最終更新日: 2002/05/30

雑記帳 (環境問題編-A)

 

 


 

● 2002/5/30(木) IWC総会に寄せて

¶ 捕鯨の問題には多少興味はあるが,特別に勉強したわけではないので,新聞に書いてある程度のことしか知らない。この問題は非常に奥が深くて,カルチャーギャップなどという単純な図式で説明できるようなものでは全然ない。これは漁業の問題ではなく国際政治力学の問題だ,という見方(たとえば米国は他の分野では環境破壊的なことばかりしているので,せめて自分らと直接関係のない捕鯨問題で環境重視のポイントを稼ぎたいのだ,とかいう)も強いし,たぶんそれは一面の真実だろう。がここでは一応「捕鯨」の問題に限定して,思うことを書いてみたい。

¶ 日本など商業捕鯨を推進する立場の主な論拠には,次のようなものがある。

@ 鯨の数は増えており,商業捕鯨を再開しても鯨資源の枯渇にはつながらない。

A 鯨が1年間に捕食する魚の総量は人間の獲る魚の総量を超えると推計されており,捕鯨を行うことによって他の魚の漁獲も増える(あるいは捕鯨が他の魚の資源保護につながる)。

一方,捕鯨禁止論者の主な主張は,次のようなものだ。

B 商業捕鯨を許可すれば際限のない捕獲につながりかねず,鯨の数は必ず減少する。

C 鯨の頭数や他魚の漁獲高などの「科学的データ」の信憑性に疑問がある。

D 鯨は知的動物であり,殺して食べるのは残虐である。

これらのほかにも,いろんな意見がある。たとえば「日本の伝統文化の一部である捕鯨を守れ」(捕鯨推進論者)とか,「鯨の体内には汚染物質が溜まっており,鯨肉は食べられない」(捕鯨反対論者)など。これらの意見は,1つずつ分けて考える必要があると思う。

¶ 上に挙げた@〜Dの5つの意見のうち,一番「論外」なのはDである。捕鯨は残虐だがサケやイワシを獲るのは残虐ではない,という理屈は通らない。そんなことは,良識ある大人なら誰でも理解できるだろう。もっとも,捕鯨論争ではこの点が誇張されすぎているが,現実にはこれは一部の過激な自称エコロジストたちの唱える暴論にすぎない。ついでに言うと,「何も鯨にこだわらなくても,他に食べる物はたくさんあるではないか」という反対論も,論外の部類に入る。オレらが何を食べようと,よその国の連中にとやかく言われる筋合いはないのだ。

¶ 一方,BCの理由は「一理ある」と思う。とりわけBである。Bは自然環境・資源との関わりについて「人間=性悪説」の立場に立っている。これは,たぶん正しい。かつてのタラバガニやニシンやハタハタ,あるいは現代のクロマグロの例を持ち出すまでもなく,職漁者の,あるいは人間の欲望には限りがない。そこに金目のモノがあれば,法を犯してでも手に入れようとする人間がいつの世でも存在する。捕鯨にしても,昔はアメリカを含めて多くの国々が鯨油を求めて鯨を獲っていたわけで,残虐とか何とかの理由は(自分たちにとって鯨の価値がなくなったから)後になって取って付けた言い訳にすぎない。鯨の数が増えているのは,たぶん本当だろう。しかし,商業捕鯨を許可したら,たぶん捕獲頭数の制限など絵に描いたモチになってしまうに違いない。市場に鯨肉が出回り出したら,密漁が横行することは目に見えている。そもそも漁業統計は漁業者の自己申告の集積だろうが,すべての漁業者が漁獲量を正確に申告しているかどうかは極めて疑わしい。たとえば日本海では,日本・韓国・ロシアなど相手国の漁業水域内でのカニやフグなど高級魚の密猟が横行している。当然のことだが,彼らは漁獲量の申告などしない。そうして統計に表れない漁獲量の方が,むしろ多いかもしれない。

