日記帳(11年6月27日〜7月3日)
今は7月3日(日曜日)の夕方。この週末も仕事に明け暮れた。さっき1本仕事をアップしてメールで送ったので,今日のノルマはこれで終了。
毎日単調な生活の繰り返しではストレスが溜まるので,最近は毎週日曜日だけ夕飯作りを
パスして家族で外食することにしている。金はある。平日は夕飯の買出し以外はほとんど
使うことはないし,休日もレジャーの出費はゼロだから。
もう頭がオフになったので,夕飯まで時間つぶしに日記を書く。先週に引き続きマクロとミクロの話。
こうやってずっと仕事仕事の毎日を送っていると,自分の人生これでいいのか?という気がしてくる。せっかく釣りという趣味があるのに,その楽しみを奪われてばっかりでは人生の無駄遣いでは・・・
しかし逆に,週末に釣りに行くのだけが人生の楽しみ,というのもちょっと・・・
ざっくり言えば仕事はマクロであり,趣味はミクロだ。趣味で楽しいのは自分ひとりだが,仕事は社会と関わっていて,社会全体に何らかの貢献をしている。定年退職して仕事を離れると,生活は
ミクロ中心になる。つまり働き盛りはマクロ(社会生活)の比率が高く,死ぬ直前はほとんどミクロ
(個人生活)オンリーになる。人生設計という観点から言えば,若いうちは先々のことをあれこれ
考えねばならないからマクロ的であり,年取ると眼の前の一日に喜びや悲しみを重ねあわせるように
なってミクロの世界に入り込む。要するに人間は,活力があるときほどマクロ的になるということだ。
どちらか一方だけでは幸せになれない。ミクロ100%の人も,その逆の人も,たぶんいない。
日頃マクロな話ばかりしている経済評論家でも,休日はパチンコ屋でミクロっているかもしれない。
適度な配分の目安は,働き盛りならマクロ8:ミクロ2,定年退職したらその逆,くらいだろうか。
そう考えると,この年齢で1年くらい釣りに行けなくても我慢すべきなのかもしれない。
新聞の1面はマクロであり,三面記事はミクロだ。「管首相の辞任の時期は?」という話題をマクロ的に見ようとすると予備知識が必要だが,「なんか往生際が悪いよねえ」「まあせっかく
トップに登り詰めたんじゃけ,ちょっとでも長うそこに居座りたいじゃろうよ」とミクロ的に想像で
物を言うのは楽だ。つまりミクロ的視点は,一種の「逃避」だ。深く考えるのがめんどくさいので,
自分の理解できる範囲で好き勝手な想像を巡らせるわけだ。「何となく原発は嫌だ」という発想も,
その延長上にある。年寄りの物の考え方がマクロからミクロへ移行するのは自然の流れであり,
それでも誰も困らない。働き盛りの人がみんなミクロ的な発想しか出来ないとしたら,社会全体と
してはちょっと困る。まして若者がみんなミクロ的になったら,それは集団ニートと同じだ。
ここまでの話をおおざっぱにまとめれば,マクロ的発想はある種の必要に迫られて初めて出てくる
ものであり,ミクロ的発想はある意味で「余裕」の産物だと言える。もしも人間が無限の寿命を
持っているなら,誰もがミクロ人間になってしまうだろう。専業主婦の発想が総じてミクロ的なのも
(違ってたらゴメン),とりあえず生活の基盤が安定しているという前提条件に支えられている。
「原発をどう思いますか?」という問いに対して,「マクロ的に考えるのは難しいですが,ミクロ的には(つまり個人的な印象のレベルでは)反対です」と言うのは,ある意味で良心的な発想だと思う。
相対的によろしくないのは,生半可な知識しか持たないのに,マクロ的に語ろうとする姿勢だ。
「自分はバカだからミクロのことしかわかりません」と言う人は「愚かな正直者」だが,背景知識を
持たずにマクロ的な議論を持ち出すのは「ただの愚か者」だ。だからぼくは,たとえ知識人であれ
自分の土俵の中だけで「原発反対」と唱える人の言うことに(共感は覚えるが)情報的な価値は求めない。
もっとも,いろんな人がいろんな立場から主張する論のうちで何を信じるかは各人の判断次第であり,
その判断の基盤がミクロ的ではどこまでいっても堂々巡りではあるのだが。
結局何が言いたいかといえば,「マクロの議論に参加したければ,知識を蓄えねばならない」,裏返せば「知識のない人間はマクロの議論に参加すべきではない」ということだ。
その考えを厳密に当てはめていくと,たとえば管さんが辞めることについて,それが今日の
政治状況やこの国の未来にとってどういう影響があるのか?というマクロ的な議論には
ついていけないから,正直な愚か者の自分としては,管さんの心中を察してあれこれ想像して,
