最終更新日: 2003/04/10
雑記帳 (社会問題編-A)
● 2003/4/10(木) イラク戦争のこと
※ この種の問題は人によって意見が違うので,単なる個人の雑記として読んでくらさいねー。
¶ 「あなたは米英のイラク攻撃を支持しますか?」と質問されたら,自分なら何と答えるだろう?と,戦争が始まる前から考えていた。「即答できない。ちょっと考えさせてくれ」または「その質問に答える資格は(当事者でない)自分にはない」としか答えられないだろうな,と今でも思う。若い頃なら,「戦争は絶対悪だ。だから反対だ」と答えていただろう。しかし今では良くも悪くも知恵がついたので,そういうふうには考えない。それは,思考を停止したのと同じだ。およそ人間生活に関わりのある問題に関しては,(論理矛盾のようだが)「絶対の真理」など一つもない。「人殺し」ですら,正当防衛や緊急避難という例外的なケースでは罪に問われない。戦争も,「悪さの程度」あるいは「手段の妥当性」の問題として考えるべきではないかと思う。その意味で,ぼくは「何でもかんでも戦争には絶対反対」という立場には立たない。
¶ 世の中のあらゆる問題は,「ゼロか100か」で考えるべきではないと思う。例を挙げよう。ある男が,一人の子供を人質に取って民家に立てこもったとする。彼の要求が「1千万円持って来い」だったら,「人命第一だ。金を払って人質を助けるべきだ」と誰でも思うだろう。しかし犯人の要求がたとえば「今走っている新幹線を爆破しろ」とか「総理大臣を撃ち殺すからここへ連れて来い」とかいう滅茶苦茶なものだったら,人質の命をある程度の危険に晒してでも,犯人の身柄を確保(場合によっては射殺)しようという判断が下される可能性が高い。このような状況で「人命第一」と繰り返すだけで事件が解決するなら,誰も苦労しない。しかし,「人質の命か,総理大臣の命か?」というような究極の選択を迫られるケースが,世の中にはいくらでもある。今回の戦争にはその種の選択は存在せず,米国が一方的にイラクに喧嘩を売っているように映るかもしれない。たとえそれが事実であったとしても,ぼくはその理由をもってこの戦争に反対するような立場には立たない。「他国の内政に干渉することは悪である」というのは一般的には正しいが,時と場合によりけりである。ただしそれは,米国が言う「湾岸戦争から10年も外交努力をしたのに,イラクが武装解除の約束を守らない」というような,取って付けた理由からではない。ワイロをもらう政治家には政治倫理を語る資格はなく,援助交際をする教師には生徒の生活指導をする資格はない。同様にフセインには「他国はイラクの内政に干渉するな」と主張する資格が果たしてあるのか(つまり,フセインは内政と呼ぶに値するような政治を実際に行っているのか)?という疑問を,ぼくは持っている。
¶ 何かの行動を起こす際の判断基準は,いつの場合でも,その行動によって得られる利益と失われる犠牲とのバランスによる。今回の戦争に即して言えば,得られる利益はいくらでも説明がつくが,犠牲の方は戦争が完全に終結するまではわからない。戦争の最初の頃,米英軍は民間人の犠牲者を最小限に食い止めるための戦術をかなり研究し実践しているように見えた。「たとえ一人の犠牲者でも出してはならない」と戦争絶対反対論者なら言うだろうし,それが理想ではある。しかし,犠牲者を最小限に留めるという米英軍の努力がかなり効果を上げている,つまり「米英軍はかなり上手に戦争をしている。これなら,失われる犠牲よりも得られる利益の方が大きくなる可能性が高い」と最初の頃は思っていた。
¶ ところが,イラク戦争は徐々に悲惨な様相を呈してくる。新聞紙上では連日,どれほど多くの民間人が戦争の犠牲になっているかが,臨場感を持って語られる。それを読んだ人は,「アメリカは悪いやつだ」と思うかもしれない。しかし,ちょっと待ってほしい。じゃあ聞くが,民間人に一人も犠牲者が出なければ,その戦争はOKなのか?実際,犠牲者の多くはいわゆる「誤爆」によって生まれている。将来ハイテク兵器の精度が格段に向上すれば,誤爆の可能性は限りなくゼロに近づくかもしれない。その結果戦争が兵士同士の間でのみ行われるとしたら,その戦争には(道義的な)問題はないのか?--- この問いに対するぼくの答えは,基本的に「イエス」である。前にも書いたが,広島の原爆が人道上の大罪である理由は,多くの民間人を犠牲にした点にある。南京大虐殺またしかり。民間人を巻き込む戦争は許されないが,軍人同士の戦争はいわば「ルールに則った戦い」であり,起こさないに越したことはないが,どちらか一方が非難されるべきものではない。
