最終更新日: 2011/5/3
雑記帳 (社会問題編-K)
◆ 2011/5/3(火) 東日本大震災の報道に思うこと
地震が起きたのが3月11日で,それから2か月近くになる。
その間,「この地震を,(直接の被害者ではない)私たちはどう受け止めるべきか」あるいは
「この地震の教訓は何か[今回の災害の反省を今後にどう生かすか]」という点で,いろんな
人がいろんな発言をしてきた。それらはどれも発言者が真剣に考えた末の意見だから,
正しいとか間違っているとかの批判をするつもりはない。ここでは,「私はこう思いました」と
いう個人的な意見を語ってみたい。
今回実質的に大きな害をもたらしたのは,地震そのものよりも津波と原発事故だった。ここでは,原発がらみで感じたことを述べてみたい。今回の災害を評するマスコミの
論調の中で,「それは違うんじゃないの?」と感じた意見が1つある。それは,
「地震や津波は天災だが,原発事故は人災だ」
という言い回しだ。この言い方は非常にわかりやすく響くが,ぼくは反発を覚えた。厳密に言うと,この意見を発しても許されるのは直接の被害者だけであり,そうでない
人が上のように言ったら,それは(悪い意味で)「評論家」的な発想だと思う。
誤解のないよう付け加えると,基本的に当事者は何を言っても許される(と思う)。
通り魔に肉親を殺された遺族が「犯人を死刑にしてほしい」と言うのは当たり前だ。
しかし実際に犯人を死刑にするかどうかを第三者が判断する際には,遺族感情を
満足させればそれでいい,というわけではない。
「原発事故は人災だ」という(ぼくに言わせれば気楽な)発言は,次の3つのメッセージを暗示していると思う。
@「人災だから防げたはずだ」
A「人災だから責任者がいるはずだ」
B「そもそも原発の存在自体が悪だ」
この3つのメッセージのどれにも,ぼくは共感できない。順を追って説明しよう。
@「人災だから防げたはずだ」という発想への批判
今回の場合,想定を超える高さの津波で原発が大きな被害を受けたわけだが,これは
想定が甘すぎたのか?確かに一部の専門家の間では「津波のリスクを軽視している」と
いう声が以前からあったらしい。ただ,「どんな小さなリスクにも対応できるよう,完璧な
安全対策を取ろう」という発想には大きな欠点が2つある。1つは,費用対効果の問題だ。
金が無尽蔵にあるなら話は別だが,われわれは普段河川改修工事などを目にするとき,
しばしば「こんな不必要な工事に税金を使いやがって」と言ったりする。それに対して
お役所は言うだろう。「百年に一度の洪水に備えて,この工事は必要なのです」と。
「人災は防げるはずだ」という発想は,そうした「金の使い方のバランス」という現実的な
問題にたちまち突き当たる。もっと言えば,「万引きしたうちの子が悪いんじゃない。
プロの監視員を配置していない店が悪いんだ」と開き直るのと大きな違いはない。
「人災だから防げたはずだ」と主張する人に問おう。「1,000年に一度の津波に備えて,
すべての港に100mの高さの防波堤を作るべきだ」という意見をあなたは支持しますか?と。
「人災は防げるはずだ」という言葉は,「具体的に何をすべきか」という(簡単には答えの
出ない)問題に目をつぶった,傍観者的で無責任な発言に思えるのだ。
そして,「人災だから防げたはずだ」という意見の第2の問題点として,この発想は
(このHPでしばしば引き合いに出している)「一番『敏感な』人にみんなが合わせる
必要があるのか?」という疑問を生じさせる。「万全を期して○○しよう」という意見は,
決して間違ってはいない。しかし我々は日常生活の中でもどこかで線引きをしており,
そのラインの高さは人によって異なる。家族旅行に出発するために近くの駅まで
タクシーで行こうとしている家族がいたとする。「遅くとも10分前には駅に着かにゃ」と
言うお父さんに,子どもが「寒いホームで10分も待つのは嫌じゃ」と言ったりする。
10分ならまだいいが,「渋滞に引っ掛かるかもしれんから1時間前に家を出よう。
交通事故が起こるかもしれんから」とお父さんが言ったらどうだろうか?家族は
みんな反対するだろう。「そういう可能性がゼロとは言わんけど,そこまで考えんでも
ええんじゃないん?」というような場面は,我々の生活の中でもよく起こる。
