最終更新日: 2005/12/17

雑記帳 (その他編-9)

 


 

 

● 2005/12/17(土) 掲示板荒らしに寄せて

 

 

個人的に「我慢ならないこと」は数多くあったし,若い頃はそういうことが今よりずっと多かった。

自分の気持ちをコントロールするのが今よりも下手だったからだ。しかし,ある程度年齢を重ね,

仕事やプライベートでいろんな経験を積むうちに,自分にとって「我慢できること」と「我慢できない

こと」とが,区別できるようになった。それを単純な言葉で表現すると,

自分の不幸は我慢できるが,不幸な他人(特に子供)の姿を

見るのは耐えられない。

ということだ。

 

余計なことだが,「自分の不幸は我慢できる」と言えるためには,それなりの苦労の経験が必要だ。

軽い気持ちで言っているわけではない。同じ言葉を二十代の若造が吐いても,誰も相手にすまい。

 

たとえば,「自分が病気になること」と「自分の子供がそれと同じ病気になること」とを比べると,

自分が病気になる方がよっぽど楽に違いない。身内に限らず赤の他人でも似たようなもので,

先日テレビでうちの女たちが「火垂るの墓」のドラマ版を一生懸命見ていたが,ああいうフィク

ションでさえとても正視できない。自分のそういうメンタリティは,たぶん後天的なものだと思う。

以前の雑記帳に,イラク戦争のことを書いた。ぼくの視点は,「イラクの一般大衆があの戦争を

どう思うか?」という点にあった。端的に言えば,「フセインに支配されるのと,アメリカに支配

されるのと,どちらの方が不幸の程度が少ないか?」ということだ。あの記事を書いた当時,

「アメリカに支配される方がましだ」と思う人の方が多ければ,結果的にあの戦争には意味が

あった,とぼくは考えた。今でもそれは変わらない。ここでは,戦争の大義とか国際政治の

ルールなどは全く問題にしていない。単に,イラク大衆の「気持ち」になってあの戦争を見よう

としただけだ。それは,彼らの置かれた状況が気の毒だ,という素朴な感情から発している。

そういう感情を,「正しい」とか「間違っている」とか理性で評価しても意味はない。

(言うまでもなく,理性的判断は別のところにある。イラク戦争は善か悪か?と問われれば,

合理的思考の帰結として,「悪」だと答えるのが当然だ)

 


もともと,学校の教師という職業は好きではなかった。
第一に,狭い世界の中だけで生きている人たち,というイメージがあった。

第二に,学生時代に特に恩義を感じた教師がいなかった。

一方で,高校時代に,ある「塾の先生」に強烈な影響を受けた。

それが,今自分がいる業界に入った直接の動機だ。

(ちなみに今いる業界は,学校とはまるで違った,1年先の保証もない弱肉強食の世界である)

そして第三に,子供があまり好きでない,というか,苦手だった。

転職してたまたま入った予備校グループが高校や中学も経営していた関係で,高校や中学の

教壇に立ったこともある。仕事の比率は,予備校が7割,高校が2割,中学が1割くらいだった。
実際に「先生」と呼ばれて改めて思ったのは,自分には教師としての適性がない,ということだ。
「よい教師」の条件は,ただ1つしかない。
それは,「四六時中子供と接しているのが楽しい」という性格の持ち主であることだ。
この適性さえあれば,ほかには何も必要ない。指導技術なんか,まるで関係ない。
そして,こういう適性を持つ「よい教師」というのは,10人に1人くらいしかいない。当然である。