¶ 今回の戦争については,マスコミにもいろんな情報が出ている。もし真実が一つしかないのだとしたら,これほどいろんな意見が出るはずはない。メディアが書いていることはすべて,ある程度は正しいのだろう。たとえば,米国が戦争を起こした動機だ。過去のすべての戦争がそうであったように今回も「正義の戦争」などでは断じてないことも,本質的には石油の利権争いであることも,米国が国益のためには手段を選ばない「ならず者国家」であることも,そこで言う国益とは国の利益ですらなくブッシュは操り人形に過ぎないことも,どれもが部分的には真実なのだろう。ネオコンだのユニラテラリズムだの,聞き慣れない言葉も最近はよく耳にする。しかし,そうした「戦争のメカニズム」をいくら解説したところで,当事者であるイラク国民にとっては何の意味もない。これだけは確信を持って言えるが,戦争の善悪の判断の中心に据えるべきは,その戦争が当事者である一般国民の幸福とどう関わるか,という点である。国民の生活がよりよいものに変わるのであれば,国家体制の存続など二の次だと言ってよい。
¶ 米国側の戦争の動機に不純な要素が含まれていることは,十分わかっている。しかし,「正義を目的とする戦争」があり得ないとしても,「結果として社会正義の実現に寄与した戦争」は,過去にもたくさんあった。一番いい例が,日本だ。戦前の日本と戦後の日本を比べたとき,あなたはどちらが「よりよい社会」だと思うだろうか?戦前の方がよかった,と言う人も中にはいるだろうが,今の日本人の大多数は戦後の社会の方を評価しているはずだ。では,戦前から戦後への大きな社会システムの変革は,何によってもたらされたのか?--- 言うまでもなく,「敗戦」によってである。われわれ日本人は,「戦争を起こし,それに負けた」という事実以外をもってしては,今の社会を実現し得なかったのではないのか?その意味で,「軍事力によらなければ解決できない問題がある」という米国高官の言葉を,ぼくは一概に否定できない。
¶ ひとつの寓話を考えてみよう。ある時代のある国に,Xという指導者がいた。その国は実質的に世襲制の独裁国家だった。Xは現体制の維持にしか興味を持たない自己中の,あるいは無能な王様だった。国民は歪んだ社会システムの中で過酷な生活を強いられ,進歩主義者たちは厳しい弾圧を受けた。周囲の国々の人々は思った。かの国の国民たちを,貧困と飢えと政治的束縛から救ってはやれないものか?たとえXが死んでも,その息子が圧制を繰り返すだろう。国連は,他国の内政には干渉しない。外国からの援助物資は一般大衆には届かず,政治家と軍隊を肥やすだけに終わってしまう。政治と社会のシステムを大転換する必要があることは,外から見れば明らかだ。しかし,洗脳された一般人民には,クーデターを起こすような発想も力もない。--- こういう状況の下で,何らかの理由でその国が別の国と戦ったとしよう(断っておくが,「彼らを解放するための戦争」を正当化しているのではない。あくまで結果として戦争が起きたら,ということだ)。結果的にその国は戦争に負け,Xは失脚し,戦勝国がその国に新たな政治体制を敷いた。その結果,民主的な選挙に基づく国会が召集され,(以前よりは)民主的手続きにより新たな指導者が生まれ,国民生活は飛躍的な向上を遂げ,国民は過酷な生活から解放された・・・こういうストーリーが実現しても不思議ではない。このとき,その国を巻き込んだ「戦争」は,人民の解放をもたらしたという点で,(正しかったとは言わないにせよ)「よい結果を生んだ」という評価を受けてもいいのではないか?と思う。ぼくは太平洋戦争も,基本的に似たような図式で総括している(無能な一人の王様を「軍部」と言い換えればいい)。このように考えれば,あの戦争の犠牲となった人々の死は,無駄ではなかったことになる。戦争とそれに伴うおびただしい人々の死をもってしか学べなかった教訓が,確かに我々の身近にも存在したのだ。
