最終更新日: 2001/01/28

雑記帳 (わが街・松永編-@)


 

● 2000/8/7(月) お祭りにて

先週,子供らを連れて近所の高諸(たかもろ)神社の夏祭りに行った。この神社は母校・今津小学校の旧校舎の近くにあり,子供の頃からなじみ深い。夏になると,1週間くらいの間連日夜店が開かれる。昔の記憶をたどりながら夜店を歩くと,昔とはだいぶ変わった印象が強い。一番の違いはカラオケ大会が開かれていることだが,そういう外見上のこととは別の違和感がある。人出はそこそこあるけれど,何となく活気がないような気がする。よく見てみると,子供,とりわけ小学生くらいの男の子の数が少ない。女の子のグループはあちこちで見かけたが,男の子の集団は1つもなかった。昔と比べて子供の数が減っていることは,境内に貼られた小学生の写生画の枚数にも表れている。ぼくらが子供の頃は全員この神社で写生をやらされ,境内に小学生の絵がずらっと並んでいた。今は小学校が遠くへ移転したせいもあろうが,子供の写生は4〜5枚しか貼られていない。それに,子供そのものも昔に比べてずいぶん大人しいように見える。酔っ払ったオヤジもいない。昔の夜店には非日常的な興奮と活気があったように思うが,今は日常の娯楽が刺激的すぎるせいか,夜店も遊園地やゲームセンターと同列でしかないのだろう。店はだいたい毎年同じ位置に同じ屋台が並ぶが,少しずつ入れ替えはあるらしい。昔はかき氷やアイスクリンやミルクセーキ(生卵と牛乳と氷で作る。あの味は忘れられない)や「横尾飴」なんかを売っていたが,今年はそれらの店は出ていなかった。お面やワタアメは地味すぎるせいか,ほとんど売れている様子がない。どこへ行ってもワタアメは1つ500円もする。どう考えても原価は数%くらいだろうが,機械を動かすのに金がかかるんだろう。金魚すくいの店も並んでいたが,うちの水槽は海水なので金魚は入れられない。娘らはすくった金魚を友達に譲っていた。場所さえ貸してくれたら,自分で「ハゼすくい」の店を開くんだが・・・と思いながら見物する。これは,海で採ってきたハゼを金魚すくいの要領で客にすくってもらい,そのハゼをその場でテンプラにして食べさせる,というもの。原価はタダ。大学の頃,われわれの釣りサークルは学園祭でこれをやって資金かせぎをした。遊園地なんかでもやったらウケると思う。


 

● 2000/7/18(火) 松永湾・今昔(その2)

昭和40年代半ば,ぼくらが中学生だった頃に,南松永の埋め立てが行われた。それ以前の海岸線の南端は今よりもずっと北側にあった。ぼくらが小学生の頃,今の南松永町一帯は塩田の跡地であり,畑に混じってあちこちに原野や沼地が残っていた。その一番先の方,水門を通じて海水が流れ込む大きな「池」には,太い竹を切った筒がたくさん沈めてあった。長さは2尺くらいの,節をくり抜いて中が空っぽになった竹筒である。この竹筒に,ウナギが入るのだ。ぼくらは夏に水着でその池に入り,竹筒を探し回った。水深は子供の頭ほどもあり,足はほとんど立たない。潜って探そうにも,沼地のような池だから透明度は低い。泥に埋もれた竹筒を手探りならぬ足探りで探し当て,両方の足の裏を使って素早くフタをする。そのままの体勢で立ち泳ぎしながら足で竹筒を持ち上げ,手に持ち替えて岸へ放り投げる。ウナギが入っていると,逃げようとするウナギの感触が足の裏に伝わってくるのでそれとわかる。このとき,足から手に持ち替えて手のひらでフタをする瞬間に,たいてい逃げられてしまうのである。確かにその竹筒にウナギは入っているのだが,うまく捕まえられた記憶はほとんどない。それでも,当時はたくさんのウナギがあちこちにいた。

海で遊ぶようになったのは小学校高学年からで,それまでは川原で遊んでいた。川の石のすきまには,体長10cmほどのウナギの稚魚がたくさんいた。これも,手網の目をくぐりぬけるのでほとんど捕まえたことはなかったが。たまたま小学校前の本郷川が夏枯れで渇水状態になり,川原の水がほとんど涸れてあちこちに小さな水たまりができたことがあった。水たまりには魚が群れており,そこにウナギの成魚もたくさんいた。もっとも,草ぼうぼうでヘビが恐いので,そんな川に入る度胸はあまりなかったのだが。

それよりもっと昔,小学校低学年の頃だったと思うが,母校(園)・松永幼稚園の近くにあった20〜30坪ほどの広さの池が,宅地造成のため埋め立てられた。松永在住の方ならご存知の,「ほうらいけん」南隣の土地である。池は埋め立て土が投入されるたびにどんどん小さくなり,しまいには畳2〜3枚ほどの面積になった。その水たまりの中には,池じゅうの魚が集まった。コイ・フナ・金魚・ウナギ…子供らは長靴でその水たまりに入り,一生懸命魚をすくった(島おこしのイベントなどで大きなビニールプールに魚を放してすくわせるのと同じ)。その魚をそのあとどうしたかは記憶にないが,とにかく当時はそういう経験が何度もあった。ウナギは近くの川や海によく見られる身近な生物であり,大雨が降るとウナギが採れる,という話はよく聞いていた。

