最終更新日: 2015/1/11

雑記帳 (社会問題編-N)


 

◆ 2015/1/11(日) 「言論の自由」って,何?

 

これを考えるきっかけになったのは,つい最近新聞で話題になった次の3つの事件だ。

@北朝鮮が,自国の元首を風刺したアメリカ映画にサイバー攻撃を加えた事件

A風刺漫画を載せたフランスの出版社がイスラム過激派に襲われたテロ事件

B従軍慰安婦問題に関して元朝日新聞記者の大学教授が社会的不利益を受け,

   その原因となった週刊誌と大学教授を告訴した事件

マスコミで話題になっているからいちいち解説はしないが,これらの事件ではすべて

怒りを向けられた側が「言論(表現)の自由」という理屈を持ち出している。

この理屈を聞いて,「あんたら正気か?」という感想を抱かざるを得なかった。

 

「言論の自由」と言うといかにも崇高な理念のように思われるが,本質はもっとシンプルだ。

たとえば,君がまだよく物のわからない子どもだったとしよう。

君はA・B・Cの3人に対して,それぞれ「チビ」「ハゲ」「ブス」という言葉を使った。

3人は怒って先生に言いつけた。先生は君にこう言った。

「君は軽い気持ちで言ったのかもしれないが,君の言葉は3人を傷つけた。謝りなさい」

よく物のわかってない君は,こう答えた。

「だって,事実じゃん。Aくんはチビだし,Bくんはハゲだし,Cさんはブスだよ。ぼくは間違った

ことは言ってない。それとも,ぼくの言い方が悪かったの?それぞれ『背が平均より低い』

『頭に毛が少ない』『顔が美しくない』と言えばよかったの?」

先生は君に言った。「言葉使いじゃなくて,ハートの問題だ。君の言ったことが正しいか

どうかが問題なんじゃない。君の言葉で傷ついた人がいる以上,君は謝るべきだ」

 

このたとえを読んだ多くの人は先生の意見に賛同し,子どもの君を非難するだろう。

上の事件の本質もこれと同じだ。北朝鮮の指導部やイスラム教徒は,「チビ」「ハゲ」「ブス」と

いう言葉を投げつけられた側に当たる。つまり被害者だ。「あなたが使った表現によって

私(たち)は心を傷つけられた」と主張する人に対しては,謝罪するのが人の道だろう。

「その程度のことは許容範囲だろう」というのは,当事者が言っていいセリフではない。

たとえば上のケースで子どもの君が「チビとかハゲとかブスとか言われたくらいで傷つく

なんで大げさだよ。ぼくはそんなこと言われても平気だよ」とほざいたら,先生は君の

胸ぐらをつかんで「ふざけんな!」と言うかもしれない(殴りはしないまでも)。

言うまでもないことだが,@やAの事件で「被害者」に当たる北朝鮮やイスラム過激派が

暴力的な手段に訴えたのは悪いことだ。たとえば「チビ」と言われたAくんが君を殴ったら,

君は「殴ることないじゃん」とAくんを非難してもかまわない。しかしそのとき生じたAくんの

暴行罪と,Aくんに対する君の侮辱罪とは別の罪だ。先生は「どっちも悪い」と言うだろう。

ぼくが先生なら,君を殴ったAくんよりも,Aくんに謝ろうとしない君の方をより強く叱るだろう。

 

