最終更新日: 2010/5/23

雑記帳 (その他編-14)

 


 

 

● 2010/5/23(日) 実利主義者のつぶやき

 

 

かつて,笹川良一という人物がいた。「日本の首領(ドン)」とも呼ばれた右翼の大物で,

A級戦犯の容疑者にもなった。後に日本船舶振興会を創設し,競艇などの収益を社会

奉仕に投じて,後年は立派な慈善家という評価も得た。その頃(たぶん30年近く前)に,

笹川氏が申し出た寄付をある団体が断った,というニュースが流れていたのを耳にした。

うろ覚えだが,拒否の理由は「不浄な金は受け取りたくない」ということだったと思う。

不浄と言われたのが笹川氏本人なのか競艇というギャンブルなのかまでは覚えていない

が,それを聞いたとき,「不浄でも清浄でもお金はお金なんじゃけ,ありがたく受け取りゃ

ええのに」とぼくは思った。

 

さだまさしは,若い頃は毀誉褒貶の激しい歌手だった。「関白宣言」のような物議を醸す

歌詞が批判されたのは当然としても,中にはこんなことを言う人もいた。

「まだ若いくせに,人生を悟ったような内容を歌っているのが偉そうで気に入らない」

--- この意見に対してぼくは,「そんなことはない。歌詞の内容は人格とは関係なく,

大勢の人々を感動させる歌を歌っているという事実だけで彼は立派だ」と思った。


 

 

上のタイトルで文章を書こうとは前々から思っていたが,「実利主義」とは何かを定義する

のが意外と難しかった。端的に言えば「建前よりも実利を重んじる考え方」だが,じゃあ

建前とは何だ?となる。あれこれ考えて,こんな定義づけが一番妥当かと思う。

実利主義=「正しいことを言う」だけでは満足せず,現実的な利益を追求する姿勢

実利主義は「現実主義」と言い換えても大きな意味の差はない。では,実利(現実)主義の

対立概念とは何かと言えば,それは規範(あるいは教条,あるいは理想)主義だ。

そして両者の考え方の最も大きな性格の違いは,実利主義が「自分の行動」を問題に

する(少なくともぼくはそうだ)のに対して,規範主義は基本的に「他人の行動」に

目を向けることだ。端的に言えば,規範主義とは「自分の規範(思想)を他人にも求める

(押し付ける)」考え方だと言える。両者の違いは,果てしなく大きい。また別の観点から

言えば,実利主義者は「実務家」であり,規範主義者は「評論家」であることが多い

そして,ぼくは規範主義者や評論家が嫌いだということも,あらかじめ言っておきたい。

(「嫌い」という言葉にそれ以上の意味はない。彼らがバカだと言っているわけではない)

ここで,一つ問題を出しておこう。(正解は後述)

 