¶ 先日NHKで,「なぜ米国は戦争を起こすのか」というテーマの特集番組が放送された。ある説によれば,米国は今回の戦争を「ナチスとの戦い」「ソ連との冷戦」に続いて,自らが正しいと信じる価値を世界に行き渡らせる契機と考えている,という。もちろんこれは,戦争の動機のすべてではない。ただ,それが動機のごくわずかな部分でしかないにせよ,結果的に「米国の価値観」をイラクに「押し付ける」ことで,イラクの国民が今より幸せになれるのだったら,それでいいんじゃないか?と思う。要するに米国は,日本と同じようにイラクを,あるいは全世界をアメリカ化したいのだろう。「自国の価値観を他国に広める」という傲慢な発想に生理的な嫌悪感を覚える人も大勢いるはずだ。しかし,それでもやはり思うのだ。われわれ日本人が現在曲がりなりにも幸福な社会に暮らしているとしたら,そのかなりの部分は,歴史的に見て「アメリカのおかげだ」と言わざるを得ないのではないか?--- 安保の話ではない。日本の社会がアメリカナイズされる過程で得たものの大きさのことを言っているのだ。もちろんそれにより失われたものも多く,今後の我々は自分らの行く道を自力で模索していく必要はある。しかし世界には,イラクやミ○○○マーや○朝○のように,今の我々には想像もつかないような「不自由な社会」に暮らしている人々の方が多い。その人々が結果的に「解放」(大雑把な言い方だが)されるのだったら,今回の戦争を無条件に否定することはできないのではないか?実際,イラク国民の生の声を拾ったインタビューでも,「侵略者の米国は許さない」という声と「自由になれるのなら,アメリカがこの国を支配してもかまわない」という声とが錯綜している。生活者の視点から言えば,当然の反応だろうと思う。
※補記:ここまでは既に書き終えていたが,4月9日の新聞によれば(マスコミ操作の面はあるにせよ)陥落したバグダットで米国軍は市民に熱烈に歓迎されたという報道もされている。
¶ ぼくは戦争一般を肯定しているわけではないし,逆にすべての戦争を否定するものでもない。戦争も,人間の他の営みと同じように,その程度や規模および,動機と結果との結びつきの合理性に基づいて善悪あるいは妥当性を判断すべきだ,と考えている。今回の戦争は「やむを得ない戦争」ですらない。しかし,この戦争によって得られる「利益」と失われる「犠牲」をはかりにかけると,(既に出ている犠牲者の数を考慮したとしても)もしかしたら利益の方が大きいのかもしれない。その限りにおいて,ぼくは今回の戦争を否定しない。犠牲は我々の眼に見えやすいが,利益の方は部外者にはわかりにくい。イラク戦争の善悪を評価することができるのは,イラク国民だけだ。当事者であるイラクの国民がこの戦争とその後の政治・社会体制の変化をどう評価するかが,この戦争のすべての意味を決める,と言ってよい。最初に「自分には質問に答える資格がない」と言ったのは,そういう意味だ。
¶ はっきり言おう。もしぼくが日本の隣の某国の国民であり,自分ら(あるいは自分の子や孫たち)が幸福になるためには国家体制の転覆が必要だと考えたとしたら,そして国家の弾圧によりクーデターが実質的に不可能であるとしたら,「良識ある外国」に征服された方がまだましだ,と思うはずだ。米国にどれだけの「良識」があるのかは知らないし,戦後日本人の生活が向上したのは米国の(享楽的生活に慣れさせることによって人民の反抗心を失わせるという)占領政策の結果にすぎないのかもしれない。しかし,戦争の動機なんかどうだっていいじゃないか。大切なのは,そこに暮らす人々が幸せになることだ。フセインよりブッシュの方が「ましな」王様になりうるのだったら,ぼくがイラクの一国民であるなら,自分や家族が死なない限りにおいて,この戦争を歓迎するだろう。
¶ 話のついでに,「あなたは日本の安全保障をどう考えるか?」と問われたときの,自分の返答も書いておきたい。戦争が起きないために日本はどうすべきか?というのは,確かに大切な論点ではある。しかし,今の世界情勢を見る限り,どこかの国が日本へ攻めてくる(日本が戦場になる)ということは,ほとんど起こりそうにない。その可能性を持つ国は限られているが,現実問題として米国(と国連?)の抑止力が働いているからだ。安全保障に関しては今の日本は米国の51番目の州であるに等しく,その是非にはいろいろ議論はあるだろう。しかし仮に日本が何らかの方法で米国からの安全保障上の独立を果たしたとしても,それがそのまま戦争につながるわけではない。