最終更新日: 2019/5/5

雑記帳 (その他編-25)

 

 

● 2019/5/5(日) 令和に思うこと

 

この5月から元号が変わったことについての雑感を少し。

元号関係のニュースは天皇一色だった。これに関連して,まず天皇制について思うことを。

おそらく多くの人は「天皇制?いいんじゃない?」という感覚じゃないかと思う。

そういう人に聞いてみたい。「もしあなたが天皇に生まれたとしたら,今より幸福だったと思いますか?」と。

「イエス」と答える人もいるだろうし,その場合の理由はさまざまだろう。

(今の自分とは違って)「お金に困らないから」「親に虐待されないから」「クラスメイトにいじめられないから」とか。

ぼくの答えは「ノー」だ。(本人がどう思っているかは知らないが)天皇は不幸だと思う。

天皇には,職業選択の自由がない。「自分,天皇じゃなくて芸人になりたい」と思っても,それは制度が許さない。

平成の天皇も令和の天皇も,「国民の象徴として自分に何ができるか?」を自問自答している。

そういう思いを抱くのは1人の人間として当然であり,いわば天皇なりの「自分探し」だろう。

一般人ならそういう自分探しに制約はなく,好きな場所に行き好きなことをできる。

しかし天皇は生まれたときから言動に大きな縛りがあって,その範囲内でしか行動できない。

天皇だって国民なのだから,これは基本的人権の侵害じゃないだろうか。

「親が子どもの進路をむりやり決めるようなケースはどこにでもある」

「税金で食わしてもらってるんだから,文句を言うな」

などと反論する人がいるかもしれないが,それは違う。

問題なのは,公的なルールとして,天皇という1人の人間の「幸福追求の権利」が制限されているということだ。

もし令和天皇が自主的に天皇の地位を返上できたなら,ヨメさん(雅子さん)や娘(愛子ちゃん)はあんなことになってはいなかっただろう。

週刊誌の報道によると,弟(秋篠宮)の2人の娘(小室くんとの仲があれこれ注目されている真子ちゃんと妹の佳子ちゃん)は

そこらへんの若い女性と何も変わらず,それを「皇族としての自覚が足りない」と批判する人たちもいるという。

本人たちにしてみれば「なりたくて皇族になったわけじゃない」と言いたいところだろう。

マスコミ(特に文春)は皇室ネタを利用して,読者の憎悪や下卑たのぞき見趣味をあおるような記事をよく書く。

自分がそのターゲットにされる側なら,名誉毀損で裁判を起こしたいところだ。

芸人や政治家が週刊誌に私生活を暴露されたりするのは,自分がそういう(注目を集める)職業を選んだ結果だから仕方がない。

しかし皇族という職業は自分で選んだわけじゃないのだから,「有名税」を払わせるのは理不尽だ。

要するに現状では,皇族に生まれた人々は生まれながらいくつかのハンディキャップを背負っている。

そのハンディは「生まれつき病気だ」とかいうのとは全く違う。

病気は人間の力ではどうにもできないが,制度(天皇制)は人間が作ったものだから,その気になればやめることもできる。

現実的に言えば天皇制は,当事者(皇室の人々)にとっては不幸の種でしかないように思える。

結論。天皇制は廃止すべきだ。天皇や皇族が気の毒だから。

一度しかない自分の人生を,本人の好きに使わせてあげようよ。

みんなだって,「天皇制?あっても(なくても)いいんじゃない?」程度にしか思ってないんでしょ?

 

話は変わって。

昭和・平成・令和のように元号によって時代を区切った場合,昭和と平成はどのように特徴づけられるだろうか?

あるいは,平成は昭和と比べていい時代だっただろうか?

この問いに対するぼくの答えは「イエス」だ。

理由はいろいろあるが,1つだけ挙げれば,平成は昭和より世の中が多様化したという点を評価したい。

ぼくらが子どもの頃の昭和時代,娯楽の中心はテレビだった。

ほかに選択肢がないから,テレビの人気番組の視聴率は今では考えられないほど高かった。

中学生はクラブ活動をするものであり,一度入った会社には定年まで勤めるものであり,大人は結婚して子どもを作るものだと考えられていた。

今ではそういうことはない。子どもの生活も仕事もプライベートも多様化が進んで,生活や生き方の標準形や理想形はもうどこにもない。

そしてそういう変化は,基本的に「いいこと」だと思う。みんなが同じであるのが当然だ,という社会は住みにくいし,いろんなリスクがある。

不登校も育児放棄も体罰もセクハラもパワハラもLGBTも,近年話題になった多くの社会問題は昭和の時代から存在していた。

しかしほとんどの人は,無知だった(あるいは判断材料を持っていなかった)ためにそれらを「悪いこと」だとは考えなかった。

今はインターネットの普及もあって全体としては社会の「民度」が上がっており,マイノリティに目配せできるようになったのはいいことだ。

しかし,昭和も平成も大きくは変わらなかったように思えるものある。

たとえば集団への帰属意識であり,同調圧力だ。社会は多様化しているのに,これらは少しも弱くなる気配がない。

むしろ「他人に合わせたい」という願望や「他人に合わせなければならない」という脅迫観点はますます強まっているようにも思える。

令和の時代にもその傾向は続くかもしれない。その具体的な現われの1つが,いわゆる忖度だ。

忖度は世の中を効率的に動かすための潤滑油のようなもので,すべてを否定することはできない。しかし,ものには限度がある。

願わくば多様化が進行する過程で,結婚など社会生活での同調圧力がもっと弱くなればいいと思う。

これからは外国人労働者が増えることは避けられない。外国人と積極的に交流すれば,多様性を尊重する感覚は自然に養われる。

しかし日本人と外国人の間に壁を作ってしまうと,日本人集団内での同調圧力はますます強くなるかもしれない。

魚を見ればわかるように,弱い生き物ほど群れを作ろうとする。

「自分の身を守るために大きな集団の中に身を置いていたい」という自己防衛本能を責めることはできない。

問題なのは,そういう自分の生き方を他人にまで押し付けることだ。

昭和より平成,平成より令和の方が,選択肢が増えた分,自分の頭で物を考えて自己責任で決めねばならない機会が増えるだろう。

逆に言えば,そういう時代に生きる私たちは,昭和の時代に比べれば幸福だと言っていいだろう。

令和という言葉を最初に聞いたとき,「和が零(ゼロ)」の意味か?と思った。それならそれでいいんじゃないかな。

他人に合わせようとすればストレスも増えるし,自分の生き方は自分で決めるものだ。

敷かれたレールの上を走るだけの人生なんか面白くない。豚の自由はいらない。

だから天皇さんはかわいそうだな,と思う。

 

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