「核軍縮」「COの削減」「捕鯨」の3つの社会問題には,ある共通点がある。それを

考えてほしい。ヒントは,これらの問題に関係する国々の姿勢における共通点だ。



次に具体的事例を挙げて,実利主義者である自分の「物の考え方」を説明してみたい。

まず,これまでにも触れてきた,釣りに関するテーマを2つ。


第1は,「釣り場にゴミを捨てるのはやめましょう」というスローガンだ。実利主義的観点から

言えば,この言葉にはほとんど意味がない。したがって,自分はあまりこういうことを言いたくない。

ただし,こういう言葉を使う人々を批判するつもりは全くない。自分の考え方は違う,ということだ。

ゴミを捨てる人にいくら説教しても,その説教が心に響くことはまずない。何らかの強制力によって

彼らの行動を矯正することは可能だろうが,彼らは他人が見ていない状況でゴミを散らかすわけ

だから,実際にどんな強制力を課すかは難しい問題だ。実利主義的に言うなら,「釣り場のゴミ」の

問題を解決する唯一の有効な手段は,一定の公徳心を持つ人々のそれぞれが,釣り場でゴミを

見つけたら自発的に拾うという行動を取ることだ。一人で多くの責任を背負い込む必要はない。

自分のできる範囲で,公序良俗に資する行動を取ればよい。その結果釣り場のゴミがなくなる場合

もあるだろうし,そうでない場合もあるだろう。なくならなければ別の方法を考える必要があるが,

それは先の話だ。ぼくに言わせれば,「釣り場にゴミを捨てないようにしよう」と釣り人一般に語り

かけることは,典型的な規範主義的(あるいは評論家的)姿勢である。言っていることは正しいが,

実利を生まないからだ。実利主義者から見た規範主義者の欠点は,現実には何の実益も

生んでいないのに,『正しいこと』を言った時点で自己満足している,要するに「偽善者」的に

見えることである。

第2は,「釣り禁止」の看板だ。実利主義的観点からは,重要なのは看板の有無ではなく,実態と

して何らかの迷惑行為が発生するかどうかである。もちろんその判断には「程度」の問題が大きく

関係している。人と人とが接するとき,そこに何らかの「迷惑」が発生することは避けられない。

たとえば映画館で隣の座席に他人が座ったら,隣が空席のときよりも居心地が悪いだろう。しかし,

だからといって,その他人が自分に迷惑をかけていると責めることは誰もしない。それと同じで,

「釣り禁止の看板がある場所で釣りをすれば,何らかの迷惑が発生する」と主張するのは極論だ

(裏を返せば,それだけ「釣り禁止」の看板の設置基準がいいかげんだ,とも言える)。

それは,「車は常に制限速度を守らねばならない」とか,「タバコは販売禁止にすべきだ」といった

主張と本質的に変わらない。結論を言えば,「釣り禁止の看板があっても,常識的に考えて誰かに

迷惑をかけているのでなければ,守る必要はない」というのが,実利主義的な立場である。

規範主義的立場からの異論があるのはもちろん承知している。自分はそう思う,そしてそのように

行動する,ということだ。大切なのは,一般に「決まりごと」にはグレーゾーンが必ずあり,その

幅はそのときどきの状況に応じて変動するということ,そしてその変動の結果こそが「目に

見えない本当のルール」であり,それに沿って行動していれば一般社会の許容範囲から

外れることはない,ということだ。釣りに即して具体例を挙げるなら,戸崎(沼隈半島)と歌(向島)を

結ぶフェリー桟橋は,どちらも建前上は「釣り禁止」だ(そもそもフェリー桟橋は釣りをするための

場所ではないが,それを言ったら波止も全部そうだ)。そして,歌の桟橋は近年,取締りが厳しく

なったので釣り人が減ったと聞く。一方,戸崎の桟橋には一年中釣り人が入っている。取締りが

行われていないからだ。二つの桟橋の間に,実質的な「危険度」や「釣りをした場合の迷惑度」の

違いはないと言ってよい。あるのは,警察の取締りの厳しさの差だけだ。この現実をふまえて,

「実態がどうであろうと『釣り禁止』の看板があるのだから,自分はそこで釣りをしない」という

行動を取る人々と,実害がなければかまわないじゃないか,という理由でそこで釣りをする

人々とがいる。ぼくは後者だ。そして,後者はもちろん前者を批判しないが,前者に後者を

批判する(世間的な意味での)資格があるとも思わない。先に挙げた定義に即して言うなら,

「自分はそこで釣りをしない」と言うだけの人は規範主義者ではなく「まじめな一般人」であり,

「自分も他人もそこで釣りをすべきでない」と考えるのが規範主義者だ。そしてぼくは,この問題に

関して実利主義者と規範主義者を比べたとき,優劣をつける気はない。どちらか一方が他方よりも

「正しい」わけではなく,両者は対等だと思う。


 

 

上のこととも関連するが,実利主義者にとっての最大の悩みは,「実利」と「規範」との間の

折り合いをどうつけるか?という線引きの問題にある。たとえば,車の運転中にいつでも

制限速度を守るか?という点については,あまり悩む必要はない。「だいたいこの程度までは

許されるだろう」という常識的な目安が実態としてあるからだ(警察の取り締まりでも,たとえば

40キロ制限の道路で1キロでもオーバーしたら捕まるというわけではない。駐車違反も同じだ)。

 

では,「NHKの受信料」はどうだろう?かつては集金人が各戸を回っていたが,その頃は

あれこれ理由をつけて払わない人も多かった。NHKで不祥事が連続した当時は,受信料の

不払い運動も起きた。ただしこれは実利主義とはあまり関係なく,単なる「ずる」の問題だろう。

うちはもちろん(銀行引き落としで)払っている。実際にNHKの番組を見るのだから当然だ。

 

ではでは。「年金」の問題はどうだろうか?実は今,これに頭を悩ませている。額が大きいのでね。

公務員時代の友人たちと会ったとき,「みんな,子どもさんの年金はどうしとるん?」と聞いてみた。

同年代だから,20代前半の子どもを持つ友人は多い。20歳を過ぎると(無収入の大学生でも)