多少でも現実味のある問題として我々が考えねばならないのは,@日本がテロ攻撃の標的になる可能性,A自衛隊が海外で軍事行動を取るよう(米国から)圧力をかけられる可能性,の2つくらいだろう。@に対する具体的な備えは必要だと思うが,さほど心配はいらないだろう。米国がテロリストに狙われたのは,主にイスラエルに関する米国とイスラム世界との深い対立があるからで,日本にはテロリストに狙われる直接の理由はないからだ。Aは,基本的には日本はあくまで武力を使わない平和主義外交を進めるべきだと思う。しかし,(読○新聞の主張するような)国際社会での責任を果たすためには国連軍への参加も辞さずといった考え方に賛成する国民が多数を占めるのだったら,それはそれで仕方がない。どのみち,自分が戦場に行くわけじゃない。
¶ そこまで考えを進めると, 「もし日本が戦争に巻き込まれたら,あなたはどういう行動を取るか?」という問いに突き当たらざるを得ない。戦争を自分の問題として考えることは,この問いを自分に投げかけることだと思う。今の日本が徴兵制を敷くことはまず100%考えられないが,仮にそういう事態になったとしよう。では,一定年齢の日本の男たちが強制的に軍隊に入れられたとして,その軍隊はまともに機能するか?---- あり得ない。軍隊が軍隊として成り立つためには,その構成員たちを「戦う意志」を持つよう洗脳せねばならない。一番簡単な方法は,宗教を使うことだ。イラクも,戦前の日本もそうだった。米国や韓国はそうではないが,彼らは教育を通じて「兵役は国民としての義務だ」という洗脳を受けている。今の日本は個人も社会も良かれ悪しかれはなはだ「自己中」であり,自分さえよけりゃ他人がどうなろうと知ったこっちゃない,という風潮が強い。そんな社会風土の中で,烏合の衆である軍隊がまともに機能するはずがない。先に社会の雰囲気を変えておけばいい?--- 無理だろう。怠惰と放蕩が身についた社会に高いモラルや禁欲を求めるのがいかに難しいかは,あとさき考えずに借金まみれになった今の日本の状況を見れば明らかだ。
¶ だから,所詮は空想的なお遊びにすぎないけれど,「もし自分が戦争の当事者になったら」という仮定のもとで,どう行動するかを想像してみよう。 ぼくの場合,もし戦争が起きそうになったら,まず家族を連れて国外脱出を図る。それが叶わず自分が「赤紙」をもらったら,兵役を拒否して刑務所に入る。刑務所なら,少なくとも死ぬことはない。強制的に軍隊に入れられたら,一応まじめな兵隊のフリをしておく。そして,実際に戦場に送られたら,決して戦わない。逃げる。そして,殺されずに降伏して捕虜になる方法を考える。どんな状況に置かれても,とにかく生き延びることを最優先にして行動する。「国(や家族)のために戦う」などとは,爪の先ほども考えない。自分が戦ったからといって家族が助かるわけじゃない。家族にとって一番有り難いのは,自分が生きて戦場から戻ることに決まっている。--- あの太平洋戦争でさえ,4年もたたずに終結した。たかだか3年や5年の異常な社会状況の中で,命を落とすようなバカな真似はしたくない。戦争を生き延びた先にあるのは絶望かもしれないが,それを見届けた後で死んでも遅くはない ---
命はひとつ 人生は一回 だから 命を捨てないようにねあわてると ついふらふらと 御国のためなのと言われるとね
青くなってしりごみなさい 逃げなさい 隠れなさい
(中略)
死んで神様と言われるよりも 生きてバカだと言われましょうよね
きれいごと 並べられた時も この命捨てないようにね
青くなってしりごみなさい 逃げなさい 隠れなさい (加川良「教訓T」)
¶ まあ,こんな不毛な想像しても仕方ないけどね。イラク戦争の結末を見るのは,何年も先になるかもしれないけれど,この度の戦争が結果的に少しでもイラクの人たちの幸福につながることを願うばかり。そして,米国軍。恥を知れ!おまえらも戦争のプロなら,誤爆なんかするな!民間人の犠牲者をゼロにしてみろ。それができんのなら,建前でも正義を語るな!以上。
● 2001/7/17(火) 歴史教科書論争に寄せて(その2)
¶ ひとりの人間の物の考え方や政治的立場が生涯を通じて変わらない,というのはむしろまれなケースだろう。選挙でいつも同じ政党に投票するするとは限らないように,たいていの人はそのときどきの状況に応じて考え方が右や左へ振れるのが普通じゃないかと思う。
