最終更新日: 2004/03/14

雑記帳 (その他編-6)

 


 

 

● 2004/3/14(日) 小魚のリリースのことなど

 

 

書きたいことの本質はちょっと違うんですが,まずはこの件から話を始めます。

なお,雑記帳の文体はそのときの気分によって変わるのですが,この記事は

意識して「ですます」調で書いてます。これを読んで「納得できん」という人も

おられるかと思い,少しでも印象を和らげたい,という趣旨です。

 

以下は,近刊の「カキのかぶせ釣り」の本からの抜粋です。

 

「小魚はリリースする」のが釣りのマナーの一つであることはもちろん

ですが,この点について私はあまり杓子定規に考えてはいません。

私自身は自分で魚種ごとのキープサイズを決めており,それに

満たない魚はリリースしています。

しかし,波止ではいろんな人が釣りをしています。安い道具とエサで,

毎日散歩がてら小魚を釣りに来る年配の釣り人もたくさんいます。

その人たちが釣り上げた小メバルや手の平サイズのハゲを家に

持ち帰って食べるようなことまでを,批判したくはありません。

同じことは,行楽を兼ねて釣りをしている家族連れにも言えます。

マダイの稚魚や小さなカレイなどが釣れると,それがたとえ10cmか

そこらの小型魚でも嬉しいものです。「自分で釣った魚を食べたい」

と思う気持ちも理解できます。そうした人たちが小型魚をキープして

いるのを見ても,私は特に問題を感じません。

 

誤解があってはいけないので,もう少し補足します。

いわゆるファミリーフィッシングの対象魚は,ハゼ・キス・小イワシ・小アジ・

サヨリなどの,小型の魚が中心です。というか,「ちょっと行楽がてら釣りに

でも行こう」という人たちには,それら「釣り易い魚」以外はあまり釣れません。

 

さて,私が釣りの初心者であり,小学生の息子(実際にはいませんが)

を連れて近所の波止へ釣りに行ったとしましょう。

そこで,息子は生まれて初めてマダイの稚魚を釣り上げました。

「父ちゃん,これ食べられる?」

「タイじゃけ,もちろん食べられるわい」

「ほしたら,持って帰って食べよ」

 

--- さて,私は息子に何と言うでしょうか?

たぶん,「よっしゃ,持って帰って唐揚げにしちゃろう」と言うと思います。

「でも,今日は記念に持って帰るけど,これは子供の魚じゃけ次からは

リリースしてやろうな」というフォローはするでしょうが。

なぜ私はその魚を持ち帰ろうとするのか?それは,「自分で釣った魚を食べる

喜び」を,息子に味わわせてやりたいからです。あくまで想像上の話ですが。

最近の若者の多くは,釣りをゲームと割り切っていて,釣った魚はその場で

リリースする人も少なくありません。それはそれでいいと思うのですが,私に

もし息子がいたら,その子にも自分と同じような釣りライフを送ってもらいたい

ので,「釣りの楽しみは,魚の引きを味わうことだけにあるだけではない」と

いうことを教えてやりたいと思います。

 

別の例を出してみます。

どこの波止へ言っても,定年退職してヒマつぶしに毎日この波止へ釣りに来とる,

というじいちゃん達によく出会います。その人たちは,今さら釣りの技術を磨こう

というような欲は持っていませんから,もっぱら小物を釣って楽しんでいます。

そして,釣れた小魚はまずリリースしません。小ギザミだろうが小メバルだろうが,

持ち帰っています。あんな小さい魚をたくさん持って帰ったら,さばく方の奥さんは

大変じゃろうなあ,と思いますが,とにかくそれらの魚を食べているのでしょう。

年金暮らしなので,食費を浮かすという目的で釣りをする人もいるかもしれません。

人は「あんなに小魚を釣り上げて持ち帰ったら,魚資源が枯渇してしまう」とか,

「まだ赤ちゃんみたいな魚を釣ること自体,かわいそうじゃろうが」と言うでしょう。

私も,それには同感です。

 

