日記帳(2012年3月10日)
この週末は潮も大きいし、例年ならそろそろ瀬戸田でチヌでも・・・
といきたいところだが、今週はずっと仕事が忙しくて週末も全く休めない。
月曜日からは東京へ出張。明日の日曜日はそのための資料作りでずっと仕事の予定。
今は10日(土)の昼過ぎ。朝から仕事して、昼食にセブンイレブンのマーボー丼を食べ
(美味いよねこれ)、ちょっと休憩してこれを書いている。
この前の日曜日(3月4日)の午後は、大黒座へ映画を見に行った。
見た映画は、デジタルリマスター版の「幕末太陽伝」。1950年代の古い映画で、
主なキャストはフランキー堺、石原裕次郎(高杉新作役)、左幸子、南田洋子らだ。
久坂玄瑞役の細面の若者が小林旭だったことは後で知った。
日本映画の名作と言われる作品はあらかた名前だけは知っているが、実際に見たのは「七人の侍」などわずかしかない。DVDを借りればいつでも見られるが、
どうせなら映画館で見たいと思ってリバイバル上映を待っているからだ。
今回、カルトムービーとして名高いこの作品が福山で上映されるというので、
これはどうしても見にゃなるまいと思って行ってみた。感想は・・・面白かった!
点数をつけると85点くらい。減点のポイントはどこかと言えば、1つには登場人物の
セリフが早口すぎて何を言っているのかよく聞き取れないところがある。もう1つは、
現代人の目から見るとセリフ回しが芝居がかりすぎていて、やや不自然に響く。
まあこれは当時のスタイルだから仕方ないだろう。最初はどういう話だかよくわから
ないが、広げた風呂敷をラストの30分ほどできれいに折りたたむ感じがすばらしい。
別の名作映画が大黒座でリバイバル上映されたらまた見に行きたい。
でも、予告編に出ていた「いちご白書」はパス。名の知れた映画で今一番見たい
(もちろん映画館で)のは、水野晴郎の「シベリア超特急」だ。
その日(4日)は映画を見た後でヨーカドーへ行き、本屋と食品売り場で買い物をして、午後6時ごろに家へ帰った。この夜は家族が仕事や遊びで不在だったので、一人で
酒を飲んだ。買ってきたシメサバや牛肉のたたきや菜の花のおひたしで安い白ワインを
飲みながら、中国新聞を読んだ。前日の土曜日はたまたま新聞を読まなかったので、
2日分をまとめ読みした。その土曜日(3日)の新聞の読者欄に、「自分の住む地域で、
震災がれきを受け入れるべきか」というテーマで意見を求めるコーナーがあった。
ベロベロに酔っ払うとだめだが、酒が適度に回ってくると頭の回転がよくなる。この記事を読みながらぼんやり考えていると、ちょっと投稿してみたい気分になった。
そこで、酒を飲み終わった9時ごろから小1時間ほどパソコンの前に座り、投稿文を
書いてメールで送った。そうしたら、2日後(3月6日)の朝刊に、その投稿文の抜粋が
掲載されていた。4日の夜に投稿した文章が6日の朝刊に載るとは、新聞社はさすがだ。
中国新聞に掲載された文章をそのまま転載すると、こうなっている。
安全性の保証 信じられるか
安全なら受け入れるべきだし、危険ならそうすべきではない。ここまではほとんどの人が一致するでしょう。問題はその先、「安全性は誰が保証するのか」という点です。
専門家が安全だと言えば信じるのか、それとも専門家が安全だといっても信じないのか−。私たちに突きつけられているのは、「専門家(あるいは他人)の言うことを信じますか」という
人生観の問題とも言えるでしょう。私は前者です。(福山市、50代男性)
この要約文は、原文をコンパクトにまとめている。さすが新聞記者は上手だね。
では、わたくしの投稿文(原文)の全体をご紹介しよう。
私は次のように考えました。
「そのがれきが安全なら受け入れるべきだし、危険なら受け入れるべきではない」
ここまではたぶん、ほとんどの人の意見が一致すると思います。問題はその先、つまり「がれきの安全性はだれが保証するのか」ということです。ここで意見は
二つに分かれます。
(1)専門家が安全だと言えば、私はそれを信じる。
(2)専門家が安全だと言っても、私はそれを信じない。
つまり最初の質問が私たちに突きつけている問いの本質は、「がれきの処理をどうするか」という作業レベルの判断ではなく、「専門家(あるいは他人)の言う
ことをあなたは信じますか?」という、私たち一人一人が世間をどう見ているか、
つまり人生観の問題だと言うことができます。
