最終更新日: 2018/2/4

雑記帳 (その他編-24)

 

 

● 2018/2/4(日) 介護のリアル(続編)

 

2017年9月7日に介護施設・Sに入所した父は,それから4か月ほど経った2018年1月3日に死亡した。

大正14年(1925年)3月の生まれで,まもなく93歳を迎えるところだった。

この4か月の経過は,次のようなものだった。

9月8日(金) 

父の様子見を兼ねて,Sの食堂で娘と昼食。ここの食堂の料理は安くておいしい。父は眠っていた。

9月9日(土) 

叔母と一緒にSへ。 入所手続きなどの書類を書く。

9月10日(日) 

家族でSへ。施設の説明などを聞く。

9月11日(月) 

昼ごろSへ様子見に行く。入院していた頃に比べると元気になりつつある。  

9月12日(火) 

ヨメと娘がSへ。調子が悪そうだったとのこと。  

9月13日(水) 

介護保険の調査員の人が来て,再審査を受ける(あとで出た結果は「要介護4」だった)。

便秘と発熱があるため,かかりつけの病院へ連れて行った(ショートステイという名目なので,病院へは家族が連れて行く)。

先生に「腎不全の疑いがある」と言われて,そのまま尾道市民病院のICUへ入院。

9月14日(木) 

昼ごろ尾道市民病院へ行ったが,眠っていたので起こさず。退院後は透析が必要かもしれないと言われる。  

9月15日(金) 

昼ごろ尾道市民病院へ行き,先生と退院後の相談。父は絶食中だが,どうにか会話はできる。

父は8月末まで車を運転していたが,もう無理なので廃車の準備をする。  

9月16日(土) 

ヨメと娘が尾道市民病院へ見舞いに行く。  

9月17日(日) 

尾道市民病院へ見舞いに。ナースさんが少しずつ柔らかいものを食べさせているという。  

9月18日(月)

叔母と一緒に尾道市民病院へ見舞いに。父はICUから一般病棟へ移動。

認知症が進んで膀胱に入れた管(カテーテル)を自分で外そうとするので,手にミトンをはめられていた。

9月19日(火) 

尾道市民病院に通院している叔母が父を見舞いに。  

9月20日(水) 

尾道市民病院へ行き,主治医の先生に話を聞く。透析は免れそうだが,カテーテルはもう外せないとのこと。  

9月21日(木) 

父の退院が25日に決定。  

9月22日(金) 

父の見舞い。入院時より元気は出てきているが,認知症は進んでいる。  

9月23日(土) 

Sのスタッフが父の見舞いに行ってくれた。  

9月24日(日) 

父の見舞い。多少頭もはっきりしてきたのか,ミトンを外してもらっていた。  

9月25日(月) 

尾道市民病院まで父を迎えに行き,そのまま車に乗せてSへ。  

9月26日(火) 

Sへ父の様子見に行く。ここには介護のプロがいるので,病院に比べると手厚く世話してくれる。

自分が内科で内視鏡検査を受けたり,歯医者で顎関節症を診てもらったりしていた。

10月初旬は仕事で東京への出張などがあり,しばらくSへは行けず。  

10月5日(木) 

鎌倉に住む叔父が墓参りのため帰郷し,父の見舞いに連れて行ったが,あいにく父は眠っていた。  

10月8日(日) 

父の見舞いにSへ行き,ついでに昼食をとる。

この週は自分が耳鼻科でアレルギー性ぜんそくの治療を受けたりして時間が取れず。当然仕事もある。  

10月13日(金) 

家族に頼んで,父を尾道市民病院へ連れて行ってもらう(退院後の定期健診)。

そのあとかかりつけの病院へ連れて行き,カテーテルの交換。

この週末は上の娘夫婦が泊まりに来たので,近所の祭りを見物したりみんなでSへ見舞いに行ったりした。  

10月20日(金) 

地元の大工さんに頼んでおいた実家の工事が完了。

うちの家は土間と畳の部屋との段差が60〜70cmくらいあるので,スロープを取り付けてもらった。

これで,父を車いすに乗せたまま部屋へ入れることができる。  

10月22日(日) 

Sへ父の様子見に。早速実家へ連れて帰ってやろうとしたが,ちょうど入浴中だったのでこの日は断念。  

10月24日(火) 

昼過ぎにSへ行き,一時外出させてもらって実家へ連れ帰った。この施設から実家までは,車で10分もかからない。

腰からオシッコの管が出ているので車いすに乗せるのが大変だが,体重が軽くなっているので(約40キロ)何とかなる。

スロープの上を車いすで移動して,庭の見える居間にしばらく座らせておいた。

こういう事態を想定して,庭の植木はまだ残してある(だから毎日水やりに通う必要がある)。 

親戚(父の甥)が時々来て庭の草取りや手入れをしてくれるので,荒れ放題になることはない。

ただし,この頃には父はほとんど口をきかなくなっていたので,家に帰って嬉しいのかどうかもよくわからない。

その後も何度か同じように実家へ連れ帰ったが,置物のようにじっと車いすに座ったままだった。

10月25日(水) 