¶ 我々は「団塊」の下の世代に当たり,「モーレツからビューティフルへ」の流れの中で青年時代を過ごした。その中で,いくつかの政治的影響を受けてきた。ぼくの場合たとえば,中学の修学旅行で教員組合のオリジナル歌集(もちろん当時はそんなことは知らない)が配られた。中身はロシア民謡ばっかりだった。大学に入ると,オリエンテーションで知り合った先輩から「読書会に入らないか」と誘われた。行ってみると,「民青同盟」という団体だった。田舎の実家へ電話をかけて相談したら,絶対かかわり合いになるな,と言われた。その頃の大学のキャンパスにはまだ学生運動の名残があって,世の中の空気も自分の意識も,この頃はどちらかと言えば左寄りだったように思う。
¶ 大学を卒業して初めて入った職場は,役所だった。ここで1つのカルチャーショックを受けた。ぼくの配属先は組合との交渉窓口を担当する係で,行政当局と組合との交渉テーブルの端で速記する仕事などをした。当時広島県の学校現場では「確認書闘争」(職員会議を学校の最高議決機関とするなどの内容)というものが行われていた。簡単に言うと,組合員(学校の先生)が校長室に押しかけて校長を軟禁状態にする。組合員の方は適当に交代するが,校長は一人で対応しなければならない。校長が体力負けして確認書に判を押すまで帰さない,という運動だと聞いた(あくまで聞いた話で,全部が本当かどうかはわからない)。それが教師のすることか,というのが正直な感想だった。そうしたこともあって,政治的心情が左から右へ傾いた時期もあった。
¶ 役人時代の思い出がもう1つある。広島県の場合は初任者研修の中に「同和研修」が組み込まれていた。研修後,上司に感想レポートを提出した。ぼくはそのレポートの中で,同和教育を批判した。上司からは困った顔で説教された。上司に迷惑をかけるのは申し訳なかったので矛先を収めたが,なぜ自分が同和教育を批判したのかは今も鮮明に覚えている。気に入らなかったのは,解放同盟の主張の内容そのものではない。世の中に差別があり,それを根絶すべきだという主張は正しい。しかし,それは公教育の中で最優先の順位を与えられるべきものだろうか。教科教育以外の分野で,大切とされている「教育」は他にもたくさんある。たとえば情操教育とか,自然体験とか,社会体験とか,性教育とか。そういうさまざまの考えうるカリキュラムの中で,教育行政が主体的に同和教育を選び取った,とは到底思えなかった。自分が何に腹を立てたかと言えば,解放同盟にとって学校教育は自分らの勢力拡大のための単なる手段にすぎず,公の機関(教育行政)はそういう政治団体の圧力に屈して主体性を失っている,という現実に対してである。おまえらどっちも,教育を冒瀆するな!と言いたかったのだ。
¶ ぼくは小林よしのりというマンガ家が好きでない。しかし,彼の主張そのものを認めないわけではない。世の中にはいろんな考え方の人がいるのだから,誰が何を語ろうとそのこと自体は問題ではない。問題なのは,彼にとってマンガが「政治的主張の手段」でしかない,という事実である。それは,マンガという表現形式とすべてのマンガ家に対する冒瀆だ。そういう人はマンガ家をやめて,思想家や政治家になるべきだと思う。これは偏った意見かもしれない。しかし,野球少年がプロ野球選手になるように,漁師の息子が漁師になるように,マンガ家は他の何よりもマンガが好きな人間であってほしいのだ。
¶ ここまで言えば,ぼくがなぜ「つくる会」の歴史教科書が好きでないのか推測がつくかもしれない。何を書き何を書かないかは問題ではない。南京大虐殺の記述があろうとなかろうと,そんなのは著者の勝手だ。許せないのは,この執筆者たちが,歴史教科書というものを政治運動の手段と考えているように見えることだ。そう,それは歴史学に対する,そして教育に対する冒瀆である。道徳教育がやりたければ,道徳の教科書でやってくれ。政治的主張がしたいなら,選挙に出てくれ。歴史教科書を,別の目的のための手段として使うのはやめてくれ。こういうことが言いたかったのだ。
