人々(の末端)がヘイトスピーチに走るのは,そういう理由による。

「選択的夫婦別姓制」という言葉を聞けば,普通の人ならその制度の内容も,背景にある理念も

理解できるはずだ。それがわからないH氏は,学者以前の単なるバカと言っても過言ではない。

参考までに言うと,一般に右寄りの人々は,H氏と同様に「自分の見たいものだけを見る」という

傾向が強い。新潮新書から今年出た「昔はよかった病」という本に多数の例が紹介されているが,

いわゆる保守派の人々は,昔の日本を極彩色の色眼鏡で見ている。いやむしろ,彼らの眼鏡は

漆黒のサングラスであり,過去を「見て」さえいない。頭の中で妄想をふくらませているだけだ。

いわく,昔は家族の絆が強かった。いじめはなかった。人々の正義感もモラルも今よりも高かった…

こうした妄想が全部ウソであることは,統計的に証明されている。

もう一度言う。H氏は選択的夫婦別姓制について「どんなシステムをつくろうとしているのかが

見えてこない」と言うが,実際は「見えてこない」ではなく「(自分は)見たくない」のだ。

電車で自分の座席の前に老人が立つと眠るふりをしたり,夜中に生ごみをコンビニのごみ箱に

捨てに行ったりする行為と変わりないと言ってもいい。

 

次に,@についてコメントする。

…その結束の旗印として,どちらかの姓を選んで同じ氏を名乗る。

これは@十分に理屈の通ったシステムだと思う

「十分に理屈の通ったシステム」の根拠が全く理解できない。

「結束の旗印として,どちらかの姓を選んで同じ氏を名乗る」のは本人たちの自由だ。

しかし今問題になっているのは,「一方の姓を名乗らせることを強制するシステムの是非」である。

結束の旗印を二人で作りたいのなら,たとえば田中くんと加藤さんが結婚したとき,彼らが

(国際的に通用する姓として)スミスという姓を選択したってかまわないはずだ。

それがなぜいけないのかという合理的な理由を,H氏は語ることができないだろう。

この人の頭の中には「先祖の姓は守っていくべきだ」という理屈抜きの前提があるからだ。

一般に,前提が多ければ多いほど思考は制約されていくが,結論を出すのはより容易になる。

たとえば「金がない」という前提が1つあれば,行動の選択肢はうんと狭くなる。

現実社会では前提のない思考はまずありえないが,学者はそれではダメなのだ。

知性を無限に働かせようとする者は,あらゆる前提から自由でなければならない。

学者の基本だよ。オレは学者じゃないけどね。

 

民主主義に絶対的な価値があるわけじゃない。

現に,君主(国王)がいても人々が平和に暮らしている(であろう)国は世界中にいくらでもある。

しかし多くの日本人が民主主義の価値を信じるなら,H氏のような君主主義的思想を持つ人々が

増えれば増えるほど社会のリスクは増すということを意識しておくべきだ。

ただし民主主義者なら,そのリスクも当然受け入れなければならない。

自分とは違う思想を尊重しない態度は,民主主義的とは言えないからだ。

それをしたくない(=社会の安定をより強く求める)人々は君主[全体]主義的思想に傾いていく。

社会が不安定になるほどファシズムが起こりやすいのはそういう理由によると考えていいだろう。

今回の判決は,民主主義者と君主主義者の思想的対立,言い換えれば我々の社会にとっての

危険因子をあぶり出したという点では,結果的に一定の意義があったと言えるかもしれない。

 

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