¶ それにしても,である。捕鯨推進論者が唱えるAの理由も,Dと同じくらい「論外」じゃないだろうか。こういうバカなことを言うのは日本だけかと思ったが,他の捕鯨国もこの主張に同調しているらしい。「増えた鯨が他の魚を食べて,小型魚の数が減っている。だから鯨を獲れば,小型魚の数も回復するはずだ」という理屈が仮に科学的事実であるとしても,それは自然界の食物連鎖に人間が介入することを意味する。餌となる小型魚が減れば,結果として食物連鎖の頂点に立つ鯨の数も減る。そのようにして自然界のバランスが保たれていく。こういう理屈は,きょうび小学生でも知っている。小型魚の種の保存の観点から捕鯨を肯定するのは,自然のサイクルへの誤った干渉以外の何者でもない。一方,「捕鯨は鯨と小型魚双方の漁獲量の増加を同時に達成できる」という合理化を行うなら,それもまた「人間が獲る魚の量は一時的には増えるが,その結果漁業資源全体の減少につながる」という悪循環を脱却できない。要するに,科学者の期待するようには世の中は動かない,ということだ。地球環境のためには二酸化炭素の排出量を減らすのが大切なことは,誰でも頭では理解している。しかし,京都議定書で日本に割り当てられた6%の削減を達成するためにすべての関係者が一致団結しているかと言えば,事実は全然違う。庶民レベルの省エネ意識は高まっているが,産業界全体は「環境より経済成長」という意識を乗り越えられていない。いずれは社会全体の環境意識が今より高まるかもしれないが,現状では商業捕鯨の解禁は(鯨の頭数の減少という)リスクの方が大きい,と言わざるを得ない。要するにぼくは,「現時点では商業捕鯨の解禁には反対」の立場に立つ。

¶ 以上は一般論だが,今回の会議のホスト国としての日本の振舞い方は,同じ日本人としてちょっと恥ずかしかった。新聞報道によれば,北極海近辺の先住民(北米・ロシア領内に住む)にはこれまで一定数の捕鯨の割り当てが当然の権利として認められていたが,これを採決にかけるべきだと日本が(ホスト国の特権として)提案し,結果的にそれら先住民の捕鯨の権利が否決されたという。この経緯に関して日本高官は,「日本の捕鯨を禁じておいて,自国(主に米国)内の先住民の捕鯨を認めるのはダブル・スタンダードだ」「日本と同じ苦しみを米国にも味わわせてやる」という趣旨の発言をしている。IWCを国際政治のパワーゲームと割り切れば,こういうのも「あり」なのかもしれない。でも,ちょっと大人げがなさすぎるで,あんたら。それらの先住民にとって鯨肉は生きるための糧であり,これを否定するのはその人たちの生きる権利を奪うことに等しい。日本にも捕鯨で生計を立てている(あるいは立てていた)人々は確かにいる。しかし,食うために鯨を獲るのと売るために獲るのとでは,大きな違いがある。もしかしたら外務省の連中は,こういうときのために(日本に賛同する国を増やすために)オレたちはODAで外国に金を配っているんだ,と思っているかもしれない。でも,世の中がそういう利害関係でしか動かないのだとしたら,ちょっと寂しすぎる。たとえばドイツという国は環境意識の高さで,北欧諸国は社会福祉の充実で,世界の人々から一定の評価を受けている。外国に金をバラまいているからではない。日本も,世界に対して何らかの建設的な理念を表明することで,日本国憲法にあるような「名誉ある地位」を得ることができるんじゃないかと思う。戦争放棄でも,国連軍への参加でもいい。大切なのは,即物的な金銭欲や権力欲を超えた「志の高さ」だろう。

¶ 科学的論拠のみに基づいて話が進むなら,そして日本の言う論拠が正しいとするなら,真実は1つしかないはずだから,商業捕鯨が解禁されてもいいはずだ。それなのに,なぜあれだけ多くの国が反対するのか?捕鯨は残虐だから,などというたわ言を国家レベルで主張する国が多数派を占める,などとは思いたくない。みんな,そこまでバカじゃないだろう。先鋭的な対立の様相を呈しているのは一部の国々であって,傍観者的な参加国もたくさんあるはずだ。そういう国の代表者たちは,人間と自然が共存していく上で何が一番いい方法かをマジメに考えている,と思いたい。そうした会議での投票の結果,(仮に一定の科学的根拠があるとしても)商業捕鯨の解禁が認められないのはなぜか?― その答えを端的に言えば,日本を始めとする「捕鯨国」のモラルが信じられないからではないのか?― 捕鯨論争をある人は政治の問題と考え,別の人は文化の問題と考える。ぼく自身はこれを,日本の社会のありようの縮図と考えている。残念ながら,今の日本社会の中心にいる人たちは,未だに経済成長至上主義(あるいは欲望拡張路線)から抜け出せていない。まして日本の農林漁業はこれまで,他の産業の成長のための取引材料にされて衰退してきた歴史がある。そういう「第一次産業を大事にしない国」には,そもそも捕鯨を語る資格などないのではないか?