国民年金の支払い義務があり,月々1万4千円もかかる(申請すれば支払い時期の延期は可)。

この質問に対しては,ほとんどの友人が「親が子どもの年金を払うてやっとる」と答えた。理由は

次の2つだ。

 

@掛け金を払わないと,将来子どもが年金をもらえない。

A掛け金の支払いは国民の義務だから,払うのが当然だ。

 

@については,年金の掛け金を払う代わりに貯金しておけば済むことだ。問題はAである。

Aは公務員なら当然の答えなのだが,うちの場合は上の娘(21歳)の年金の掛け金を払ってない。

娘自身はパートの仕事をしているが,とてもじゃないが月々1万4千円の支払いは無理だ。

代わりに娘には「年金用の通帳」を作ってやり,月々親が入金している。老後まで使わない金だ。

ではなぜ,厳密に言えば「法律違反」をしてまで,ぼくは年金の掛け金を納めようとしないのか?

理由は,うちの娘が年金をもらう年齢(40〜50年後)に,今の年金制度が存続しているとは

とうてい思えないからだ。たとえ存続していたとしても,果たして今払うべき月額(約1万4千円)と

同等かそれ以上の額の年金がもらえるのか?という不安もある。そもそも年金制度は,自分の

ためではなく社会(娘の立場から言えば現在の高齢者)のためにあるというのが建前だ。それを

裏返して言うと,将来子どもの数が減って年金の支給額が激減しても,政府には「あなたが若い

頃に支払った年金の掛け金は,あなた自身のために蓄えたものではありません」という言い訳が

用意されているということだ。だから,「自分が積み立てた(つもりの)額より少ない額しかもらえない」

としても,それに文句を言う資格はない。その時点での政府サイドの言い訳は,「将来平均寿命が

延びて100歳まで生きられるようになれば元が取れますよ」みたいな・・・。「国民の義務を果たさない

やつが言い訳するな」と言われれば,「社会保険庁だって今までさんざん悪事を働いてきたでは

ないか(だから信用できないのだ)」という反論はできる。しかし,実利主義者はそんな観念的で

不毛な議論に興味はない。これは,先ほど出した問題の答えにも関連している。

 

年金の話を要約すれば,次のようになる。

 

・子どもの年金の掛け金を,親が肩代わりして国に納めるべきかどうかで悩んでいる。

・理由は,貯金した方が実利が大きいかもしれない(あるいはリスクが少ない)からである。

・国に納めないことで「社会に迷惑をかけている」という自覚はある。(だから悩むのだ)

 

これを読んで,「要するにお前の言う『実利主義』とは,規範意識の弱い(怠け者の,あるいは

ずるい)人間の言い訳ではないか」と感じる人もたぶんいるだろう。そういう面は否定しない。

車の運転を見てもわかるとおり,パーフェクトな規範主義者はこの世にまず存在しない。

規範に対してどこまで忠実かは,人によって違う。結果的に規範を多少破るケースが起こるのは,

1つにはそれしか選択肢がない(たとえば年金の掛け金を払いたくても収入がない)からであり,

もう1つには「自分にとっての現実的な利益がより大きい方を選ぶ」からである。その損得勘定が,

実利主義的行動の基礎となる。繰り返すが,「実利主義の方が規範主義よりも賢い」というような

価値判断をしているわけではない。「実利主義的であろうとすること」はすなわち「悩むこと」であり,

皮肉っぽく(あるいは自己を正当化して)言えば,「規範主義者は悩まなくていいから楽だな〜」とも

思ったりするわけだ。



話題を変えよう。ぼくは大学で英語学を学んだが,一般に言語の研究には「規範的(prescriptive)

立場」と「記述的(descriptive)立場」とがある。前者はたとえば「見られる」を「見れる」と言う人が

増えているという事実に対して,「近ごろの日本語は乱れている」と考える立場だ。一方後者は,

「見れる」という言い方を「日本語が変化しつつある」ことの例としてとらえようとする立場である。

こうした二つの視座の違いは,政治学などにも当てはまる(ちなみに学問の世界では,規範的な

立場を取る学者はまずいない。そういう姿勢は学問ではない,というのが学者の共通認識だ)。

実利主義は記述的立場に近く,規範主義は文字通り規範的立場に一致する。

さて,たとえば「捕鯨」の問題を考えてみよう。ここでは,「捕鯨擁護派」の考え方を俎上に上げてみる。

捕鯨を擁護する立場からの論拠として頭に浮かぶのは,次の5つである。

 

@ 現に捕鯨や関連産業で生計を立てている人々がおり,捕鯨が禁止されれば彼らが職を失う。
A 鯨を食材その他の目的に利用するのは日本の伝統文化であり,守る価値がある。

B 捕鯨と種の保護とは両立できる(捕獲量を適正に管理すれば鯨の頭数は維持できる)。

C 鯨がかわいそうだから殺すな,というのは不当な文化的干渉だ。

D そもそも鯨の数が激減したのは,欧米の国々が灯油を目的にして乱獲したからだ。自分

    たちの責任を棚上げして,捕鯨国を悪者扱いするのは不当である。

ここで問題を出そう。上に挙げた5つの理由は,性格の違いによって大きく2つのグループに

分けることができる。どのようにグループ分けすればいいだろうか?