¶ 歴史も教育も,政治と無縁ではありえない。自国の歴史や教育が自国中心主義になるのは当たり前のことだ。韓国の教科書にも日本への過激な悪口が書いてあるのかもしれない。しかしだからと言って,教科書で好き勝手な政治的主張をしてもよい,ということにはならない。少なくとも歴史教科書なら,歴史的真実を正しく記録しようという学問的意志が前提になければお話にならない。「つくる会」の教科書は,学問的態度よりも思想の方が先に立っている感が強い。だから自分らの興味の外にある歴史的事実を軽視し,その結果文化面などの記述に間違いが山ほどある。こういうのは許せない。ぼく自身が職人的な仕事をしていることもあって,特に思う。職人にとって一番大切なのは技術であり,二番目が自分だけのこだわりだ。この場合で言えば,最も大切なのは歴史全般に対する深い愛着と造詣であり,歴史教育のスタンスはその次に来るべきものだ。知識があって思想がないのは「専門バカ」だが,思想だけあって知識がないのは「ただのバカ」にすぎない。歴史教科書を執筆する者は,まずもって「(歴史の)専門バカ」であってほしいのだ。
¶ もう1つ言っておこう。昨日の中国新聞に,成年男性でアメリカの原爆投下を「やむを得なかった」と考える人が約40%いる,というアンケート結果が載っていた。ぼく自身は原爆投下を肯定しないが(民間人への攻撃は戦争のルール違反だと思うから),これも時代の流れだろう。しかしそういうことは今の自分だから言えるのであって,子供の頃に特定の思想や宗教に染め上げられてしまったら,正義はそこにしかない,と錯覚してしまったかもしれない。実際には世の中には,単純な感情論で片付くような問題はほとんどない。原発しかり,死刑制度しかり,捕鯨禁止しかり。何事につけ意見の対立が存在する問題というのは,ある程度の情報をインプットして初めて自分なりの判断が可能になる。「原発は危ないから廃止すべきだ」という程度の意識しか持っていないような人には,意見を言う資格はないのだ。そういう観点から言えば,文字どおり右も左もわからない中学生に,あまり特定の思想を押し付けるのは危険すぎる。少なくとも学校でそういうことをすべきではない。愛国心というのは,人命尊重とかボランティア活動とか環境意識といった「万人が認める価値」とはちょっとレベルが違う。右よりの意見を主張したいのなら,同時に左寄りの意見も併記すべきだと思う。教えたいのは歴史なのか思想なのか。それをはっきり区別しないと,かつて日教組や部落解放同盟が犯したのと同じたぐいの過ちが,再び教育現場に広がってしまうのではないか,と危惧する次第である。
¶ もっとも,先に書いたとおり,日本と中国・韓国との将来の関係については,ぼく自身はどちらかと言えば楽観している。中国や韓国の子供らは「日本は(かつての)敵国」という洗脳教育を受けているかもしれないが,人や文化の交流が進めば,若い世代の嫌悪感は次第に薄れていく公算が強い。実際,中国でも韓国でも日本の映画や音楽は人気を博している。そうしたレベルでの意識の変化のスピードは,教科書の影響よりもはるかに大きいはずだ。大人はダメ。よかれあしかれ,直接の利害や経験に縛られすぎている。ちょうど中国新聞が「原爆原理主義」に縛られているのと同じように(非難しているわけではない。自分たちの社会的使命を貫こうとする態度はそれなりに立派だと思う)。オジンくさいけれど,世の中を変えるのは若者だろうと思うし,そうあってほしい。
¶ 話のついでに「日本人の戦争責任」について言うと,「なぜ人を殺してはいけないのか」(小浜逸郎・洋泉社)という本の中の説明に共感を感じる。この本(新書版)はなかなかの「目ウロコ本」で,中学の国語の教科書に採用してもいいんじゃないかと思う。哲学者である小浜氏は戦争責任を「道義的責任」と「政治的責任」とに分け,戦後世代には政治的責任のみが存する,と説く。ちょっと長いが同書から
--- もしあなたが中国旅行などをして,中国人から「私の親兄弟はあなたの国の兵隊によって殺されたのだ」と言われた時,あなたはどう対応すべきか。あなたは共同性を過剰に背負ってすくみ上がってはいけない。
あなたはこう答えるべきである。「私は日本国家がかつてあなたがたに迷惑をかけたことを知っていますし,それについて国家としてしかるべき責任を取るべきだと思っています。もし私が国政の責任ある地位にいて,そのための公的な権能を行使できるなら,私は極力それを行うでしょう。しかし,旧日本国家のやったことに対する非難感情を,私が単に日本人であるからという理由で個人としての私に向けることは無意味です。私は,あなたがたに悪感情を持ったことも差別したことも,あなたがたの土地を侵略したこともありません。そしてあなたがたと,国家とか民族とかいった観念をなるべく介さずに,具体的な生活行動を通じてこそ仲良くしていきたいと思っていますし,また仲良くなれると思います」。