「原発は人の命にかかわるのだから,安全のハードルは高くすべきだ」というのは
一般論としては正しいが,ではどこまで高くすべきか?となると,100%ということは
ありえない。それは原発に限った話ではない。災害や建築の専門家ならまだしも,
一般人が「人災だから防げたはずだ」と言うのは単なる印象批評にすぎない。
本当の問題はその先にある。それはBの批判とも関連している。
A「人災だから責任者がいるはずだ」という発想への批判
これも前に書いたことがあるが,ぼくは「誰かが責任を取るべきだ」という発想が
好きではない。実利主義的な観点から言えば,東京電力の幹部を首にしたり
保証金を搾り取ったりしても,死んだ人が返って来るわけじゃない。「そういう
問題じゃない」と言う人がもしもいるなら,その人に問おう。ではどういう問題
なのですか?と。ぼくに言わせれば,「責任を取れ」という言葉のほとんどは,
それを発した人が自己満足する,あるいは八つ当たりしてスカッとする
(穏当に言えば怒りを浄化する)ための一種の方便にすぎない。
ただし,くどいようだが,被害の当事者は何を言っても許される。風評被害の
当事者である農場経営者や漁業従事者が東電に「お前らなんか全員死んで
しまえ」と言ったって,誰もそれを責めたりはしない。そうではなくて,部外者が
「悪いのは誰か」とか「責任者を罰するべきだ」とか言うのは,一種のいじめだ。
もちろんケースバイケースではある。飲酒運転で子どもをはねて殺した犯人に
対してなら,誰だって「責任を取れ」と思うだろう。ぼくが問題視しているのは
そういうことではなく,何か事故や事件が起きると「誰かに責任があるはずだ」
と考えるその思考回路だ。通り魔殺人が起きたとき,ある人は「運が悪かった
よね」と言い,別の人は「犯人がなぜそういう犯行を犯したかを徹底的に究明
すべきだ(それが新たな犯罪の防止につながる」と言う。ぼくは前者の立場で
あり,ほとんどすべてのマスコミは後者の立場だ。この点でぼくはマスコミが
好きではない。
批判を承知ではっきり言おう。原発事故は人災ではない。天災だ。
誰も知らないところでギャングが悪巧みをして犯罪を犯したわけではない。
現にそこに原発はあり,そのことを社会全体が認めて(あるいは黙認して)いた。
原発は地震や津波が起きたら危ないんじゃないかな,という漠然とした不安は
多かれ少なかれ誰でも持っていただろうが,だからといって「原発をなくせ」という
声が社会の主流だったわけではない。言い換えれば,世間の多くの人々は
リスクを承知で原発の存在を許していた。「事故が起きたらどうするか?それは
そのときに考えよう」というわけだ。もっと言えば,「事故が起きたら,どうしようも
ないじゃないか」という感覚に近い。それは天災を予測するときと同じ発想だろう。
それが,事故が起きたとたんに手の平を返して責任者探しをするというのは,
人として品性を欠くようにぼくには映る。さらに厳しいことを言うなら,マスコミが
「責任者は誰だ」的なことを言いたがるのは,そういう記事を読者が喜ぶことを
彼らが経験的に知っているからだ。これは,いじめっ子を「もっとやれ」とあおって
いるに等しい,品のない行為だと思う。
それぞれの人がどう考え,どう行動するかはその人の自由だ。だから,自分が
直接の当事者ではないのに「責任者探し」をしたがる人たちを(好きではないが)
批判するつもりはない(他人に直接の害を与えるのでない限り)。少なくとも自分は
今回の事故に関しては責任者探しをしたくないし,実際誰かに責任があるとも
思わない。「原発事故は天災だ」というのはそういう意味だ。
B「そもそも原発の存在自体が悪だ」という発想への批判
この発想が嫌いなのは,多くの場合こういう言い回しは「思考停止」の結果だからだ。
人は面倒なことを考えるのを怠けようとして,断定的な物言いをしがちだ。たとえば
「今の○○はみんなダメじゃね」のように。○○にはあらゆる言葉を入れていい。
たとえば政治家。たとえばテレビ。たとえば若者。たとえば相撲取り。言っている
本人は気持ちがいいだろうが,日本中がこういう人たちだけで埋め尽くされたら
それはやっぱりまずいんじゃないの?と思う。「原発は危ないと思っていたけど,