 

 

 

これには,2つの正解がある。1つ目の正解は,@Aを第一のグループ,BCDを第二のグループ

とする分け方だ。両者の違いは,@A=積極的な理由,BCD=消極的な(反論のための)理由,

である(BCDは「捕鯨を積極的に続けたい,あるいは続ける必要がある」ことの理由とは言えない)。

 

2つ目の正解は,@ABを第一のグループ,CDを第二のグループとする分け方だ。これはもう

わかるかな?そう。@ABは「実利」を問題にしており,CDはそうではない。そしてぼくは実利主義者

だから,CDのような主張には基本的に関心がない。

 

話の本筋から外れるが,上の@ABの主張の正当性を少し考えてみよう。

まず,@の理由に説得力はあるだろうか?と言えば,その答えは常識的に言ってノーだろう。その

理由を認めてしまえば,炭鉱も,国鉄も,ダム工事も,原発も,沖縄基地もすべて残さねばならなくなる。

それでは,Aの理由はどうか?これも,実利主義と規範主義の話に関係している。「伝統文化を守る

べきだ」とは誰でも言える。しかし,その言葉は実際の役に立つのか?と言えば,答えはノーだ。

農村を,道徳を,自然を,守るべきだと人々は言いながら,実際にはそれらを破壊してきたことは

一目瞭然だろう。学問の話に即して言えば,文化を「守るべきもの」と考えるのが規範的な立場であり,

文化は「変わるもの」と考えるのが記述的立場である。実際問題として,今の日本で「捕鯨の積極的

必要性」を感じている人々は,その業界に携わる人々以外にはほとんどいないはずだ。「学校給食の

鯨カツが懐かしい」と思う人はたくさんいるだろうが,「あの懐かしい鯨カツがもう一度食べたいから

捕鯨を続けるべきだ」と主張するのはちょっと無理(あるいはワガママ)かな?というのが一般人の

感覚だろう。

では,最後に残ったBはどうか?この主張も説得力を欠いており,それこそが捕鯨禁止を主張する

人々の逆の論拠になっている。問題は「捕獲量を適正に管理すれば」という条件にある。それが

できるのなら野生動物はすべて保護できるわけで,実態として密漁をストップできないからこそ,

どの希少種も危機に瀕しているのだ。したがって,Bの理由付けは反対派を勢いづけるだけだ。

結局,実利的な観点から言えば,@ABの主張はどれも説得力が弱い。したがって,捕鯨が

禁止の流れに向かうのは当然だろう,とぼくは考えている。


 

 

さて,上に挙げた最後の理由をもう一度見てみよう。

 

D そもそも鯨の数が激減したのは,欧米の国々が灯油を目的にして乱獲したからだ。自分

    たちの責任を棚上げして,捕鯨国を悪者扱いするのは不当である。

そして,最初に出した問題を再掲しよう。

 

「核軍縮」「COの削減」「捕鯨」の3つの社会問題には,ある共通点がある。それを

考えてほしい。ヒントは,これらの問題に関係する国々の姿勢における共通点だ。

 

この問題の正解は,こうだ。

共通点=その問題の原因を作った人々が,自分たちの責任を棚上げしていること

捕鯨に関しては,上のDのように言える。核軍縮に関しても,そもそも核兵器を作り保有している

国々(この問題を引き起こした張本人の国々)が,「自分たち以外は核を持ってはいけない」という,

ガキ大将のようなわがままを言っている。COの削減についても,過去にさんざんCOを撒き

散らして環境を悪化させてきた先進工業国が,自分たちがしたことと同じことを後発の途上国には

許さない,という構図になっている。

 

