日記帳(11年7月4日〜7月10日)
今は7月10日(日曜日)の午後。今日も朝の6時半ごろから仕事をして,「月曜日の朝一」と約束しておいた資料のメールを10時ごろ送り,そのあと溜まっていたゲラのチェックをして
さっき宅配に出しておいた。まだ仕事は溜まりまくっているが,今日はもうこれで終了。
夕飯までに映画を1本見るくらいの時間はあるが,夏本番を控えて多少は汗をかいて
おかないと新陳代謝が悪くなって体調を崩すので,もうちょっと日が傾いてから2時間くらい
どこか近くで竿を出してみようかと思っている。帰ってからのビールが楽しみだ。
習慣というのは恐ろしいもので,ここまで仕事にどっぷり浸かっていると,だんだん体が
なじんできて,休みがなくても全然平気になってくる。しかし前にアゴが痛くなって歯医者へ
行ったときに「夜中にそうとう歯ぎしりしてますね(たぶんストレスで)」と身に覚えの無い
ことを言われたことがあるので,やっぱい息抜きは必要だろう。
前回と前々回に「マクロとミクロ」の話を書いて以来,これが非常に気に入っている。
今までばくぜんとしか表現できなかったものが,「マクロとミクロのブレンド比」という
概念を使えば,かなりうまく説明できることに気づいたのだ。
マクロとは総論,ミクロとは各論であり,人は誰でもこの両者のバランスを取りながら,
そのときどきの判断を行っている。その配分比率は人によっても違うし,考えている
問題によっても違う。いくつか例を挙げてみよう。
「死刑制度をどう思いますか?」という問いに対して,ミクロ100%で答える人がいる。
それは,身内を理不尽な理由で殺された被害者だ。「核兵器(あるいは原発)をどう
思いますか?」という問いに対しても,多くの被爆者はミクロ100%で答えるだろう。
つい最近も中国新聞の投書に,ある被爆者が「日本は『核の傘』から脱するべきだ」
という意見を寄せていた。その人にとっては「(自分を不幸にした)核を許さない」と
いうミクロの視点がすべてであり,原子力が社会全体にとってどういう意味を持つかを
深く考えてはいない(したがってマクロ的視点はほとんどない)。なぜなら『核の傘』を
脱して,そのあとはどうなるの(日本の安全保障をどう考えるの)?という視点が
欠けているからだ。もしかしたらその人は「それは自分の考えることではない。自分は
ただ,核が憎いだけだ」と言うかもしれない。核の被害者としてはある意味で当然の
ことであり,誰もその人を責めることはできない。しかし,世間のすべての人がそれと
同じミクロ100%の発想で「核兵器反対」「原発反対」と言うわけではないし,そうで
あっては困る。ぼくが核兵器に関する中国新聞のスタンスに反発を覚えるのは,
彼らが公器としてはミクロの方に寄りすぎている気がする,つまりこの問題に
関する自分自身のマクロとミクロの配分比の許容範囲を逸脱しているからだ。
「凶悪な犯罪者でも(おそらくは不幸な生い立ちを考えると)責める気にならない」
と前に書いたように,自分自身はかなりミクロの方に傾いていると自覚している
(もっともこれに関しても,ミクロの思いを犯罪者と被害者のどちらに向けるのか?
という問題はあるが)。それでも,当事者でない限りはミクロとマクロの比率を常に
意識しながら物事を考えているわけで,これは誰にでも当てはまるだろう。
サッカーJリーグ発足当時のW氏とK氏の対立については,W氏は一種のマクロ病,
つまり「マクロしか見えない(あるいは見ようとしない)病気」だったと思う。借りにその
見方が正しいとすれば,W氏がマクロ病だった理由は明らかだ。彼は,スポーツと
してのサッカーにも野球にもまったく興味がない。だからサッカーや野球自体の価値
がわからず,ビジネスのための手段,あるいは一種の「記号」としてしか見なかった。
対してK氏は元サッカー選手であり,サッカーをする人や見る人の個々の思いを
汲み取る,つまりミクロの視点を持つことができた。つまりW氏の判断はマクロ100%
であり,K氏の判断はマクロとミクロのバランスを考慮したものだった。W氏の判断は,
上で挙げた原爆被害者の『核の傘脱却論』と同じ地平上にあり,K氏の判断が結局
正しかったと証明されたのは偶然ではない。
直接関係ないが,カープのオーナーであるM氏は,カープファンの間では(おそらく)
すこぶる評判が悪い。M氏を批判する多くの人は,氏に「チームを強くしようという
情熱が感じられない」と言う。しかし,ぼくはM氏が嫌いではない。打者が打った後で
一塁へ走るというルールさえ知らなかったと言われるW氏とは違って,M氏は野球と
いうスポーツの愛好者であり,マツダスタジアムに屋根がついていないのもその現れだ。
だから少なくともM氏には,ミクロの視点は少なからずあるだろう。批判する人々の
意見を一口でまとめるなら,「M氏にはマクロの比率をもっと上げてほしい」という
ことだろう。たとえばM氏のブレンド比がマクロ3:ミクロ7であり,批判者がその逆の
比率であったなら,批判者はM氏を許さないだろう(自分のブレンド比の許容範囲を
越えているという理由で)。しかし逆にM氏のブレンド比がマクロ9:ミクロ1のように
なって,阪神のように取っかえ引っかえ他チームの選手を引き抜いてくるように
なったら,7:3の批判者はそれもやっぱり許さないだろう。
先日,Mという震災復興担当大臣が放言で辞任した。報道を見た人に「M氏をどう
思いますか?」と尋ねれば,多くの人は「大臣ちゅうより,人としてダメじゃろ」と
答えるだろうし,それは正しい。では具体的に,彼のどこに問題があったのか?
彼の最大の欠点はおそらく,「(個々の)被災者の気持ちに寄り添う」という意識,
つまりミクロの意識が全くなかったことだろう。要するに彼もまた,マクロ病だった。
「復興のための予算は無尽蔵ではなく,貴重な税金だ。その限られた予算をどう
効率的に使うべきかを,自分は真剣に考えたのだ」と,本人は思っているかもしれない。
それはマクロ的には正しい。しかし,マクロ100%はやっぱりダメなのである。
田中Kという政治家はイメージでしか知らないが,娘の田中Mはリアルタイムで
知っている。ニュース映像などで見た限り,まあお近づきにはなりたくないタイプだ。
しかしそういうタイプの政治家は,世間的な人気は決して低くない。K井S香だって,
町内会の寄り合いに出てきたら怪しげな商売をしているフィクサーのようにしか
見えないが(笑),政治家としてはあの「庶民性」を好む人たちもいるだろう。
もう一度繰り返そう。人は他人の言動を,「自分が持っているマクロとミクロの
ブレンド比」を基準にして判断する。そして,他人の言動や判断のもとになって
いるブレンド比が自分自身のそれとは食い違っている度合いが大きいほど,
その他人を批判したがる。したがってその批判を,正しいとか間違っているとか
言うのはナンセンスだ。正しいかどうかは,(結果が出るものに関しては)結果を
見て判断するしかない。そういう意味では,「M氏はダメだ」と言ってもいいのかも
しれないが。