最終更新日: 2006/11/05

雑記帳 (社会問題編-C)


 

◆ 2006/11/5(日) 「いじめ」とは何か?

 

福岡で中学生が自殺した。教師のいじめが原因だと言われている。

この種の問題が起きるたび,識者たちはいろんなコメントを出す。

彼らは一人一人が,「自分の意見こそが正しい」という顔で語る。

そして彼らの言うことは,バラバラである。誰もが学校教育の中で

過ごしてきており,教育問題は世間の興味を引きやすいために,

誰もが(多くの場合は個人的体験に基づく)一家言を持っている。

しかし彼らの多くは,「いじめをどう解決したらよいか?」というよりも,

いじめ問題にかこつけて自分の日頃の思いをぶちまけたいだけなの

ではないか?つまり,いじめ論議は彼らにとって自己主張の手段

にすぎないのではないか?と感じることがよくある。その典型が,

現総理大臣である。教育問題に関する彼の思考パターンは,第一に

「教育基本法の改正」ありきであって,すべての教育問題はそれを

実現するための我田引水的な議論の素材にすぎないようだ。

彼は,「子供に規範意識を植え付けるための教育」が必要だと言う。

また,教育再生会議のメンバーである「ヤンキー先生」こと義家某氏は,

「いじめを見て見ぬふりをするのは,いじめの加害者と同じだ」という

メッセージを新聞紙上で若者に対して送っている。また,これも新聞

紙上であるカウンセラーは,30年前に自分が高校生だった頃クラスで

いじめがあり,自分も傍観者であったことに今も心を痛めている,と

書いている。

 

ぼくの意見を言おう。あんたらの言っていることは,全部間違いだ。

 

「子供が規範意識を持てば,いじめはなくなる」と本気で思っている奴が

もしいたら,手を挙げてみろ。そんなわけがないだろう。古今東西を問わず,

規範のカタマリであるべき軍隊で,言語を絶する「いじめ」が行われてきた

事実を見るだけでも,そのことは明らかだ。いじめの本質は,そんなことに

あるのではない。

いじめとは,

 

性格の違う人間の集団の中でしばしば生じる,一種の化学反応である。

 

この化学反応は,常に起きるわけではない。端的に言えば,「いじめっ子」

的素因を他人よりも少し多く持つ人(たち)が,「いじめられっ子」的条件

を少し多く持つ人と接することによって起こる

前者を「素因」,後者を「条件」と規定していることには意味がある。

「いじめっ子」的な人間の性格は先天的なものであるケースが多いと予想

される(自分も家庭で親から虐待を受けているから,というのは考えすぎだ)

が,「いじめられっ子」の方は本人の性格以外の部分もかなり影響すると

思われるからだ。自殺した福岡の中学生はその典型で,性格的には優等生

タイプであったのに,担任教師が「彼はネットでアダルトサイトに熱中している」

という評判を流したことが,「いじめられっ子」的条件が形成されたことの直接

の理由だった。

 

では,「いじめっ子の心性」とは,どのようなものだろうか。

これも,簡単に定義づけることができる。

 

「いじめ的心性」とは,「他人の不幸を見て喜びたい(または安心したい)」

という感情である。

 

程度の差はあれ,誰の心の中にもこのような心性は存在する。したがって,

どんなに規範意識を強調しようが,「いじめ的心性」の根絶は不可能である。

(いじめ行為とは,目の前に「他人の不幸を作り出す」ことによってこの感情を

満足させる手続きである,と定義できる。心性の根絶は不可能であっても,

行為としてのいじめを防ぐことはできる)

 

この心性は人間の心の本質に深く根ざしているので,子供であろうと大人で

あろうと万人が持っている。むしろ「他人の不幸を見るのは楽しい」的な感情は,

子供よりもむしろ大人の方が大きいだろうと思われる。たとえば,今回のような

事件が起きると,週刊誌の中には「犯人」(今回の場合は担任教師)の顔写真を

掲載するところも多い。「国民の知る権利に答える」とかふざけたことを言って

いるが,真の動機は「犯人」をさらし者にすることで大衆の「不幸な他人を見る

喜び」を満足させようとする下劣な商業主義でしかない。

 

以上のことを前提として考えるとき,「子供の心を正しい方向に向けることに

よって『いじめ』問題を解決しよう」という発想は,根本的に間違っている。

具体例で考えてみよう。ここに10人の集団があり,そのうち1人が「いじめる者」,

1人が「いじめられる者」,残りの8人が傍観者であったとする。

仮に「子供に規範意識を植え付ける必要がある」という立場で考えるとき,

規範意識を植え付けられるべき人間は,このうちの誰なのか?この質問に

対して多くの人は,「いじめられている1人を除いた9人だ」と答えるだろう。

しかし,よく考えてみてほしい。

まず,「いじめる者」に規範意識を持たせれば,彼はいじめをやめるだろうか?

