日記帳(2013年3月3日)
この日付を打って気づいたけど,今日はひな祭りですね。
近所のハローズ(スーパー)では,毎年この時期になると
「明かりをつけましょ雪洞に〜」という歌が流れる。(さて「雪洞」の読みは?)
これを聞くたびに「あれ?もう1年経ったん?」という気分になる。
時が経つのは本当に早い。
2,3日前の中国新聞の地方欄に,何とも言えない切ない記事が載った。
もっとも,これを切ないと感じるかどうかは人によって違うと思うが。
内容は「呉の音戸で,放流用の稚魚を生ませるために10年ほど前から
飼育されていたホゴ,オコゼ,アコウなど約100匹が,役目を終えて引退し,
宮島水族館に引き取られることになった。飼育員は,水族館で余生を
ゆっくり過ごしてほしいと笑顔で語った」というようなものだった。
「海へ放してやれよ!」と思わずにはいられない。
生まれたときから水槽で餌をもらっていた魚は,海へ放しても自分で餌を
取ることができないから餓死してしまう,という理由があるのかもしれない。
あるいは,それらの魚を水族館に買い取ってもらった売り上げで次の種苗
育成用の魚が確保できるという経済的な事情があるのかもしれない。
それでもやはり。魚と生まれて水槽の中で一生を過ごす,あるいは鳥と生まれて
カゴの中で一生を過ごす生き物たちの境遇を思うと,不憫さを禁じえない。
うちの飼い犬は室内犬で,散歩のとき以外は外へ出ることはない。
家の中の行動を見ていると,自分の口でくわえられるサイズのおもちゃ
(たとえば靴下)をあちこちから探してきては,それをくわえて一生懸命に
フトンを「掘って」いる。もちろんフトンに穴はあかないが,地面を掘って餌を
隠しておこうという犬の習性がDNAに入っているのだろう。ブリーダーが育てた
室内犬でも本能を失っていないのだから,ずっと水槽で育ってきた魚でも
海へ返せば,野生の本能が目覚めて立派に生きていけるような気がする。
仮に環境が変わってすぐに死んだとしても,自分が魚だったら死ぬ前に一度でも
外界へ出られたことに満足して死んでいくだろう。
生き物は遅かれ早かれ死ぬ。どうせ死ぬなら,納得して死にたいものだ。
ああ,なんか書いていて泣けてくる。
以下,最近のニュースから拾った話題のいくつかについてのコメント。
●ロシアで隕石が落下した事件について,中国新聞にこんな社説が載った。
タイトルは「宇宙研究にもっと目を」だ。
「…ここは冷静に考えることが何より求められる。…今回の隕石落下がいわば
天文学的な確率であるとすれば,むやみに不安視する必要はない。とはいえ
将来の技術開発によって予測可能になるかどうか,あるいは接近する隕石への
対処法はないのかを,あらためて考えておいてもいい。…」
間違ったことは言っちゃいないが,個人的感想を言えば,ここには人間の業と
でも言うべき「際限のない欲望」が垣間見える。ここに書かれているような思想が
科学を進歩させてきたことは確かだが,科学の進歩が人間の幸福を常にもたらす
とは限らない。「隕石に対処する方法を考えよう」というのは,普通の感覚で言えば
避けようのない自然災害までもコントロールしようということであり,ある意味では
自然への冒涜と言える。科学的真実を追い求めた先に人間の幸福があるのでは
ない。幸福は「隕石に当たって死んだら運が悪かったと諦めるしかない」という
物の考え方を身につけることでしか得られないものだと思う。
●脱法ハーブについて東京の民間団体が首都圏の中学・高校生約6千人を対象と
したアンケート調査を行ったという記事があった。結果は次のとおりだったそうだ。
(a)所持も使用も悪いことだ=75.4%
(b)使用するかの判断は個人の自由だ=13.2%
(c)使用は悪いが所持しても悪いとは言えない=7.1%
(d)使用しても法律に反しなければ悪いとは言えない=5.7%
この結果に対する主催者のコメントは,次のようなものだった。
(世話役は)「覚せい剤や麻薬に似た成分が含まれ,健康に有害だという意識がまだまだ
低い」と指摘。国や自治体による啓発,教育の強化を求めた。
この調査は脱法ハーブの危険性を若者に知らせるのが目的だから,世話役の言うことは
わかる。ただ,世間の人の中には上の(a)〜(d)の数字を見て,「最近の若者は規範意識が
低い」という感想を持つ人もいるかもしれない。それを考えると,こういう質問のしかたは
いかがなものだろうかと思う。「自分が高校生だったら」と仮定するのはウソくさいので,
今の自分が上の4つの選択肢のうちのどれを選ぶかと問われるなら,それは(b)だ。
この質問は「脱法ハーブを使用することは悪いことか」と尋ねているようだが,そこには
ある種の言葉のマジックがある。手元の国語辞典で「脱法」をひくと,「法律に触れない
ような方法で法律で禁止していることを行うこと」という定義が載っている。これを端的に
言い換えれば,「法律に触れない犯罪的行為をすること」と表現してもいいだろう。
それがいいか悪いかと言われれば,「悪い」という答えが4分の3を占めたという結果は
当然だ。質問自体が一種の誘導尋問なのだから。一方,(b)〜(d)を選んだ若者たちは,
ある意味で優秀だと言える。誘導尋問に引っ掛かることなく自分の頭で物を考えれば,
「法律違反でないことをするのが悪いことなのだろうか?もしそれが悪いことなのだと
したら,法律とは何のためにあるのだろう?」と思う方が自然だろう。あくまで推測だが,
(b)〜(d)の回答をした子どもたちは,規範意識が低いのではなく,あれこれ考えた末に
自分なりの合理的な結論としてそれらの選択肢を選んだのだと思う。彼らは賞賛に
値することはあっても,非難されるべきではない。
●福岡市がPRのために設置した仮想行政区「カワイイ区」に対して「男女差別を
助長する」というクレームが入り,区長役のAKB48・篠田麻里子が(本人に迷惑を
かけられないという市側の判断で)退任したというニュースについて一言。
PRの具体的な内容をよく知らないので断定はしないが,感覚的には「それくらい
大目に見てやれよ」という気がする。広島県が「おしい!広島県」キャンペーンを
発表したときも,なぜそんなネガティブなスローガンを掲げるのかという批判が
かなりあった。しかし結果は大成功だった。ある活動が「不謹慎」かどうかの基準は
人によって違う。多くの人が「どっちでもいいじゃないか」と思っている中で少数の
「正論を吐く人たち」が「けしからん」と声を上げ,その少数派の声がすべてを支配
するという構図が,どうも好きになれない。仕事や家庭でも同じことはよく起こる。
「そこまで几帳面にせんでもえかろうが」とまわりの人が思っても,正論を吐く人には
逆らえない。「カワイイ区」に関しては「実際にそれで精神的に傷つく人がいる」という
理由がたぶんあるのだろうが,それを言い出したらきりがない。たとえばテレビCMに
母親と子どもが仲良くしている場面が出たとする。それに対して口うるさいある人が
「世の中には母親がいない子どももいる。その子たちがこの画面を見たら胸を痛める
だろうから,このCMは中止すべきだ」と主張したら,その声に従わねばならないのだ
ろうか。日記帳や雑記帳でこれと同じ疑問を何度も書いているいるが,今回の福岡の
件にも同じ感想を持った。