やっぱり恐れていたことが起きた」と多くの人は思っただろうし,それは当然の
発想だ。問題なのは,そこから一足飛びに「だから原発は全廃する方がいい」
という極論に走る,いわば「頭の悪さ」のほうだ。もしも世の中に車がなければ,
交通事故死はほとんど起こらない。しかし,「交通事故をなくすために車を全部
使用禁止にすべきだ」とは誰も言わない。そこには,車のメリットとデメリットを
比較するという思考プロセスが介在している。「原発の存在自体が悪だ」と
安易に言う人には,そのプロセスが欠落している。そういう意見はいわば
一種の宗教だから,本来思考が必要なものではなく(考えなくても信じることは
できる),だから「思考停止」という言葉は適切ではないのかもしれない。しかし
それでもやはり,こういう大ざっぱで,現実の利害に目を向けず,「自分が一番
正しい」的な言葉は,どうしても好きになれない。同じ理由で,「私たちは今こそ
本当の豊かさの意味を考えてみるべきだ」的な,言いっ放しの発言も嫌いだ。
現代の私たちに必要なのは,そんな高いところから見下ろしたような抽象論
ではない。現実に何をすべきか,何ができるかを語らない限り,居酒屋で
酔っ払って世間の愚痴をあれこれとこぼすのと同じレベルでしかない。
原発に反対する人たちの理由は,必ずしもみんな同じではないだろう。
想像にすぎないが,ありそうな理由としては次のようなものが挙げられる。
(1)万一事故が起きたときの被害が大きすぎる(ような気がする)。
(2)何となく(生理的に)恐い。
(3)原発が助長する「成長至上主義」的な思想が嫌いだ。
(4)原発は(リスク管理を含めた)コスト面で割が悪い。
一方,原発に賛成する人の理由としては次のことが考えられる。
(5)自分は原発から直接の利益を得ている(利害関係者だ)。
(6)原発がなくなって不自由な暮らしを強いられるのは嫌だ。
(7)原発はクリーンなエネルギーでコストも低い。
(8)原発がないと日本の経済が立ち行かない。
ほかにもあるだろうが,とりあえずこれら8つのファクターを考えてみたい。
原発の賛否に関する議論が成立するのは,(4)対(7)(8)の立場だけだ。
(1)(2)(3)(5)(6)は個人的な都合や思想の問題であり,理屈は通用しない。
じゃあお前はどうなんだ?と問われると,自分の立場は(3)に近いと思う。
つまり「原発は何となく嫌だ」という立場だ。そこで思うことは,果たしてそういう
自分が「原発の賛否」の議論に参加する資格があるのだろうか?ということだ。
「原発列島を行く」(鎌田慧・集英社新書)を読んだのはもう10年くらい前の
ことで,かなりインパクトのある内容だったが,これは原発反対の立場から
書かれた本だ。賛成派の意見を代弁するような本は読んだことがない。
自分は「何となく反対」派の域を出ていないが,それはある意味で偏った
思想かもしれない,という思いはずっとある。
早い話,「もし日本中の原発を全部廃止したらどうなるか?」と想定したとき,
どんな結果を生じるかがぼくには全然わからない。数字の計算だけなら,
どうにでも言えるだろう。たとえば「全国の自販機とネオンをなくせば原発に
頼らなくても電力は賄える」的な。しかしそれは机上の計算にすぎない。
自販機とネオンをなくせば,それによって何らかの利益を得ている人々は
困ることになる。あるいは2つ3つの大手企業が使用電力をセーブすれば
一般家庭が節電しなくても大きな問題は起きないのかもしれない。しかし
その節電した大手企業の収益が減れば日本経済にどんな影響が及ぶのか,
といったことが,悲しいことにさっぱり想像できない。
これは,「本当の豊かさ」的な主張を好む人々にも共通しているはずだ。
要するに彼ら(あるいはオレら)は,経済のしくみがよくわからない。だから
上の(8)のような主張をする人々に対してコンプレックスを持たざるを得ない。
本当は(8)のような考え方が最も合理的なのかもしれない。日本という国の
経済は輸出産業が支えているのであり,経済のグローバル化に対応する
ためには経済成長を目指し続けることしか選択肢がないのかもしれない。
しかし専門家やビジネスの第一線で働く人々がいくら力説しても,無知な
素人にはよくわからないのだ。だからばくぜんとしたイメージで「そろそろ