しかし・・・しかしですね。

私は,これらの「小魚を持ち帰る」行為を,むげに非難する気になれんのですよ。

ここで,「社会的な建前」と,「個人的な思い入れ」との葛藤が生まれます。

社会的責任という見地から割り切って言ってしまえば,話は簡単です。

生まれて間もない小魚を釣って持ち帰るのは,悪いに決まっています。

ここでは,魚種による違いは無視します。魚資源保護の観点から言えば,

「小ハゼや小アジを持ち帰るのはセーフだが,小メバルや小カサゴはアウト」

とかケースバイケースで考える必要があるでしょうが,それはここで言いたい

ことの本質とは無関係です。

 

先日書いた「釣り師の原罪」にも通じることですが,「釣りという行為に寄せる思い」

は,人によって千差万別です。釣れた端からリリースする人,食材調達のために

釣りをする人,単に気分転換のために竿を出していれば満足する人,ひたすら

技術の向上に励む人・・・そういういろんな人たちの思いと,その結果として生まれる

さまざまな釣りのスタイルを,「これは良くてあれはイケナイ」という善悪の判断の

対象にすることに,私は何となく抵抗を感じるのです。

 

たとえば,かぶせ釣り師としての私は,「フカセ釣り師たちは悪人だ。彼らは海を

汚している。マキエは全面禁止にすべきだ」と,言おうと思えば言えるわけです。

しかし私は,そうは考えません。「程度の問題」というのは当然あるわけで,

特定の釣り場に海の色が変わるほど大量にマキエが撒かれたりしたら,文句の

ひとつも言いたくなるでしょう。しかし,人が生きるということは多かれ少なかれ

他の誰か(あるいは自然環境)に迷惑をかけるということであり,何でもかんでも

正論だけを言っていたのでは,世の中はうまく回りません。小学生の学級会で,

「だれそれはこの決まりを破った」「そっちこそ別の決まりを破った」といった

容赦のない批判合戦が起きて収拾がつかなくなることがありますが,あれと

同じことが起こりそうです。警察でさえ,スピード違反の車を全部つかまえるわけ

ではありません。相手の行動や考え方をある程度許容する「譲り合い」

気持ちをお互いが持たないと,社会生活そのものが窮屈になるような気がします。

 

釣り場には,いろんな人たちが来ます。私が見る限り,昼間の釣り客の

中には,あからさまにマナーの悪い人はごく少数です。

こちらが話し掛けると,たいてい気のいい返事が返ってきます。

日曜日に波止へ行くと,初心者と思われるグループの人がたくさんいます。

その人たちは,10cmほどのピンギスであろうと,小メバルであろうと,

魚がハリに掛かれば大喜びします。

私はそれを見て,とても微笑ましい気分になります。

昔は自分もああじゃったよなあ,という感傷です。

その気持ちを私は,いつまでも持ち続けていたいと思っています。

そんな,小魚を釣り上げて喜んでいるビギナーたちに向かって,

「そんな小さい魚を釣って喜ぶな。リリースしてやれ」などと無粋なことを

言いたくはありませんし,そういう思いを抱くこともありません。

私が彼らに感じるのは,「魚が釣れてよかったね」 --- これが全てです。

 

誰でもそうだと思いますが,同じことがらに対して相反する思いを抱く,

二人の自分がいることに気づかされることがあります。

社会人としての私」と「人間としての私」と言ってよいのかもしれません。

雑記帳に以前載せた「イラク戦争に寄せて」という記事は,社会人としての

私ではなく,感情を持つ人間としての私が書かせたものです。私は他人に

思い入れしやすいたちの人間なので,たとえば「イラクの人たちはこの

戦争をどう思っているのだろうか?」という方向に関心が向くわけです。

 