今,ウナギはなかなか採れない。それどころか,川で遊ぶ子供もほとんど見かけない(川のことは別の機会にくわしく書こうと思う)。ちょうどウナギのシーズンなので,今日は子供の頃のことを思い出してウナギの思い出を書いてみた。


 

● 2000/4/26(水)  〜松永湾・今昔(その1)〜

このHPに掲載するため,食材などを求めて休日に時々家の近くの海へ行くようになった。自宅から自転車で5〜10分くらいの距離にある,松永湾の最奥部に当たる。松永湾には3つの川(今津川・藤井川・羽原川)が流れ込んでおり,昔は今よりもずっと豊かな海だった。

ぼくらが子供の頃はまだ南松永の沖が埋め立てられておらず,海に沿った土手の周りは一面の畑と原野だった。母校・今津小学校の旧校舎は今津川沿いにあり,そこから歩いて5分ほど行った鉄橋の向こうは,海の水が満ちてくる汽水域だった。その鉄橋の下あたり --- 海水と淡水の混じる河口付近で,ぼくらは日曜日になると魚を釣った。松永はもともと,下駄と製塩の町である。当時(昭和40年前後),塩田はもう使われていなかったが,跡地はまだ埋め立てられておらず,至るところに田んぼのような湿地帯(塩田跡)が残っていた。そこで背丈ほどに伸びたヨシの間に分け入ってエビをすくい,それをエサにして魚を釣った。そのうちエサ取りが面倒になると,朝早く起きて近所の魚屋で食用のエビ(5cmくらい。もちろん死んだもの)を新聞紙に包んでもらい,それをエサにして釣るようになった。安物のリール竿に太い糸と大きなハリ(流線の12号くらい)をセットした仕掛けで,魚はいくらでも釣れた。ただし釣れる魚はドンコ(ダボハゼ)とマハゼが半々くらいであり,それにギギ(ヒイラギ)がいくらか混じる程度だった。半日で50〜60尾は釣れただろう。

釣りも楽しかったけれど,「干潟遊び」はもっと楽しかった。その鉄橋の下あたりから本当の河口(土手が切れて海が広がるところ)までは川の延長であり,潮がひくと普通の川のような浅瀬が現れる。ここを,上流から河口まで手網を持って歩いて下る。松永湾の干潟はかなり大きく,底はいわゆる砂泥地である。今では砂地はほとんど見られないが,当時はまだところどころに砂地があり,幅数メートルほど(深さはほんの10〜20cmくらい)の浅瀬をサンダルばきで歩くと,底の砂の感触が心地よかった。歩きながら,アサリを拾った。掘る必要はなかった。川の中でちょっと足を使って底の砂をかき回すと,アサリがコロコロ転がり出てくるのだ。それから,エビもたくさん採れた。エビは布切れや流れ藻などが溜まった深みに大量に棲んでいて,手網ですくうとエビやハゼが一度に何十匹も採れた。エビは魚屋で売っているのと同じ種類のもので,けっこう大きなやつもいた(今はほとんどいない)。ハゼは「砂ハゼ」という小さな種類のもの(たぶんサビハゼの仲間)で,佃煮にすると非常に美味なため,これを松永の名物にしようとした人も当時あったという。今は砂がなくなったので,砂ハゼもほとんど見られない。

さらに,夏から秋にかけてはアマテ(マコガレイ)の当歳魚が浅瀬にかなり入っていた。そいつらは普段は保護色のため見えないが,ぼくらが浅瀬をバシャバシャ歩いて行くと,驚いて砂から出てくる。じっくり見ていると,砂地の別の場所にもぐり込むのがわかる。ゆっくり近づいて,手網で素早くすくい取る。ほとんど手の平くらいの型だが,持って帰って食べた。それから,アナジャコではない普通のシャコも採れた。貝はアサリのほかアカガイがかなりいて,潮干狩りに行くと1割くらいはアカガイが混じっていたように記憶している(今はアカガイどころかアサリもほとんどいなくなった)。マテガイやハマグリも採ったような記憶があるが,何しろ昔のことなのでよく覚えていない。とにかく,海が豊かだったことだけは間違いない。

上の写真は,ぼくらが昔釣りに通った場所の,現在の姿である。ここには当時小さな堤防があり,干潮時でも深みがあって魚が集まっていたが,今は護岸工事のせいで当時の面影はない。付近の畑や原野もどんどん整地されており,いずれ住宅地か何かになるのだろう。それどころか,干潟そのものが埋め立てられてしまうかもしれない(昔と違って今はこのあたりに漁業従事者はほとんどいないだろうから,莫大な漁業補償を支払わなくてもいいはずだから)。

誰でもそうだと思うけれど,子供の頃の記憶というのは遊びの風景と強く結びついている。小学校の校庭で遊んだことはほとんど覚えてないが,海や川で遊んだことは鮮明に記憶に残っている。考えてみれば,オレはつくづく水や魚にかかわりながら生きてきたんだなあ,ということがわかる。まだ語り足りないことが山ほどあるので,この項は次回に続くのです。

 

雑記帳のトップへ戻る