何かが分かったような気になる,という方向に走ってもそれは無理からぬことだ。
そうやって多くの庶民は,世の中がわかったような気になっているわけだ。
別にそれを批判しているのではないよ。
あんまり固い話を続けてもアレなので,「知識があればマクロなことも言える」という例を一つ紹介しよう。不肖わたくしは,政治や経済のことはミクロに逃げちゃうけど,マンガのことだったらマクロも語れちゃうよ。
知識があるからね。ついでに,今仕事仕事でストレスも溜まってるからね。
たとえば最近10年間くらいのマンガ・アニメシーンを代表する作品を1つだけ挙げるとしたら,皆さんは何を思い浮かべますか?−え?ワンピース?それは素人の発想です。ワンピースは確かに
歴史に残る名作ですが,単体としての価値しかありません。周囲に対する波及効果が弱いわけです。
その意味では,今日のジャンプ的バトルマンガのプロトタイプとなったドラゴンボールの方が上ですね。
わたくしが押す最近10年を代表するマンガは,「らき☆すた」である。言うまでもありませんが,個人的に好きだからという理由ではありません。別に好きでもないしね。
まったく知らない人のために簡単に説明すると,「らき☆すた」(命名はLucky Starから)は,4人の女子高校生のまったりとした日常を描く4コママンガであり,アニメ化されて人気に火がついた。
ぶっちゃけ,原作のマンガ自体はどうってことない代物だ。それがなぜ今日を代表する作品
たり得るかと言えば,理由は2つある。
1つは,この作品によってアニメ界が「魔法の杖」を手に入れたことだ。すなわち,「数人の
かわいい女の子が出てくる原作マンガ」がそこにありさえすれば,あとはアニメスタッフの味付け
次第でヒットアニメを無限に量産できる,という,錬金術のような仕組みだ。ストーリーはなくていい。
必要なのは,基本的には原画スタッフの腕だけだ。「らき☆すた」がその後のアニメ界にいかに
大きな影響を与えたかは,似たような(多くはひらがな中心のタイトルの)萌えアニメ(たとえば
「けいおん」)がその後続々と現れたことにも現れている。「そんなのは一部のコアなマニアの世界
だけの話だろう」と言うなかれ。ユーチューブに「anime dub」と入力して検索してみるがいい。
英語・中国語・ドイツ語・スペイン語・・・世界中の言語に翻訳された日本アニメを見ることができる
(もちろんその言語の勉強にも使える)。それらの多くはいわゆる萌えアニメであり,このジャンルが
クールジャパンのキラーコンテンツとして海外で膨大な経済効果を生む可能性はかなり高い。
日本のアニメおたくのニートと同じような人々を海外で拡大再生産することが本当にいいことか?
という面はあるにせよ。
「らき☆すた」が持つ第2の社会的意義は,この作品がいわゆる「萌えおこし」の代表例と評価
されている点にある。萌えおこしとは「萌えによる町おこし」の意味で,この作品の舞台の一つと
される埼玉県の鷲宮神社は,今や初詣の人気スポットにまでなっている。身近なところで言えば,
作者の故郷である広島県・三次市を舞台にしたマンガ「朝霧の巫女」や,まもなくTVアニメの
放映が始まる竹原市を舞台とする萌えアニメ「たまゆら」など,マンガやアニメが地元の観光業と
タイアップする例はいくらでもある。そうした手法による町おこしを可能にする唯一絶対の条件は,
ツールとなるべきマンガやアニメの主人公が「(できれば数人の)若い女の子」であることだ。
たとえば三原出身の人気マンガ家・川原正敏が今年になって「月刊少年マガジン」で三原を
舞台とする「ふでかげ」(三原にある筆影山からの命名)というマンガの連載を始めたが,
彼がいかに高名なマンガ家であっても,主人公が男では町おこしにつながらないのだよ。
言い換えると,萌えマンガやアニメのファンは,どういうわけだか,全国を旅行するくらいの
金を少なくとも持っているということだ。AKBのファンと同じだな。そういう一種の霊感商法
みたいなものに頼って経済効果を期待するのは邪道だ,という批判もあるだろうが,ちょっと
回りを見回せば,食品のパッケージとか,店の看板,ガイドマップ,書店のポップなど,
ありとあらゆるところに「プチ萌えおこし」が見られる。「らき☆すた」のキャラたちは,その
象徴として,マンガ社会学者たち(ほとんどいませんが)に末永く記憶されるべきだろう。
そろそろ6時だ。帰ってシャワー浴びて,ビール飲みに行くかー。