上の2つの意見のうち、私が選ぶのは(1)です。当然(2)を選ぶ人もいると思います。私が(1)を選ぶ理由は、次のとおりです。
(2)を選ぶ人の理由は、おそらく次の2つのどちらかでしょう。
@専門家でも知らないことがあるかもしれない。
A専門家が故意に間違った情報を出しているかもしれない。
@については確かにそのとおりですが、私たちの社会では「数字で許容範囲を決める」という習慣が一般的です。たとえば海水浴場には「大腸菌などの濃度が一定の数値
以下なら遊泳可能」という判断基準があります。その基準値が実は間違っていて、
わずかな菌でも人体に有害だ、という可能性はもちろんあります。しかしその疑いを
持ってしまうと、海水浴という娯楽は成り立ちません。菌の濃度がゼロの場所はまず
ないからです。このように私たちの日常の活動は、「専門家が決めた基準値」の上に
成り立っています。専門家はその道のプロですから、私はその人たちの判断を
信じたいと思います。同じように医者や警察官や裁判官の判断は、少なくとも素人で
ある私の判断よりは正しい、と私は信じています。それが私の人生観です。
A、つまり「専門家がにせの情報を流している」という考えはどうでしょうか。もちろんその可能性もあります。では、新聞記事はどうでしょう。新聞に書かれた内容は
真実ではなく、新聞記者が捏造したものかもしれません。学校の教科書に書いてある
こともそうです。しかしそれらを疑い始めると、私たちの社会生活は成り立ちません。
だから私は、新聞に書かれていることがウソではないのと同じように、科学者たちの
言うこともウソではないと信じます。どんな分野であれ、その道の専門家は自分の
仕事に対する誇りや職業倫理を持っていると思うからです。もちろん私自身もそうです。
新聞各紙に意見の違いがあるように、専門家の意見もまちまちですが、それは本質
的な問題ではありません。分水嶺は「専門家を信じるかどうか」という判断の違いです。
以上のことから私は、「専門家(集団)が安全だと認めたなら、震災がれきを自分の
住む地域で受け入れるべきだ」と考えます。そうでなければ(つまり安全性が立証
されなければ)、受け入れるべきでないことは言うまでもありません。
酔っ払って書いていることもあって、ずいぶんと「はしょった」内容になってはいる。でも、言いたいことの根本は上のとおりだ。はしょった内容とは、こんなことだ。
「じゃあお前は、専門家の言うことなら何でも信じるのか?」と言われれば、その答えは
もちろんノーだ。医者や警察官や裁判官の言うことや、新聞に書かれていることが常に
正しいと思うほどお人よしでもない。だがしかし、自分の思想は基本的には「性善説」だ。
理由は、そう考えるほうが楽だからだ。その意味では現実逃避と言えなくもない。
何もかも疑ってかかれば、「自分以外は誰も信用できない」という話になる。
それでは窮屈だ。だから人はどこかに「信じられるもの」を求めたがる。
オセロ中島にとってはそれが占い師であり、また別の人にとっては風水であったり、
韓流ドラマの俳優であったりするのだろう。ぼくにとって「信じられるもの」あるいは
「信じたいもの」とは、すべての職業人が持っているはずのモラルやプライドだ。
職業の種類は関係ない。たとえばスーパーのレジ打ちのアルバイトは「打ち間違え
てはいけない」と思っているはずであり、「どうせアルバイトじゃけ、少々間違えても
かまわんじゃろ」とは思っていないはずだ。
「人間の本性は善だ」ということと、「善なる人間は常に善をなす」ということとは別だ。
その人が成した行為から結果論的に判断すれば、人は善人にも悪人にもなる。
性善説とは、スタートラインではみんな善人だという前提に立って、個々の善行や
悪行を「誰にでも起こり得ること」ととらえる考え方だ。「原発の安全神話は崩れた」と
いうのは事実だ。では、その「神話」を作り上げた人たちは「悪人」なのか?「電磁波は
人体に悪影響を与える(かもしれない)」と一部の人たちが言う一方で、わたしたちは
「携帯電話の電磁波は許容範囲だ(ろう)」という「安全神話」を信じている。もしその
常識が崩れたら、携帯電話を作ったり売ったりした人はみんな悪人になってしまうのか?
海水浴場や農薬の安全基準値も、すべて同じことだ。地震予知の専門家の予測が
外れたとき、その専門家を批判するのはたやすいことだ。本人だって悔しいだろう。
しかし、予測の不正確さを本人の「罪」と断じるのは、非人道的だとは思わないかい?