父をSへ迎えに行き,歯医者へ連れて行く。筋肉が落ちて入れ歯が合わなくなったので,直してもらった。

細かく刻んだ食事しかしていないので入れ歯は必ずしも必要ではないが,入れ歯がないと話すのが難しい。

父はもう口を開くこと自体が少ないが,そうかと言って不自由なままで放っておくことはできない。

10月28日(土) 

Sから電話があり,父の容態がまた悪化したという。車で迎えに行き,再び尾道市民病院へ入院。

このときは熱が39度を越えており,原因は尿路感染症だった(カテーテルからばい菌が入ったらしい)。

このあと,2日に1回くらい面会に行った。

11月7日(火) 

父を尾道市民病院へ迎えに行き(退院),Sへ連れて行く。病院でそのまま死ぬという事態は免れた。

父はここ数年の間に命の危険が何度もあったが,その都度乗り越えて回復していた。もともと体が丈夫なのだろう。

11〜12月 

家族や親戚が入れ代わり立ち代わり父の面会に行くが,認知症が進んでいるため話がほとんど通じない。

かろうじて身内の顔はわかるようだが,コミュニケーションはほとんど取れない。

しかし介護スタッフの話では,調子のいいときはちゃんと会話が成り立つという。

10月にあった衆議院選挙のときは,担当者が投票箱を施設まで持ってきてくれて,不在者投票をしたそうだ。

この間に家族にはいろんなことがあり,妊娠している上の娘が切迫早産になりかけているというので

12月の頭からうちへ帰って来たり,実家の植木を業者に頼んで処分したり,年末を控えて公私ともに忙しかった。

正月くらいは実家へ連れ帰って正月料理をちょっとでも食べさせてやりたかったが,のどに詰まると困るのであきらめた。  

1月2日(火) 

前日に義兄と初釣りに行ったので,HPに釣り日記をアップ。

昼ごろSへ行くと,父はちょうど食事中だった。

スタッフがドロドロの料理をスプーンで一口ずつすくって,父の口元へ持って行くが,なかなか口に入らない。

忙しそうなので代わってもらってやってみたが,口に食べ物を入れても飲み込むのが難しそうだ。

どうにか昼食を終えたあと,天気もよかったので父を実家へ連れ帰った。

いつものように庭の前の居間にしばらく座らせておいた後で,Sへ連れ帰った。

秋以降介護に時間を取られて仕事がたくさん溜まっているので,そのあとは仕事モードに入った。

1月3日(水) 

朝から仕事場で仕事をしていたら,9時前ごろにSから電話が入った。

父の容態が急変したので,救急車を呼んでいるという。

入院予定先はいつもの尾道市民病院で,あとでまた連絡します,と言われた。

それから10分ほどしてまた電話があり,救急隊員の判断で最寄のK病院(Sの母体)へ行ったという。

すぐに仕事場を発ち,15分ほどでK病院に着いてみると,既に父は心肺停止の状態だった。

当直の先生の話では,病院に着いたときにはもう心臓が止まっていて,救命処置をいつまで続けるかという段階だった。

(誤嚥性)肺炎が進行していたのと,直接の死因は朝食後に食べたものが何かの拍子に喉に詰まったことによる窒息死だったらしい。

しかし,Sのスタッフには責任はない。前日の様子からも,父は嚥下能力が明らかに低下していた。

何度も通って横で見ていたが,Sの介護スタッフの皆さんには本当によく世話をしてもらった。

入所していた期間は4か月足らずだが,あそこに入っていたからそこまで長生きできたとも言える。

1月4日以降は,葬儀・相続の手続き・空き家になった家の公共料金の支払い手続きなど,あれこれの用事があった。

もちろん本業もあるし,仕事の挨拶回りで3日間東京へ出張したり,出産を控えた娘を病院へ送り迎えしたり。

元日以外はずっと休みが取れていない。

 