つい最近,鳥インフルエンザに感染した鶏を出荷した養鶏場の会長夫妻が

自殺した,というニュースが流れました。あの会社には,当然大きな社会的

責任があります。「社会人としての私」は,新聞で報道されているとおり,

「なぜ感染の疑いがある鶏を出荷したのか,その経緯を徹底的に調べる

べきだ」と言うでしょうし,その会社は厳しく断罪されるべきだという意見に

全面的に賛成します。一方で,「人間としての私」は,別の思いを抱きます。

あの会長は,どんな思いで危険(かもしれない)鶏を出荷したのだろうか?と。

そして,私は思います。

鶏は,機械製品ではない。生き物だ。あの会長にとっての鶏は単なる商品

ではなく,「手塩にかけて育てたわが子」のようなものであっただろう,と。

保健所で詳しく検査してもらいもしクロと判断されれば,自分の手で何十万羽

もの「わが子」を処分しなければならない。それは,養鶏家として耐えがたい。

この鶏たちも,土中に埋められるために生まれてきたのではない。

人間の勝手な理屈だとはわかっていても,市場に出すことで「天寿」を全う

させてやりたい,それが養鶏家としての自分のアイデンティティだ・・・・と

いうような思いも,たぶんあったんじゃないかなあ,と思うわけです。

こんなのは私の妄想であり,真実は単に金勘定のことだけしか考えない

利己的な行動だったのかもしれません。それでも私は,そういう面に思いを

致す自分を,失いたくないのです。(会長はともかく,奥さんはどんな気持ちで

連れ添って自殺したのだろうか?という思いも強く持っています)

 

 

そして,ここからがこの記事の本論です。

 

この種の個人的感傷を,理性的な議論と同じ土俵で語るのは間違いです。

 

この種の「間違い」は,世の中にいくらでもあります。

つい最近,少年法改正のきっかけとなった神戸の連続児童殺傷事件を起こした

少年(当時)が7年ぶりに矯正施設から出てくるという報道がありました。

新聞の論調はおおむね,「今後は,彼が社会復帰できるような環境整備が大切だ」

という識者の声と,「本当に改心したのか疑問だ」という遺族らの声を併記しています。

前者が「理性的思考」の立場,後者が「個人的感傷」の立場です。新聞にはあたかも

これらが相反する対等な意見であるかのように掲載されていますが,両者は全く

次元の違うものであることを,われわれは意識しておく必要があると思います。

 

死刑廃止論を考えてみましょう。

死刑制度に反対する人たちは,さまざまな理由を挙げます。

ではその人たちに,こう問い掛けたらどうでしょうか。

 

--- もしあなたの妻や子が目の前で殺人鬼に惨殺されたとしても,

それでもあなたはその犯人を死刑にすべきでないと思うのか?----

 

死刑制度に賛成する人たちの頭の中には,少なからずこういう思いがあるはずです。

こうした意見を言う人は要するに,「他人の感情に対して思い入れが強い」のです。

どんな問題でも,他人事としてではなく,「もし自分が当事者だったら」というふうに

考えてしまうのです。私も,そのタイプです。しかし,その感情は議論とは区別すべき

ものです。「イラク戦争に寄せて」という記事を私が雑記帳に書いたのは,イラク戦争

の正当性を議論するための素材としてではありません(私の言葉が足りず,誤解を

生んだかもしれないことは申し訳なく思います)。あれは単なる「感想」であり,賛否を

求める性格の文章ではないつもりです。

 

「イラクに自衛隊を派遣すべきか否か」という議論を理屈で語るならば,

私は派遣に反対です。理由は,いろんな識者たちが言っているとおりです。

でも私の関心は,それとは全く違う次元で,別の方向に向かいます。

派遣される自衛隊員は,どう感じているのだろうか?--- と。

もし私が自衛隊員だったら,たぶん2つの思いにとらわれると思います。

1つはもちろん,「死ぬかもしれない」という恐怖感です。

そしてもう1つは,「昂揚感」あるいは「誇らしい気持ち」です。

自衛隊に入る動機は人それぞれでしょうが,彼らは日々の訓練の中で,

「この訓練が役立つときが本当に来るのだろうか?」と考えているのでは

ないでしょうか。今の日本では,自衛隊が具体的行動を通して世の中の

役に立てるのは,主として災害時の緊急出動でしょう。それを考えると,

世の中全体としては「自衛隊が働く機会がない方がいい」わけですが,

当人たちにとってはそれは,ある意味で辛いことだと思います。

警察官しかり,消防団員しかり,医者や裁判官や弁護士またしかりです。

人の不幸を待ち望んではいかんわけですが,仕事を通じて自己実現する

ためには,自分が何か世の中の役に立つチャンスが来てほしい,と願う

気持ちは誰にでもあるはずです(爆撃で死ぬかもしれない危険を思えば,

そんな気楽なことは言っておられないかもしれませんが)。

そういう意味では,自衛隊員たちに対して「よかったね」とは言いませんが,

「頑張って訓練の成果を見せろよ」と言いたい気分はあります。

 