そして,言いたいのはここから先だ。

現実の外交では,少なくとも捕鯨に関しては,上のDのような主張は実際には行われない(はずだ)。

他の2つの問題についても,「自分たちの責任を棚上げして,後発の我々にだけ不利な条件を

押し付けるのは不当だ」と途上国側は思っていたとしても,それを声高には主張しない。そんな

ことを言っても問題解決にはつながらない,と知っているからだ。それは「口げんか」のレベル,

あるいは(無責任な)評論家の使う言葉であって,実務家(実利主義者)とは無縁のものだ。

 

同じことは,政権交代後の国会の論議にも言える。自民党が「民主党は公約を守っていない。

財政の健全化が進んでいないではないか」と責めるのに対して民主党が「ここまで財政を悪化

させたのは自民党の責任だろう」と応じているのが,まさにこの図式である。民主党のこのような

受け答えは,実利主義的ではない。過去の責任を論じても,何の問題解決にもならないからだ。

そんなこととは無関係に,現在と将来の利益に関心を持つのが実利主義者の思想である。

 

政治がらみでもう1つ言えば,「週刊文春」の最新号に,普天間基地の特集が載っている。

数人の識者や関係者が,まあ言ってみれば「鳩山バッシング」を行っているわけだが,各人が

実利主義的であるか規範主義的であるかが彼らの意見に如実に反映しているのが興味深い。

一番シンパシーを感じたのは,やはり自民党の石破茂氏のコメントだった。周知のように彼は

典型的なリアリスト(実利主義者)であり,この問題に関しておよそ次のように述べている。

 

「米軍は(軍隊を運営する現実的な必要から)沖縄以外に基地を移すことを望んでいない。

その意向に沿う以外に道はないのだから,日本政府にできることは限られている。それは,

地元に直接の迷惑を及ぼす行為(飛行訓練など)を自粛してもらうよう米軍に協力を求め,

それと引き換えに基地を現状のまま存続させるよう地元を説得することだ」

 

「それで地元が納得するわけがない」と批判するのは簡単だ。どのみち,基地周辺の自治体が

「納得する」ような解決策は初めからないのだから。結局のところこの問題を実利的に考えれば,

石破氏の言うように,「現実にできる範囲内で最善を尽くす」という結論しか出てこないはずだ。

その結論は当然世間の審判にさらされるわけだが,それは政治の宿命だから仕方がない。

妙案がないからといって理想主義的な空論にしがみつくことは,政治家には許されないのだ。

 

一方で文春の記事の中には,「そもそも米軍に安全保障を頼っている今のシステムが間違いだ。

国の安全をどう守るかという原点から考え直すべきだ」みたいな,いかにも規範主義的な意見も

載っている。週刊誌や新聞の読者の中にはこういう意見を好む人も多いので,週刊誌がこの

種のコメントを掲載するのは当然だとは思う。しかし,もしも世の中がこういう人々だけから構成

されていたなら,目の前のどんな問題も解決しない。石破氏の意見がそうした意見と決定的に

違う点は,「具体的な解決策」を提示している点にある。それはつまり,(政治家だから当然では

あるが)沖縄基地の問題を「自分の(行動の)問題」としてとらえているからだ。これに対して

世間の多くの人々はおそらく,この問題を「対岸の火事」としか見ていない。対岸の火事という

言葉の辞書的な意味は,「他人の不幸を見るのは楽しい」ということだ。この場合の「他人」とは,

もちろん鳩山総理のことである。そしてマスコミは,世間の多くの人々は対岸の火事を見るのが

好きだということを知っているので,火事をあおって火の手を大きくしようとする。週刊誌ならまだ

いろんな意見を載せられるが,新聞の社説にはふつう1つの見解しか出せない。そこで,結局

読者が喜ぶ(だろうと彼らが判断する)方の記事を選択した結果,規範主義的な(言い換えれば

現実の問題解決には何も役立たない)論評が掲載される(そして読者もウンウンとうなずいて

それを読み,結果としてマスコミは現実の問題解決能力を持たない=仕事でも使えない=

ミニ評論家を再生産する)のである。



今回の話をまとめると,次のようになる。

 

● 実利主義は,明文化された法律やルールよりも,社会の実態を優先する。

● 実利主義者は,現実の問題を具体的にどう解決するかを考える。

● 他人に「〜すべきだ」と要求する態度(規範主義)は,実利主義と相容れない。

● 「正義を語る」だけの評論家的態度は,実利主義と相容れない。

 

そしてもう1つ。実利主義者は,基本的に他人を批判しない。なぜなら,他人を批判しても

何の実利も生まないからだ。他人を批判する言葉を考えるようなヒマがあるのなら,その

時間と労力を,実利を生み出すための具体的な方法を考えることに向ける --- それが,

実利主義的思想の本質である。

 

 

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