● 2001/7/15(日) 歴史教科書論争に寄せて
¶ 「新しい歴史教科書をつくる会」の作った中学歴史教科書の見本(市販本)を,書店で立ち読みした。
冒頭のはしがきには,「歴史は国によって違って当然だ」というような趣旨のことが書いてあって,これはもっともだと思った。しかし,教科書の中身をペラペラめくって読んでみると,一読しただけでちょっとコレは・・・という第一印象を持った。で,どうせなら批判本も読んでみようと思って,「新しい歴史教科書の絶版を勧告する」(谷沢永一・ビジネス社)という本を買って読んだ。著者は「つくる会」に負けず劣らず攻撃的で思い込みの激しい人のようで,読み物としてはとても面白かった。ただ内容的には,シロウトが読んでも日本歴史学会の多数意見を代弁しているようにはとても思えない。それでも,この本に引用されている「つくる会」の教科書の記述を見ると,なぜこんな本が文部科学省の検定をパスしたのか?と思う。たとえば・・・(カッコ内は谷沢氏の批判)
・「最古の歌集『万葉集』は,長くその後の模範とされた」(飛鳥文化に関する記述。実際には和歌の範例は『古今和歌集』であり,万葉集は長い間解読不能だった)
・「文芸では,幕府の政治を風刺し,世の中を皮肉った川柳」(江戸文化に関する記述。実際は江戸期の川柳には政治を風刺するような内容のものは1つもない)
・「武士たちが殺伐とした行動に出ないように」(徳川綱吉の生類憐れみの令の目的に関する記述。実際の綱吉は周知のとおりのバカ殿であり,そもそもこの時期(元禄時代)の武士にはそんな行動に出るようなおそれはなかった)
・「中国・朝鮮両国は文官が支配する国家だったので,列強の脅威に対し,十分な対応ができなかった」(幕末ごろの世界情勢に関する記述。谷沢氏の批判を出すまでもなく,これでは軍国主義を奨励していると言われても仕方がない)
¶ それはそれとして,世間で言われている「中国・韓国からの批判は,日本への内政干渉である」という意見については,どうだろうか。一般的には,国民にどんな教育を施すかは基本的にはその国自身が決めることであり,他国に指図されるいわれはない。しかし,批判するだけなら「内政干渉」とは言えない。国連だって「人権が侵害されている国」といった査定を時々行っている。そうした批判が政府レベルの制裁措置(たとえば貿易や人的交流の制限など)に結びついたとき,内政干渉の性格を帯びる。その意味から言えば,今回の一連の成り行きは,客観的に見れば「日本への内政干渉」に当たると思う。しかし反面,中国や韓国にはそれほど強硬に反対するだけの理由があるわけで,対立するだけではお互いにとって不幸なだけだろう。「南京大虐殺のことが書いていない」などという批判は不毛だとは思うが。(何を書いて何を書かないかは執筆者の自由だろう。内容が明らかに偏っていれば自然淘汰されるのだから)
¶ ここまでは前置きで,ここから本論に入る。仮に「つくる会」の教科書に問題があるとして,では実際にその教科書を使った中学生たちは,偏向した思想を持ってしまうのだろうか?--- そんなことは絶対にない!断言できる。つまり,識者が激しく論争しようが政治的対立でワールドカップの準備に支障がでようが,そもそもの問題の根源である「中学生への教育的影響」という観点から言えば,教科書の中身など実質的にはどうでもよいのである。その意味で,「つくる会」を擁護する側も批判する側も,教科書というものを過大評価しすぎている。
¶ 上に挙げた谷沢氏と「つくる会」とは対極の立場にあるように見えるが,実は両者には共通点がある。それは,「歴史を動かすのは,その時代の人間の心性である」という立場に立っていることだ。これは大きな誤解だと思う。つくる会も谷沢氏も,日本人の民族的特性(たとえば勤勉さや創意工夫の才)を強調している。そういう側面を全部否定するつもりはないが,歴史のメカニズムはそういうものではないだろう。たとえば「日本語は中国から漢字を取り入れたが,それを日本独自の言葉に作り変えた。これは日本人が中国文化に染まらず自国の文化を重んじる気概を持っていたからだ」という趣旨の記述が「つくる会」の教科書中にあり,谷沢氏もそれに賛意を示している。しかし,こんなのはバカげた自分勝手な妄想にすぎない。韓国だって漢字を取り入れたが,ハングルを独自に発達させているではないか。言語というのは伝令ゲームのように伝わった先で変容するのが常であり,それは使う人間の意識の問題ではない。英語の pudding が「プリン」というカタカナ英語になったのは,単に日本人の発音器官になじまないという生理的理由によるものでしかない。