さて,私は今,イラクへ派遣された自衛隊員に感情移入しようとしました。

言うまでもなく,上に書いたことは「自衛隊をイラクに派遣することの

是非」とは何の関係もありません。しかし,もしかしたら,私の意図を

誤解して,次のように批判する人がいるかもしれません。

 

「自衛隊員が自分の仕事に充実感を覚えることができる,という

理由で,あなたは自衛隊のイラク派遣を正当化するのですか?」

 

これが誤解であることは明らかですが,世の中の議論の中には,当事者同士に

この種の誤解が生じているケースがかなりあるのではないでしょうか。

 

また,別の例を考えてみます。

 

税金を使ってムダな公共工事をすることには反対だ

--- これは,多くの人が納得する意見でしょう。

一方,これに対して次のような反論をする人がいたとします。(あくまでたとえ話ですからね)

 

「理屈はその通りかもしれないが,公共工事には『必要悪』の面もある。

今急に公共工事を一切やめてしまったら,地方の建設業者の多くが倒産

してしまう。失業者が増えることも問題だが,建設業で働いているのは,

特別な技能も持たず肉体労働で収入を得るほかない人たちである。

だから,彼らは失業しても再就職が難しい。営業マンなど自分の能力を

生かして転職できる可能性のある人はまだマシだ。世の中には,学歴も

なく単純労働をするしか能のない人間もたくさんいるのだ。そういう人たち

の仕事の受け皿として,建設業界に一定の就職口を確保してやらねば

ならない。世間は,競争に勝てるやつばかりではないのだ。もし自分が,

あるいは自分の息子がそういう人間だったら,それでもあなたは理屈

だけで物が言えるのか?」

 

さて,この意見に対して皆さんは,どう反応するでしょうか?

私なら,こう答えます。

 

「心情的には,あなたの意見に共感します。でもそれは,公共工事の是非を

判断する根拠にはなり得ません。なぜなら・・・・」

 

さて,これに続く言葉がポイントです。

 

なぜなら,「当事者の身になって考える」ことは,

議論においてはルール違反だからです。

 

一般にそう言われているわけではありません。私がそう思う,というだけのことです。

当事者に感情移入したら,議論というものは成立しません。

感情移入するのが悪い,のではありません。それを議論の俎上に乗せることが

間違いなのです。

 

たとえば,「町起こしのためにこの町に原発を造る」という計画が出たとします。

その賛否の議論の中に,こういう人を連れて来たらどうでしょう?

 

「私は先日リストラされ,このままでは一家が路頭に迷ってしまいます。

この町に原発ができれば,そこに就職できます。仕事をなくした人は

ほかにもいます。私たちの生活を助けると思って,この町に原発を

造ってください。」

 

確かに気の毒な話ではありますが,この人の意見をもって「だから原発を造る

べきだ」と主張するのは,やっぱり間違いでしょう。同じことは,死刑制度の

議論においても言えます。「もし自分の子供が殺されたら」云々は単なる感傷

にすぎません。私は他人に感情移入しやすいたちですが,それを議論の場に

持ち出すことはしません。

 

人間を「理性派」と「感覚派」に二分するとしたら,感覚派の人はこのことを

自覚しておく必要があると思います。一方で「理性派」の人は,「世の中は,

議論だけで動くのではない」ということを意識しておくべきです。理性派の

人は「世の中を動かすのは議論だ(その象徴が国会だ)」と無意識に考えて

いるでしょうが,道路公団民営化のプロセスなどを見てもわかるとおり,

議論の結果がそのまま実現するわけでは決してありません。また,マスコミ

の報道などを見てもわかるとおり,少なくとも「世論」は,情緒的な側面を

多分に持っています。理性派の人は「議論の方が正しいのであり,それを

実現できないのは世の中が悪いからだ」と言うかもしれませんが,私は

そうは思いません。いわば議論は教育における学校のようなものであり,

学校を出ていなくても人間は立派に生きていくことができます。つまりは,

合理的思考の外側にも大切なことや人が生きるのに必要なことはたくさん

ある,ということです。世の中のさまざまな論争を見てみると,最終的には

相手を信じられるか?」という問題に帰着するように思われます。

 