大量生産・大量消費的な社会のあり方は考え直す時期に来ているのでは
ないか」などという(実体の伴わない)無責任な空論を吐いてしまうのだ。
結局のところ「原発をどう考えるか」という問題を,個人的な好みや利害を
越えて冷静な議論の俎上に乗せようとすれば,「現状の経済基盤を今後も
維持するか,それとも大きく変えていくか」という選択を考えざるを得ない。
原発をなくせば電力が不足し,市民生活の質も変化を迫られるだろう。
たとえば「おまえは夏に冷房なしで暮らせるのか?」と問われれば,単に
生きていくだけならできるけれど,暑い部屋で仕事をする自信はない。
じゃあ夏はみんなで休むことにすればいい?そうすると経済効率が下がる。
また,現状の日本では製造業(特に輸出向け)が国の経済をリードしており,
電力が減って生産性が下がれば国としての収入が減る。素人考えで言えば,
極論するならみんなが貧乏になれば物価も人件費も下がり,現在外国人に
頼っている労働力を国内で賄えるようになるかもしれない。そうすれば
失業率も下がって,「豊かではないけれどとりあえずみんなが暮らせる社会」
ができるような気もするが,たぶんこんな発想は経済の専門家からは一笑に
付されるのだろう。
結局のところ原発問題は,「あなたはどんな社会に住みたいか?」という
問題提起を我々に投げかける。ぼくは,素朴な発想で申し訳ないけれど,
「自分たちが(何らかの意味で)生産したものを,自分たちで消費する
社会」が理想だと思っている。突き詰めればそれは「経済的鎖国をする
のがいい」という話になる。しかしそれが不可能なこともわかっている。
では,外国との競争が避けられない経済状況の中で,わが国はどうやって
生計を立てていくべきか?という問いへの具体的な答えが思い浮かばない。
日本中の小売業者が廃業して残るのはコンビニと大手スーパーと百均と
ユニクロだけになったら,それはやっぱりまずいんじゃないか?とは思うが,
じゃあ具体的にどうすればいいのかという問題を,経済に無知な素人が
考えるのは荷が重すぎる。
そういうふうに考えが堂々巡りして前へ進まないとき,人はえてして,
ワンフレーズですべてを表現しようとする。そして,わかったような気になる。
「本当の豊かさとは何かを考えよう」というフレーズがその典型だ。あるいは
かつて社民党の土井たか子党首が使って有名になった「ダメなものはダメ」
という言葉もそうだ。「誰が何と言おうと○○は悪い」という言葉は,世間に
氾濫している。たとえば死刑。あるいは体罰。あるいは核兵器。そして原発。
そういう言葉はたいてい,「考えるが面倒だから」という(しばしば本人すら
気づいていない)怠け者的な動機から発せられる。ぼくはそれが嫌いだ。
もっと自分の頭でモノを考えたら?という気になるのだ。
今回の原発事故のさまざまな報道や新聞雑誌に掲載された意見に対する
ぼくの感想をまとめると,次のようになる。
@「責任者探し」はやめてほしい。
A人々のモラルを低下させるような(扇情的な)記事は控えてほしい。B今後の原子力発電をどう考えるかという問題について,できるだけ
多くの(賛否両方の立場からの)判断材料を提供してほしい。
C抽象論を語るだけで「何かいいことを言った気になっている」ような
(いわゆる)有識者の意見は載せないでほしい。そういう情報は市民の
思考力を低下させる結果しか生まないから。
一連の報道や意見の中で個人的に一番印象に残ったのは,糸井重里の
ブログ「ほぼ日刊イトイ新聞(http://www.1101.com/20110311/)」の中で
提唱されている「自分を3日間雇えるくらいの金額を募金しよう」という
意見だ。ぼくは当初,香典の額をベースに今回の被害者に対して自分が
募金すべき額の目安を1万円程度と想定したが,もっと増やそうと思った。
そして今もコンビニなどでおつりを募金箱に入れている。そういう具体的な
行動を促す言葉が好きだ(ただし自分ではそういうことは言わない。他人に
「〜しよう」とか「〜すべきだ」と働きかけることが好きではないからだ。
何度も同じことを書くが,そういうことは人から言われてするものではない。
自分の頭で考えて決めるものだ。「釣り場にゴミを捨てない」のと同様に。)