自分の私生活をほとんど犠牲にして生徒と接することに喜びを感じるような人が,そんなにいる

わけがない。教師に限らずどんな業種でも,「寝食を忘れて没頭できる」くらいの愛着を仕事に

対して持つ人だけが,その道で一流と呼ばれることができるのだ。

しかし,そういう自分であっても,教師の仕事をしながら自然に身についた感性,あるいは

「子供に対する見方」のようなものはある。一種の職業病,と言ってもいいのかもしれない。
その感性を一言で言えば,こうだ。


社会的不適応者を「自分とは別世界の人間」として,自分の

気持ちの中で「切り捨てる」ことができない。

あえてこう言うのは,たぶん世の中の多くの人は,社会的に問題のある人に対して,嫌悪感

あるいは敵意を抱き,「かかわり合いたくない」とか「この世からいなくなればいい」とか思って

いるだろうからだ。そのことは,掲示板荒らしやゴミの放置に関してうちのHPの掲示板に書き

込まれた多くの人たちのリアクションからも読み取れる。それが,世の中一般の反応である

ことは間違いない。しかしぼくが抱く感情は,それとはだいぶ違う。


たとえば「荒らし」の人たちに対して思うのは,「あっち行け!」的な敵対感情では決してなく,

ただ「かわいそうだ」という思いでしかない。なお言えば,これも世間の人がしばしば使う

「哀れな奴らだ」というのとはちょっと違う。その言葉の背後にはたいてい,「哀れな奴らだ。

しかし,自分の知ったことではない」という気分が隠されている。ぼくの場合はそうでは

なくて,純粋に気の毒な気持ちでしかない。こういうことを書くと,「何様のつもりだ」とか

思う人がいるかもしれない。でもその人は,たとえばアフリカで飢えに苦しむ子供らの

映像を見て「何てかわいそうに」という感情を抱く人を,同じ言葉で非難するだろうか?

荒らしの人たちをかわいそうだと思うのは,飢えた子供らを見る目と基本的に変わらない。

つまり,「自分とは関係ない」では済まされない,一種の罪悪感のような気持ちだ。

 


仕事柄,多くの十代の若者と接してきた。主に予備校生と高校生だ。
その中には,いわゆる「問題児」も数多くいた。
彼らには,共通点があった。
彼らとて,生まれたときから「問題児」だったわけではない。
彼らは,どこで道を間違えたのか?彼らの反社会的性格は,何に原因があるのか? 
ぼくの個人的経験は,1つの答えを示している。それは,
  
親から受け取る愛情の不足 
  

これに尽きる。

問題行動を引き起こす若者の大半(主観的には9割方)は,小さな子供の頃に親から

十分な愛情を受け取っていない。「親にかまってもらう時間が短かった」ということだ。
  
ただし,それにはさまざまな理由がある。いわゆる育児放棄だけではない。

親に愛情はあるけれど仕事が忙しいために子供をかまってやるヒマがない,あるいは

両親のどちらかがいない,など,一概に親を責めることのできないケースもよくある。
しかし,どういう理由にせよ,「親子が接する時間が少ない」ことが,子供の非行の最大の