ここでは「規範意識」の定義が問題になるが,少なくともこの言葉を使う人は,

「いじめを行った者は退学にする」というような強圧的な規制で無理やり従わせる

ようなことを想定しているわけではなく。「いじめをしない心を持つよう指導せよ」と

言いたいのだろう。その指導は,確かに悪いことではない。しかし,現実に効果が

あるかと言えば,はなはだ疑わしいと言わざるを得ない。

 

一つのたとえを出そう。人種差別が悪であることは,社会の共通認識である。

ところで,あなたが初めて「黒人」を生で見たとき,あなたは何を感じただろうか。

ぼくの場合は(子供だったこともあり)「恐い」または「気持ちが悪い」と感じた。

もともと白人が黒人を「差別」した主な動機も,まさにこれと同じであったはずだ。

また,年配の日本人の中には,「外国人」を見ただけで「近づきたくない」と思う

人も少なからずいるはずである。要するに,人は「外見」によって人間を判断する

傾向を本来的に持っている。この現実に対して,「肌の色が黒い人を気味悪く

思ってはならない」と説教するのは間違っている。それは,「顔がぶさいくな女性

(男性)を嫌がってはいけない」と説教するのと同じくらい愚かなことである。

現に我々は,異性の好みを外見で判断しているではないか。

 

人種差別に関する正しい指導法とは,たとえばこのようなものである。

 

「『オレは黒人のヌードより白人のヌードの方が好きだ』とあなたが言うのなら,

その感情自体をねじ曲げろ,とは言わない。しかし,たとえあなたが『外見が

気持ち悪い』と感じたとしても,それを理由にしてその人(黒人やぶさいくな

男女)の社会的権利を侵害するような行動を取ってはならない」

 

要するに,「心の中で何を思おうが,それを行動に移さなければよい」ということだ。

自分の大嫌いな人を心の中で呪うのはセーフだが,彼の家に放火したらアウトだ。

差別になぞらえて言うなら,もちろん「差別しない心を持つ」のが理想ではある。

しかし,「差別意識を持ってはいるが,それを態度には出さない。したがって,

自分が心の中で差別している人々に,現実的な迷惑はかけない」のであれば,

それは社会人として許される態度である。

 

「いじめ」に対する学校における指導も,これと全く同じである。こう言えばいいのだ。

 

「いじめの心」は,持っていてもかまわない(←これはあえて言う必要はない)。

大切なのは「いじめの行動」をしないことだ。

(なぜなら,「いじめ」の行動は被害者に現実的な迷惑をかけるから)

 

この理屈は,いじめ問題だけに当てはまるわけではない。

朝礼で校長先生が,長ったらしく中身のない話を毎日する。

(中学生くらいになれば,校長の話に中身がないことはわかる)

「せんせー,あんなくだらん話,なんで聞かにゃいけんのん?」

生徒からこう問われた教師が,「校長先生の立派なお話を真剣に聞け」とでも

言おうものなら,その教師は生徒からの信頼を大きく損ねるだろう。ぼくが教師

なら,こう言う。「校長先生の話に意味があるかどうかは,自分の頭で考えろ。

意味がないと感じるなら,それはそれでいい。しかし,だからといって朝礼を

サボることは許さない。」 要するに,大切なのは「心」ではなく「形」である。

社会性を養うとは,そういうことだ。

 

先ほどの例に戻る。「10人のうち,傍観者である8人」に対しては,どのように

指導すべきだろうか。ここでもまた,「勇気をもっていじめをやめさせよう」などと

説教するのは論外である。最初に出した2人の「大人」の発想を,再び見てみる。

 

A氏: もしも自分が子供の頃にクラスでいじめがあったなら,自分は必ず

「いじめっ子」に対して「いじめをするな」と注意していたはずだ。だから

今の子供たちも,自分と同じような勇気を持つべきだ。

 

B氏: 自分が子供の頃にクラスでいじめがあったとしても(あるいは,現に

あったけれど),自分にはそのいじめを止める勇気がなかった(だろう)。

それを今では後悔している。だから,今の子供たちには,自分と同じ過ちを

犯すことなく,勇気をもっていじめをやめさせてほしい。

 

二人とも,ただの「自己中」である。

まず,A氏。あなたのようなタイプの大人は,2種類に分けられる。子供の頃から

リーダーシップがあり,世の中の成功者となるべく生まれついたあなたのような

人か,またはかつての「弱かった子供の頃の自分」をすっかり忘れてしまって,

強くなった今の自分の感覚でしか物事を語れない人のどちらかである。もしも

あなたが前者なら,世の中の大半の人間はあなたほど強くないことを知らねば

ならない。あなたが後者なら,あなたは教育問題を語ってはならない。

次に,B氏。あなたは,ぼくが子供なら,あなたに対してこう言うだろう。

「オジサンが昔できんかったことが,今のボクらにできるわけないじゃろ」。

オジサンの意見は,NPT体制下で核保有国が非保有国に「核を持つな」と

言っているのと同じくらい,説得力がない。

 