Bの事件については,少し解説しておこう。以下は,産経新聞の1月10日付けの「主張」だ。

http://www.sankei.com/column/news/150110/clm1501100002-n1.html

元朝日新聞記者の植村隆氏が「慰安婦記事を捏造(ねつぞう)した」などの指摘で人権侵害を受けた

として、文芸春秋と東京基督教大学の西岡力教授に損害賠償と謝罪広告などを求める訴えを起こした。

裁判を受ける権利はもちろん誰にでもある。だが、言論人同士の記事評価をめぐって司法判断を

求めるのは異様ではないか。

訴状によれば、植村氏は記事や論文などの指摘で社会的評価と信用を傷つけられ、ネット上の

人格否定攻撃や家族への脅迫、勤務先大学への解雇要請などを招いた。こうした人権侵害から救済し

保護するために司法手続きを通して「捏造記者」というレッテルを取り除くしかない−としている。

植村氏の解雇を求めた大学への脅迫については、産経新聞も昨年10月2日付主張で「言論封じのテロを

許すな」と題して、これを強く非難した。同時に文中では「言論にはあくまで言論で対峙(たいじ)すべきだ」とも記した。

同じ文言を繰り返したい。

自身や家族、大学に対する脅迫や中傷と、言論による批判を混同してはいないか。

指摘の対象となった平成3年8月、元韓国人慰安婦の証言として書かれた植村氏の記事で

「女子挺身(ていしん)隊の名で戦場に連行され」とした記述については、朝日新聞が第三者委員会の

指摘を受け、その事実はなかったとして、おわび、訂正している。

その後の植村氏の記事で、この元慰安婦がキーセン学校に通っていた経歴を知りながら触れなかったことについても、

第三者委は「書かなかったことにより、事案の全体像を正確に伝えなかった可能性はある」と批判していた。

訴状をみる限り、植村氏側はこうした朝日新聞、第三者委の判断や指摘を受け入れてはいないようだ。

まず朝日や第三者委の見解に、言論人として反論することから始めるのが筋ではないか。

大学や家族への脅迫を、自らを批判する記事や論文が招いたとする訴訟理由には首をひねる。

パリでは、イスラム教の預言者を登場させた風刺画などを掲載した週刊紙が襲撃され、編集長ら12人が殺害された。

テロの誘発を記事に求めることが認められるなら、広義ではパリの惨事も報道が招いたことになる。

そこに言論、報道の自由はあるのだろうか。

ここには書かれていないが,植村氏に訴えられた西岡教授は,「自分の書いたことは言論の自由の

範囲内のことだと思っている。言論には言論で反論すればよく,告訴されたのは遺憾だ」という趣旨の

発言をしている。それも含めて,いったいあんたらは「言論の自由」をどう定義づけているのか?と問いたい。

 

これも,答えは実にシンプルだ。そもそも自由とは,束縛されないことである。

では,あなたが自由でないとしたら,誰があなたを束縛するのか。

答えは言うまでもない。国家だ。近代市民社会における自由とは,国家権力からの自由を意味する。

オジサンが高校生の頃は公民という教科はなかったけど,公民(それとも世界史かな)で習っただろ?

オジサンは法学部出じゃないけど,社会人の常識としてそれくらいは知ってるよ。

言論の自由もしかり。この理念の本質は,「(戦前の日本のように)国家が市民の言論を統制する」ことを

否定するものだ。言い換えれば,市民Aと市民Bとの間に「言論の自由」を主張するような余地はない

したがって,市民Aが市民Bに「言ってもいいこと」と「言ってはいけないこと」との境界線を決める基準は,

言論の自由とは別のところにある。それが,子どもの君に先生が言った「ハートの問題」だ。

こんな当たり前のことが,どうして君たちわかんないの?それとも,わかんないフリをしてるだけなの?

 

もう一度言おう。

子どもの君は,Aくんに「チビ」,Bくんに「ハゲ」,Cさんに「ブス」と言った。

先生は君を叱った。

君は言った。「だって,言論の自由じゃん」

こんな理屈は成り立たない。君が(同じ市民である)Aくんに対して「言論の自由」を主張する権利はないからだ。

 

@ABのどの事件においても,「サイバー攻撃」「銃撃」「告訴」という物理的手段を使ったことに対しては,

それを非難したってかまわない。しかし,そこに言論の自由というロジックを持ち出す限り,それは筋が通らない。

どの事件においても「個人(あるいはマスコミ)VS国家」という図式が成立していないからだ。

@やAの事件では,風刺映画や風刺画を作った側が「いじめっ子」的ですらある。つまり子どもの君だ。

 

テロとか告訴とかの対抗手段の是非の問題とは切り離して考えるなら,次のように言える。

 

君の言葉で心が傷ついたり,実際に迷惑を受けたりしている人が

いるんだよ。その人に対して,君はまず謝るべきなんじゃないの?

 

こう問い詰められて,君はそれでも「だって言論の自由じゃん」と言い張るのかい?

それは,人としてどうなの?− これらの事件の本質は,そういうことなのだ。

 

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