原因であることには疑いの余地はない。なお,「接する時間は短くても,その分濃密で

あればよい」という考え方には賛成しない。その理屈を子供が理解するはずがないからだ。

子供自身にとって大切なのは,質よりも量(親子が一緒に過ごす時間の長さ)である。
  
うちの子が幼稚園児だった頃,参観日だか運動会だか,保護者が集まる行事があった。

後でヨメに聞いた話だが,その中に一人,親が来ていない男の子がいたそうだ。その子の

家は母子家庭だそうで,お母さんは仕事で忙しく幼稚園の行事にも来たことがなかった。

その子は,どんな行動を取ったか?彼は,聞かれてもいないのに「自分はさびしくない」と

周りに言い,一生懸命に注目を集めようとして大声を上げたり走り回ったりしていたそうだ。

その話を聞いて,涙が出そうになった。母親を責めることはできない。誰が悪いわけでも

ないけれど,その男の子の将来を思うと,心の底から気の毒でならなかった。

子供の頃,近所の同級生の中に,親に十分面倒を見てもらっていないらしい子がいた。

それを知ったのは,彼が学校へ持って来る弁当を見たときだ(当時学校給食はなかった)。

彼の弁当はゴハンと卵焼きとか,ごく簡単な料理しか入っていなかった。お兄ちゃんと

二人して毎朝自分たちで弁当を作っているようで,弁当箱を隠すように食べていた。

家に遊びに行ったこともあるが,親の顔を見た覚えはない。友人たちからは「ええかっこ

しい」と言われて,必要以上に目立とうとする言動が多かった。それが「誰かにかまって

ほしい」という気持ちの現れであることは,さっきの幼稚園の男の子と同じだ。

彼は結局,高校を中退したとか,自衛隊に入ったとか,ヤクザになったとか,いろんな

噂が流れたが,その後の消息は知らない。

予備校の担任をしていた頃も,幼児性を色濃く残した生徒がいた。とにかく,四六時中

べったりくっついてくる。よく夜中に電話もかけてきた。断っておくが,その子は男だ。
その子も父親が単身赴任で長いこと母親と二人暮らしをしており,明らかに担任である

ぼくに「親の愛情」を求めているようだった。何十人かのクラスの中に毎年たいてい一人

くらいは,こういう生徒がいた。そういう子の相手をするのは正直いやだったが,そうは

言っても,「自分をかまってほしい」と訴える子供を冷淡に突き放すようなマネは,

人間としてできない。しかし,親でない自分は親の代わりにはならないし,あまり世話を

やきすぎるとかえって本人をスポイルしかねない。そういう,何とも言えない無力感と

いうか・・・「親がなっとらん!」と腹を立てたところで,その子が救われるわけでもない。

当時の自分としてはできるだけのことをしたつもりだが(「真の教師」なら,本当に親の

代わりとして彼らに接したかもしれない),それが彼らにとってどれだけプラスになった

かはわからない。彼らは今ごろ,どこで何をしているだろうか。

 

そんなふうに若者と接する仕事をするうちに,子供の不幸な境遇に感情移入する癖

がついてしまった,というわけだ。子供を相手に仕事をしている以上,「子供は嫌い」で

は済まされない。実際には,教師の中にも「なるべく子供とかかわりたくない」と考える

職業不適応者もいる。しかしそういうのは例外で,ほとんどの教師は似たような葛藤を

経験していると思う。(蛇足だが,教師になって改めて思ったのは,自分がそうであった

ように,多くの子にとって教師とはベビーシッターの延長のようなものだ,ということだ。

「生きる力」を与えてくれるのは,学校や教師ではなく,社会に出てからの経験である)

 

そういう意味で,凶悪な犯罪者にさえ,ぼくは同情を禁じえない
彼らの多くは,「成長した『不幸な子供』」だからだ。

犯罪を犯した者は社会的に罪を償う義務があり,法律が定めているのなら死刑になる

のも致し方ないだろう。「かわいそう」という感情は,そういうこととは全然別の話だ。 


神戸で小学校に乱入して死刑判決を受けた男がいた。彼は母親の愛情を知らず,

父親からは暴力を振るわれて育ったという。どんな事情があったとしても,それで彼の

犯した罪が軽くなるわけではない。しかし,もしも自分が彼と同じような子供時代を

過ごしていたなら,自分はどんな人間に育っていただろうか?と想像するとき,

少なくとも心情的には,彼を一方的に責める気にどうしてもなれないのだ。

しいて言うなら,彼は「運が悪かった」というしかない。

この言い方に対して,批判はいくらでもできるだろう。


「殺された子供たちも『運が悪かった』で済ますのか?」

「自分の子供が殺されても同じことを言うのか?」
「育った環境は悪くても立派な大人になっている人はたくさんいる」
「成人になったら自分の行動に責任を取るのが当然だ」
「そんな言い訳が通じるなら法律や警察はいらない」

でも,ここで言いたいのは,そういうこと(社会的責任論)とは次元の違う話である。

 

水があれば野菜は育つ。しかし,水だけでは立派な野菜には育たない。肥料も必要だ。
とりあえず食うものがあれば,子供は死にはしない。しかし,立派に育つためには,

やはり肥料が必要である。それがすなわち,「親から受け取る愛情」だ。
何かの不運によって親から十分な愛情を受けられず,その結果として非行青少年や

非行成年になる人たちがいる。彼らや彼女らも,生まれたばかりの頃は皆,無心に

親の愛情を求める可愛い幼児だったに違いない。彼らが社会的不適応者になった

原因は,遺伝子にあるのではない。後天的な理由の方が圧倒的に大きいはずだ。

もしそうでないとしたら,「彼らは犯罪者(社会的不適応者)になるべく生まれ

ついたのだ」ということになってしまう。それは,いくらなんでも救いがなさすぎる。

もう一度,同じことを書く。

  
反社会的行動を取る人には,しばしば生育環境の悪さというハンディがある。

それを思うと,「彼らは社会の敵だ」とか,「この世からいなくなればよい」とか,

自分の気持ちの中でその人たちを「切り捨てる」ことが,どうしてもできない。 

切り捨てることができれば話は簡単だし,多くの人はそうしていると思う。

でも,自分の(おそらくは後天的に形成された)心性が,それを許さない。

 

「じゃあ,おまえは彼ら(荒らし)に救いの手を差し伸べてやることができるのか?」
残念ながら,それはできない。外国で起きている戦争の報道を見て「気の毒だが,

自分にはどうしようもない」と思う感覚に近い。無責任だとか,他人の不幸を見て

内心で楽しんでいるだけだとか,批判する人もいるだろう。でもしかし,「親の愛情に

恵まれずに育った子供が気の毒だ」という気持ちは,人間としての深い部分から

発していると自分では思っているし,自分の身内には絶対にそのような不幸を

経験させたくない。それが親として最低限の責任だと思う。(話がそれるが,夫婦が

離婚するのは当人たちの自由だ。しかし,離婚によって小さな子供が片親になる

のは,極力避けてほしい。片親の子がみんな不幸になるわけではないが,自分ら

の都合で子供に大きなハンディを負わせることには違いないからだ)