¶ 特に今日のような社会においては,歴史を動かす最大の力は「情報」ではないだろうか。プロ野球を見るがいい。「日本野球がメジャーリーグの2軍化する」という,1年前にはほとんど考えられなかった事態が今急速に進行している。その最大の理由は,マスコミがメジャー優先のスタンスを取ったことに他ならない。これは,情報の質的変化が社会を動かしている好例だと思う。政治も社会現象も同じだ。フリーターや独身志向の女性が増えたのも,日本人の心性が変化したからではない。自分にとって何が有利かという判断を行うに足る情報を得る機会が増えた,というのが最大の理由だろう。
¶ 教科書は,今では学生にとって数ある情報源のうちの1つにすぎない。10年くらい前までは教科書が学習素材のすべてであり,学校教育とは教科書の内容を暗記させることと同義だった。ところが近年,事情は大きく様変わりした。まず,教科書の情報量が格段に減った。それに代わるものとして,「教科書によらない学習」の機会が急速に増えている。たとえば社会見学・NIE(新聞を使った社会科学習)・各教科の課題研究など。このへんは「ゆとり教育」のプラス面と考えていい。あるいは,英語教育の目的の1つに「国際的視野を広める」という点がある。しかし,教科書で This is a pen. の練習をするだけで国際人になれるわけがない。うちの娘の通う小学校には,ブラジル人の子女が30人くらい通学している。この地域の工場で働くブラジル人労働者の子供たちだ。その子らの母国語はポルトガル語だが,日本の小学生にとって「外国の子供との交流体験」が持つ意味は非常に大きい。文化や思想の違いだけでなく,身体や言語の違いを自分の目で見ることがそのまま,人間的視野を広げることにつながるだろう。
¶ 自分自身の経験に照らしても,つくづく思う。人によって違いはあるだろうが,ぼくの場合は「学校で学んだことが今の自分にどのくらい役に立っているか?」と自問すると,「ほとんど役に立っていない」という答えしか思い浮かばない。大学を出たおかげで今の仕事にもつけたわけだから,全く恩恵を受けていないとは言わない。が,今の自分を支えるものの大部分は学校以外の場所で身につけた,と思っている。学生は,教科書の中身なんかによって影響されたりはしないのだ。そんなことが可能なら,道徳教科書を使えばみんな道徳的な人間に育つはずではないか。世の中はそんなに甘くない。そして,教科書論争をしている人たちが考えているよりも,世の中の動きはずっと速い。身の回りで日々起こっていることのすべてが,子供の人格形成に反映される。それは大人の行動であったり,テレビのニュースであったり,友達との会話であったりする。「日本は立派な国だ」といくら教科書に書いたって,日本の政治家連中が立派でないことは子供でも知っている。「日本は大東亜戦争でアジアを開放した」と日本人の子供に百回言い聞かせても,その子にアジア人の友人が一人でもいれば,その友人の言葉の方を信じるだろう。これからは日本にも多くの外国人が入ってくる。この流れは止められない。日本の歴史教科書が日本を美化しようがすまいが,日本人は諸外国からの多様な考え方に否応なくさらされる。この現実の前には,教科書などしょせん試験勉強のための道具にすぎない。日本人の多くがアメリカに好感を持っているのは,核の傘で守ってくれるからではない。アメリカ文化が日本文化に同化したからだ。今「内政干渉だ」と中国や韓国を悪く言う人たちの子供たちは,いずれ中国や韓国を友人と感じるようになるだろう。それは政治や教科書の問題ではなく,文化(つまり情報)の伝播の結果である。当事者の人たちはそれなりに必死なのだろうが,しょせんコップの中の嵐にすぎない。世の中の大きな流れは,あなたたちの矮小な思惑など簡単に飲み込んでしまうのだ。