「いじめの傍観者たち」の行動スタイルは,基本的に大人と同じである。

彼らにとって「いじめっ子」とは,大人の社会で言う「ワンマン社長」のようなものだ。

多くの場合「いじめっ子」は集団のリーダーを兼ねており,その子に逆らうと自分も

いじめのターゲットにされる。大人社会になぞらえれば,会社をクビになるに等しい。

そんな状況で,ワンマン社長に対して,勇気を持って「あなたは間違っている」と

言える大人がどれほどいるというのか?そもそも,そうやって勇気を出して言った

(あるいは,先生に「チクった」)結果,本人がいじめのターゲットにされたなら,

誰が責任を取るのか?子供はバカではない。自分の損得勘定で動く生き物だ。

大人にできないことを,子供に押し付けてはいけないのだよ。

 

 

さて,ここからが本題である。このように批判ばかりするのは,フェアではない。

「じゃあ,おまえは『いじめ問題』をどう解決したらいいと思っているのか」という

反論は,当然あるだろう。これに対しても,答えは用意してある。もしかしたら

どこかで誰かが似たようなことを言っているのかもしれないが,自分が知っている

限り,このような意見を見聞きしたことはない。

 

いじめ問題を解決する最も効果的な方法は,

「いじめのリスク」を子供たちに理解させることである。

 

いじめに限らず,子供が起こす「事件」の多くは,ただ一つの理由による。それは,

 

自分の行動の結果に対する想像力の欠如

 

である。もっとも,これは子供だけではない。大人にもよくあることだ。典型的な例は,

酒を飲んで車を運転する人だろう。世間ではあれほど飲酒運転事故のニュースや

高額な罰金のことが話題になっているのに,「まあ大丈夫だろう」で済ませる人が

大勢いる。子供が遊びで首吊りの真似をしていたら本当に死んでしまった,という

ニュースも時々あるが,これも同じである。

 

いじめ自体は,子供の世界でも大人の世界でも,日本中で日常的に起きている。

しかしそれが,自殺などの重大事件に発展することはまれである。そして,たとえば

いじめ自殺の「加害者」とされた子供たちは,後になってこう思うはずである。

「軽い気持ちだった」「こんな重大なことになるとは思っていなかった」

 

したがって,いじめをなくす最も実効のありそうな方法とは,「いじめの加害者に

ふりかかる悲惨な結末」を繰り返し見せ,「いじめの加害者になれば,自分にも

災難がふりかかるリスクが高い」という洗脳を施すことである。これは,運転免許

の更新の際に見せられる事故現場の写真や,原爆資料館に展示してある悲惨な

資料と同じ発想である。また,死刑制度にも通じるものがある。

 

具体的な実例を挙げてみよう。次のようなビデオを作って子供に見せてはどうか。

そのビデオには,実在する若い受刑者が出てくる。彼は,このように語る。

 

「私はかつて,同じ中学の同級生をいじめていました。当時の私にとっては,

いじめは軽いストレス解消程度の,一種の遊びでした。しかし,いじめた相手が

自殺してしまったのです。あの程度のことで自殺するとは全く思っていなかったし,

自分には責任はないと私は思いました。でも,世間はそうは見ませんでした。

私は学校で誰からも相手にされなくなり,親も仕事をやめねばなりませんでした。

その後私は転落の人生を歩み,今ではこうして刑務所に入っています。これを

見ている中学生の皆さん,私と同じ失敗はしないでください。あなたにとって軽い

気持ちでやったいじめが,万一重大な結果につながったら,あなたの人生は

台無しになります。そんなことで,人生を棒に振りたくはないでしょう?『そんな

つもりじゃなかったんだ』と後から言っても手遅れです。くれぐれも,いじめで

失敗しないようにしてください」

 

現実にこういう人物を探すのは,そう難しいことではないと思う。

このビデオを見れば,どんな「いじめっ子」も必ずビビるはずだ。

このビデオは,「心をまっすぐにしなさい」などというきれいごとは一切言わない。

「君にとって致命的な損になるんだよ」 --- 大人であれ子供であれ,「今が

楽しければ後はどうなろうが構わない」という自暴自棄の人生観の持ち主で

ない限り,このセリフが最強の抑止力を持つであろうことは疑う余地がない。

 

もちろん,このビデオを見た後でも,相変わらずいじめを続ける子供らもいる

だろう。そして彼らのいじめの被害者の中には,自殺する者も出るかもしれない。

そうなれば今度は,その事件の加害者たちが,このビデオの出演者となるのだ。

やがてこのビデオ教材は,「恐怖のいじめビデオ」として全国の子供らに知れ

渡るかもしれない。「次にあのビデオに出るのは,うちのクラスのあいつかも

しれん」とかいう話題で盛り上がるかもしれない。そして,ある者は言うだろう。

 

「このビデオ自体が,(出演者に対する)一種の『いじめ』じゃないん?」

 

しかり。そのようにして子供らは,人間の業の深さを感じつつ,社会の荒波の

中でどのように振舞えばよいのかを学習していくのである。とか何とか。

 

 

「いじめ」の現場に何らかの形でかかわったことがある人なら,「いじめをしない

心を持とう」などという説教が現実には何の役にも立たないことはわかりそうな

ものだ。今まで「いじめ」と無縁の人生を送ってきたような「勝ち組」の連中に

いじめ問題の解決法を論じさせるのは,不毛なだけだと思う。

 

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