ここでようやく,掲示板荒らしの話になる。


今年の秋,うちの掲示板にちょっとした「荒らし」があった。
結局それに関連する投稿は全部削除したが,改めて荒らしの書き込みを見て思う。
おそらくは別人が書いたであろう2つの書き込みには,同じような文面が含まれていた。
自分の悪口を好きなだけ書いてもらってかまわない」という内容の捨てゼリフだ。
これを読んだとき,あの幼稚園の男の子や,子供時代の友人を思い出してしまったのだ。

事実は全く違うのかもしれない。彼らは普段は普通の社会人として振舞っていて,時々

あまり品のよくない趣味(荒らし)で,軽いストレス解消をしているだけかもしれない。

ついでに言えば,今日の2ちゃんねるなどの隆盛は,「カーニバル化」という最近流行の

キーワードでとらえるのが,たぶん妥当なのだろう。これは「『お祭り』に参加しているとき

しか社会との一体感を味わえない人が増えている」という社会学的分析である。

そのお祭りとはたとえばサッカーのワールドカップであり,また小泉ブームであり,次は

憲法改正か?という話だ。要するに「楽しければ何でもいい。その盛り上がりの輪の

中に入っていれば,他人とつながっているような気分になれる」という心性である。

この分析は,今日の社会的風潮を読み解くのに十分な説得力があると思う。

しかし,それでもなお,大勢の若者と接する中で身についた自分の心のありようは変わらない。

「荒らし」への最善の対応は「無視すること」だ,と誰もが言う。それは,その通りだ。

心情的には気の毒に思うが,行動としては今後も「無視」するつもりではある。

ただ,彼らは(自覚があるかどうかは別として)「批判でもかまわないから,自分のことを

かまってほしい」と思っているのだろう。だから,本当に彼らを気の毒に思うのなら,掲示板で

とことん相手をしてあげるべきなのかもしれない。でもそれは結局,かつて孤独な予備校生を

相手にやったことと変わらない。掲示板の口汚いやり取りの相手をすることでその人に何か

プラスになるのならともかく,子守りの延長のような非生産的なことをする気はない。

その人を本当に救ってあげられるのは,親なり恋人なりごく近しい身内でしかないと思う。

 

掲示板に書き込みをする人は誰でも「他人とコミュニケーションを取りたい」と思っている。

しかし,普通の言葉使いができずに,(心ならずも)悪意のこもった物の言い方をしてしまう

のだとしたら,それはその人が何かしらの「心の闇」を抱えているからだ。

 

もしもあなたの性格や感性が人生のどこかの時点で歪んでしまったのだとしたら,その

歪みの原因となるべくあなたの身の上に降りかかったであろう不幸の大きさを思うとき,

同情を禁じ得ない。

 

もちろん不幸は誰にでも降りかかるものであり,多くの人はそれを乗り越えて

(あるいは忘れて,あるいは開き直って)生きているのだけれど,だからといって,

あなたにもそうしろ,と軽軽しく言うつもりはない。あなたの不幸の大きさは,

あなた自身にしかわからないからだ。

 

叶うなら,同じ空の下に暮らすすべての人が,自分なりに幸福であってほしい。

 

あなたの魂が,いつの日か救われることを祈っている。

 

 

 

【追記】

偽善者ぶっているわけでも,上から見下ろして物を言っているのでもないし,荒らしの

心理分析がしたいわけでも,まして説教したいわけでもない。単に,自分の思うことを

まんま書いたにすぎない。ここに書いたことを読んでいろいろと思う人もあるだろうが,

この記事を「正しいか間違いか」という見方で読まれるのは,本意ではない。

本稿は,「オレの言うことは正しいだろう,まいったか」と主張するような性格の文章

ではないからだ。「自分の意見や感情はあなたのとは違う」という人は,大勢いるだろう。

感想の表明については,掲示板を自由に使っていただきたい。

(常識的に見て「悪意の書き込み」と判断したものは,速やかに削除する。「悪意」が

あるかどうかは,書かれた内容ではなく言葉使いで判断する)

 

 

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