¶ 日本の主張が世界の良識ある人々に受け入れられる時が将来来るとしたら,それは今の世の中の意識全体が大きく転換した後だろう。ぼくらが高校生の頃,「モーレツからビューティフルへ」というテレビCMが文化現象として話題になった。当時は公害問題がクローズアップされた頃で,「これからは高度成長から安定成長への時代だ」と言われた。以後,多くの人がそれと同じようなことを言い続けている。それでも世の中は,そう簡単には変わらない。庶民レベルでの環境意識の高まりが地方自治体から国のレベルへ広がって,日本が環境面で多少なりとも世界から信頼される国にならなければ,「(捕鯨解禁時の)漁獲割り当てを守ります」といくら説得しようとしても,世界は日本を信用することはないだろう。


 

● 2001/1/25(木) 有明海の現状について

¶ 最近,立て続けにテレビで「有明海が危ない」という趣旨のレポートを見た。とりわけ,今日の「ニュース・ステーション」の映像は衝撃的だった。諫早湾だけでなく,大牟田でも島原でも,海の中に魚がほとんどいない,という。ノリやアサリやタイラギの漁が壊滅的な打撃を受けている場面が出てきた。諫早湾から遠く離れた干潟で大学の先生が生物を探してもアサリもカニも全く見当たらない,という場面には愕然とした。海の中の映像でも,有明海の出口に近いあたりでも40分くらい探してようやく小さなメバルの群れを見つけただけだった。ずっと前に東京湾に潜って海底をカメラ撮影した場面をテレビで見たが,ちょうどあんな感じだった。その東京湾でさえハゼやカニの類はかなり写っていた。今の有明海は,東京湾より汚染が進んでいるらしい。

¶ うちの近所の海も湾奥で生活廃水が流れ込み,おせじにも水質良好とは言えない(もっとも下水道が徐々に普及してきたおかげで,我々が中学生の頃に漂っていた硫化硫黄の強烈な悪臭は今はない)。それでもクリーク(街中を走る水路)の石垣にもカキがかなり付いていて,ほとんどイナ(ボラ・メナダの幼魚)ばかりとは言え,ちゃんと魚も泳いでいる。今の有明海の姿は,かつて公害が大きな社会問題であり背骨の曲がったハゼが釣れた頃の松永湾と比べても格段に汚染が進んでいて,まさに「死の海」という感じだった。あれはもう,希少生物や渡り鳥の保護とか,あるいは漁業関係者の生活保障とかいうレベルを完全に超えている。有明海沿岸に暮らすすべての人たちの「幸福権」のようなものを,あの諫早湾の堤防が奪い去ってしまったんじゃないか,という印象を強く受ける。

¶ 有明海の汚染がどれほど深刻なものであるかは,あの亀井政調会長が「堤防の開放もありうる」と発言しているのを聞けば明らかだ。あの亀井静香が,である。亀井氏は広島県の出身だが,ぼくは個人的にはあの人が国会議員の中で一番嫌いである。行動力も金も持っているんだろうが,「品性」という今の政治家に一番求められる資質に欠けている(ちなみに,もし総理大臣を国民投票で選べるとしたら,躊躇なく中坊公平氏に投票したい)。あのガチガチの旧タイプ利権誘導型政治家である亀井静香ですら,さすがにちょっとマズいな,と思っているのだろう(選挙が近いということもあるだろうが)。

¶ 公的資金を導入したあげく破産した金融機関などの場合,損失を出した当時の幹部に経営責任を問うという流れに今ではなりつつある。それならば,有明海干拓事業に多大の税金をつぎ込み,あげく環境を破壊し,漁民の生活権を侵害した行政責任者に対して,損害賠償を請求することはできないのだろうか。香川県豊島の産廃問題などの場合は「行政の怠慢」が指摘されたが,少なくとも問題発覚以前に多額の税金を無駄使いしていたわけではない。しかし,もし諫早湾の堤防が近い将来に撤去され,干拓事業じたいが中止に追い込まれるとしたら,これまでに投入された税金の返還を求める訴訟が起こっても不思議じゃないと思う。

¶ 諫早湾の堤防がどうなるかは,まだわからない。しかし,どういう処置が取られるにせよ,Isahaya Bay が世界の環境学史に名をとどめることは間違いない。数十年後の小学校社会科の教科書には,今の教科書が「四大公害裁判」を歴史的事実として記しているのと同様に,「諫早湾」も「藤前干潟」も「三番瀬」も,学問的評価の定着した歴史的事実として記載されることになるだろう。そのとき子供たちが通う小学校がどんな姿になっているかは想像する由もないけれど。 

 

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