「原発事故の危険性は隕石が地球に衝突する可能性よりも小さい」という

推進派の理屈は,事実としては正しいのでしょう。これに対して反対派が

「その数字が正しいのは認める。しかし別の面で原発には反対だ」と言えば,

それは合理的思考の結果と言えるでしょう。しかし「その危険性の査定は

おかしい。前例のない大地震が起きないという保証はない」と言い出したら,

それはもはや合理的な議論とは言えません。

 

「クジラの数が増えているのは統計的に明らかだから,捕鯨を認めるべきだ」

という日本側の主張を,アメリカは認めません。一方で,「全頭検査に科学的

根拠はない。抽出調査だけで牛肉の安全性は証明できる」というアメリカ側の

主張を,日本は認めません。これらは,相手に対する不信感によるものです。

そのような感情が議論の結果を左右することの方が多い,という現実を,理性

派の人たちは直視しなければなりません。

 

話が脱線しました。最初の話に戻ります。

「小魚のリリース」という話題に関して,私は一つの「感想」を述べました。

一口で言えば,「小魚を持ち帰る人の気持ちはわかる」ということです。

これは,「小魚をリリースすべきか」という議論に対しては,何の主張も

していません。むしろ議論を混乱させる不規則発言のようなものです。

私はそのことを自覚して,つまり議論とは無関係の次元で発言している

わけですが,それを「みんなが小魚を持ち帰ったら魚がいなくなってしまう

ではないか。それをあなたはどう考えるのか?」というふうに「議論の対象」

に引きずりこんでもらいたくはないわけです。

そして,世の中の「議論」と呼ばれるものの多くにおいても,議論をしている

当事者たちが「議論」と「感想」の区別を十分理解していないがために,

これと似たようなすれ違いがたびたび起きているのではないかな?と

思って,このようなことを書いてみたわけです。

 

この記事では何が言いたいのかさっぱりわからない,と思われる方が

おられましたら,それはすべて私の文章が下手なせいです。すいません。

本人の頭の中には,自分の言いたいことが鮮明にあるわけですけどね。

ちなみにこの記事を書くのに入力した文字数は,この数倍以上になります。

自分なりに推敲して完成したのが,この文章なのです。

 

追記:

メバル・カサゴについては,私はキープサイズを16cmと決めています。

それ以下だと,煮付けにしたとき食べるところがあまりないからです。

福山方面の釣り人は,13〜14cmくらいでも持ち帰る人は多いと思います。

たいていそれくらいのサイズの魚しか釣れないからです。

私は少なくともメバルについては,小さいのを持ち帰ってもそんなに心配する

必要はないんじゃないかなあ,という気がします。なぜなら,どこの波止でも

小メバルならうじゃうじゃいるからです。大きいのが釣れなくなったのは,

釣り人が良型を全部釣り上げてしまったことの必然的な結果です。

小さいメバルをたくさん釣ったから,ではないと思います。

メバルは14〜15cm級でも産卵しますから,「大きいのをたくさん釣ったら

親がいなくなって,生まれる子供の数が減る」ということはないはずです。

地元の波止の常連のおじいちゃんたちは,お金もないので年中同じ波止で

しか釣りをしません。そういう人にとっては,小魚でも釣れれば楽しいわけで,

そのささやかな楽しみに水を差すようなことはあまり言いたくないな,という

気分はあります。そういう常連さんたちの気持ちを代弁して言うなら,こんな

感じになるでしょうか。

 

「『小さい魚は逃がせ』いうのは,あんたらの理屈よ。あんたらはお金も時間も

腕もあるけえ,遠くへ行って大きい魚を釣るんが当たり前かもしれんけど,

わしらはここでしか釣りをせんのじゃけ,ここで釣れるコマい魚を持って帰る

しかないじゃろうが。そうせなんだら,釣った魚を全部海へ逃がさにゃいけん。

そんなんやったら,釣りそのものが面白うなかろうが」

 

しつこくてすいません。これは「雑記」であり,何かを主張,あるいは問題提起しよう

というつもりではありません。でも,「自分の考えは違う」などの感想・意見などは,

掲示板にご自由にお書きくださいね。

 

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