父を看取った4か月の間に,あれこれ考えさせられることがあった。

この間に尾道市民病院へは2回入院したが,そのたびに何人かの先生から「延命処置はどうしますか?」と問われた。

最初の先生からは「やるなら完全にやる」「やらないなら一切なし」のどちらかに決めておく方がいいと言われた。

そしてどの先生からも,「延命措置はお勧めしない」と言われた。ある先生は,こんなことを言った。

「自分が同じ立場で寝たきりになったら,延命処置をしてほしいですか?私がこう尋ねると,ほとんどの人はノーと答えます。

自分がしてほしくないことを,自分の親に対してはする,というのはおかしくありませんか?」

これを聞いたときは「それはもっともだ」と思った。が,延命処置を一切しない場合,病院で容態が急変して,

すぐ来るようにと連絡を受けて家族が駆けつけたら本人はもう死んでいた,ということになる可能性が高い。

それはちょっと…ということで,2回の入院の際には「基本的に(フルに)延命処置をしてください」と頼んだ。

父の場合,主な延命処置は透析・胃ろう・人工呼吸の3つだ。

まず透析は,やらなければ2週間で確実に死ぬそうだ。いったん始めると2日に1回は長時間の透析が必要なので,

施設から病院までの送迎が必要になる。それは何とかなるが,本人の体の負担は大きい。

胃ろうや人工呼吸を始めると寿命は延びるが,ただ生きているだけの状態になる可能性が高い。

「植物人間になってまで生きたくない」と誰でも思うが,それは「意識があって寝たきり」の状態が前提になっている。

「こんな体で生きていても仕方がないから,早く死にたい」と本人が思うような状態で延命させられるのは酷だ。

しかしこの頃の父は既に,体中の感覚が鈍っているような感じだった。

時々車いすに座らせられる以外はずっと寝ているので,床ずれも起きる。

しかし本人が意思表示しないので,痛いとか寒いとかいう感覚があるかどうかもわからない。

もしかしたら,人工呼吸器の管をつけて寝たきり状態になっても本人は苦痛ではないのかもしれない。

そうなると「もし本人が苦痛を感じないのなら,生きられるだけ生かしてあげるべきだろうか?

という思いが起こる。だから「延命処置をしてください」と頼んだ。

 

結果的に父の最期は「急死」だったが,人工呼吸器や胃ろうの管につながれて,ベッドで寝たきり状態で

何年も生きる可能性もあった。仮にそうなったとき,それが本人にとっていいことかどうかはわからない。

もちろんお金の問題もあるので,何がベストの判断かは人によって違うだろう。

ただ延命処置を断るのは,本人が事前に意思表示していたとしても,そう簡単ではないことが今回わかった。

これも人によって感覚が違うだろうが,身内が死ぬことが悲しいというより,自分の中の倫理観の問題だ。

「お父さんに延命処置をしますか?」と医者から尋ねられたとき,自分にはノーと答える勇気がなかった。

死にかけた動物を見て哀れむのと同じ感覚と言っていいかもしれない。

動物であれ人間であれ,そこに命があるということ自体が奇跡のようなものだ。

その貴重な生の営み(まして身内の)を,自分の手で断ち切るという決断はできなかった。

こうした判断を迫られること自体が医学の進歩の副作用だ(要するにゼイタクだ)ということも,

国民一人一人が国の医療費の抑制に貢献する必要があるということも,頭ではわかっている。

しかし「この人を殺しますか?生かしますか?」と問われて,イエスと即答できる人は少ないだろう。

何が正しかったのかは今もわからないが,父の「急死」がある意味で幸運だったことだけは間違いない。

 

4年前に母の,先月父の葬儀を終えた今の感想を一口で言えば,「肩の荷が降りた」だ。

一人息子だから親を世話するものだと子どもの頃から思っていた(ただしそれを自分の子には望まない)。

ヘルパーさんや介護施設のスタッフの協力もあって,介護自体はそれほど苦痛ではなかった。

一番重視していたのは「できるだけ長く自宅で生活してもらう」ということだ。

母は十年近くパーキンソン病を患い,晩年は認知症も進行してほぼ寝たきりだったが,

同居の父が献身的に介護したこともあって,亡くなる2か月前まで自宅で暮らした

(自力で薬を飲みこめなくなったため自宅での介護が不可能になり,ホスピスへ入院した)。

父は90歳を過ぎても健康寿命を保ち,亡くなる4か月前まで毎日片腕で車を運転していた。

ここ2〜3年は,毎日少なくとも2回は仕事場から実家へ父の様子を見に行き,健康状態を

チェックしていた。父は施設へ入るまでは認知症がなかったので,介護は楽だった。

結果から言えば,「できるだけ長く自宅で」という目標は二人とも達成できたと思う。

しかし,これで終わりではない。まだ近所には一人暮らしの叔母(母の妹)がいるし,

下手をすると8歳年下のヨメの介護が必要になる可能性もある。

 

そして今日(2月4日)は,上の娘が無事に男児を出産した。

ちょうど1年前に流産しているので,今回までの道のりは本当に長かった。

父も93歳の誕生日まで生きていれば,ひ孫の顔を見ることができたのだが。

しかし生まれたら生まれたで,無事に育つかどうかあれこれ心配もある。

誰でも若くて健康なときは,命の問題をあまり真剣に考えない。

自分がその問題に直面すると,いやでも真面目に考えざるを得ない。

皆さんも健康に気をつけて,長生きしてください。

 

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