仮定法過去の典型例の1つを示します。(「アトラス総合英語」より)
・If I had
a garden, I would grow
vegetables.
(もし庭を持っていたら,野菜を育てるのに)
この文は,「(今)〜だったらいいのに」という現在の状況を表しています。
このような場合,仮定法では過去形を使います。
ここで注意しておきたいのは,「時制」と「法」とは異なる文法概念だという点です。
時制が「時を表すVの形」であるのに対して,法は「話し手の気分[心的態度]を表す
Vの形」です。したがって「仮定法過去」と「過去時制」とは別物であり,仮定法と
いう表現形式に過去形[=過去時制]を借用したものだと言うことができます。
では,現在のことを表すのになぜ過去形を使うのでしょうか?これについては学習用の
文法書でたいてい説明されており,おおむね次のように一般化することができます。
●仮定法で現在のことを表すのに過去形を使うのは,「心理的な隔たり」を
「時間の隔たり」に置き換えようとする心理が働いた結果である。
たとえば日本語でも,ファミレスなどで注文した品を持ってきたウエイターが
「以上でよろしいでしょうか」と言う代わりに「以上でよろしかったでしょうか」と
言うことがあります。このとき話し手は,「よろしい」を「よろしかった」と過去を
意味する言葉で言い換えることによって,よりていねいな言い方になったと感じ
ます。これはなぜでしょうか?
それは,「相手との間に距離を置くことで,控えめな表現になる」という心理が働く
からです。日本語でも英語でも,言葉のうえで「距離」を置くために,現時点から
隔たった時点を表す過去形を使うわけです。
【参考】日本語の文法には「過去形」という形はありませんが,実質的には「よろしかった」は
過去を表す形と考えてよいでしょう。
【参考】広島や山陰の一部の地方では,「いらっしゃいませ」を「いらっしゃいました」,あるいは
「おはようございます」を「おはようございました」と過去形で表現すると聞いたことが
あります。これも同じ心理が働いた結果でしょう。
このことは,仮定法に限らず「過去形を使うとていねいな言い方になる」という
一般的な事実とも符合します。さらに一般化して言えば,時制を変えることに
よって「ていねいさ」の度合いに変化をつけることができます。
(a) I wonder if you can help me.
〈現在形〉
(b) I'm wondering if you can
help me. 〈現在進行形〉
(c) I wondered if you could help
me. 〈過去形〉
(d) I was wondering if you could
help me. 〈過去進行形〉
これらはどれも「手伝っていただけないでしょうか?」と相手に打診する表現です
(たとえば(a)の直訳は「私はあなたが私を手伝えるだろうかと(いぶかしく)思う)。
このとき,(a)→(b)→(c)→(d)の順に「ていねいさ」の度合いが大きくなります。
(a)はニュートラルな表現ですが,(b)のように進行形にすると「wonderの気持ちが
まだ進行中だ(完結していない)」というニュアンスになり,断定を避けた言い方に
なる分だけ控えめな響きが生まれます。(c)の過去形は「今」との時間的な隔たりが
(b)よりさらに大きいため,より控えめな言い方です。そして(b)と(c)を組み合わせた
(d)は,最も控えめ(ていねい)な尋ね方になるというわけです。
※「アトラス」ではp.299でこの点に言及しています。
このように,時制には「心理的距離を時間的距離に置き換えて,控えめな響きを
生み出す」という働きがあります。仮定法過去で過去形を使うのは,過去形の持つ
そのような働きを利用したものです。
余談ですが,「アトラス」でも元原稿では上のファミレス店員の言葉使いの説明
を入れていたのですが,「『よろしかったでしょうか』という間違った日本語を
学習者に示すのは好ましくない」という意見が内部検討の過程で出たため,
その文面はボツになりました。これは教育的配慮という観点から致し方のない
ことだとは思いますが,一般教養として次のことは知っておくといいでしょう。
人文・社会科学系の多くの学問には,次の2つの立場があります。
・規範的(prescriptive)な立場=「こうあるべきだ」という主張をする立場
・記述的(descriptive)な立場=事実をありのまま記述しようとする立場
たとえば政治学は,ずっと昔は「政治とはこうあるべきだ」ということを研究する
ことが主体でした。しかし今日の政治学は,実際の政治に関連する現象を分析し
合理的な説明を加えようとする立場が主流です。言語学もしかり。あらゆる学問を
通じて,規範的な立場に立脚する学者は今日ではほとんどいないと言ってよい
でしょう。「間違った日本語」のような本がよくありますが,あれは商売が目的で
あって,多くの国語学者の関心は別のところにあります。英語でもそうです。
文法的に正しいかどうかはネイティブによって大きく判断が違っており,
学校の英語では規範的立場を重視しますが,英語学(英文法)を専門に研究
する人々,あるいは辞書を作る人々は,「実際に使われている英語」を正しく
記述することに精力を傾けます。
かつて「ら抜き言葉」は間違った日本語だと言われていました。たとえば「見れる」
「食べれる」は誤りであり,「見られる」「食べられる」が正しい,というような。
しかし今日では「見れる」「食べれる」式の言い方も普通に使われており,
それは「国語の文法が変化した」ことの一つの現れと言ってもいいでしょう。
あらゆる言語はこの種の変化にさらされており,「その表現は間違いだ」と
規範主義的立場からいくら主張しても,変化の流れを止めることはできません。
学習者は「文法の規範を学ぶ」という態度でかまいませんが,教える側は
規範にあまりこだわると現実の英語の実態から離れて行く傾向があるので
注意が必要です。
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