メディアは,当然のことだがこの件をマクロの目(社会的な観点)から論評している。
ここでは,ミクロの目でこの問題に関する個人的印象を語りたい。
結論としては,こう思う。
佐川氏の精神力は尊敬に値する。
これは「鉄面皮だ」という皮肉ではない。
部下に対する佐川氏のパワハラは在任時から有名だったそうだが,同じように最近パワハラが問題になった人がいる。
金メダリスト・伊調選手に告発された,日本レスリング協会の栄強化本部長だ。
週刊誌にパワハラの記事が出て以来,栄氏は憔悴しきって話もできない体調だったという。
それ自体が自分のパワハラを認めているようなもので,実際に第三者委員会からパワハラが認定された。
普通の人は,それくらい「批判」に打たれ弱い。かつて偉そうにしていた人ならなおさらだ。
しかし佐川氏は,国会の喚問でも基本的に落ち着き払っていた(ように見えた)。
それは本人にしてみれば,自分の信念に殉じる覚悟を決めた態度だったのかもしれない。
ステレオタイプ的な見方かもしれないが,どの民族にも特有のメンタリティーがある。
たとえば大谷がメジャーへ行ったとき,向こうのメディアはこう書いた。
「あと2年待てば巨額の契約金が手に入るのに,なぜあんな安い金額で契約するのか?」
黒田がカープに復帰したときもそうだった。アメリカのメディアは,彼が高額な年俸を蹴ったことに驚いていた。
しかし日本人の目から見れば,大谷や黒田が「お金より大事なものがある」と考えたことはよく理解できるし,
そういう選択を好ましいものだと感じる。
それはなぜかと言えば,「謙譲(禁欲)は美徳である」という精神性を多くの日本人が共有しているからだ。
そういう目で今回の佐川氏の振る舞いを見るとき,そこに「禁欲の美」を感じざるを得ない。
以下,くわしく説明する。
事実である可能性が一番高いのは,おそらくこんな感じだろう。
@決済文書の改ざんを最終的に決定したのは,佐川氏だった。
A佐川氏は官邸と相談した[あるいは官邸に報告した]かもしれない。(しなかったかもしれない)
B文書を改ざんした理由は,安倍総理を守るためである。つまり「忖度」はあった。
(安倍総理は「自分や妻の関与があれば国会議員を辞める」と過去に答弁している)
C国会での発言内容は佐川氏本人が決めたことであり,「これを言うな」という外部からの圧力はなかった。
仮に上の推測が正しかった場合,証人喚問で佐川氏は@〜Bのすべてを語ることもできた。
ただし少なくともBを認めれば,安倍総理の立場が不利になる。
そういう状況に立たされたとき,自分ならどうするだろうか?と考えてみればいい。
佐川氏と同じように「何も語らない」という(ある意味で勇気ある)決断ができる人は,そう多くないだろう。
麻生財務相は「悪いのは佐川だ」と決め付けた。
その状況で「官邸の関与はなかった」と明言すれば,「やっぱり悪いのは佐川だ」ということになる。
つまり,自分だけが悪者になる。普通の人は,そんな立場には立ちたくないはずだ。
決済文書の書き換えを命じたことについては,彼なりによかれと思ってやったはずだ。
この文書を書き換えないと,最悪安倍総理の首が飛ぶ。
それは日本という国にとってマイナスだ,と当時の彼は考えた可能性が高い。
官僚は政治家ではないけれど,自分たちが国を動かしているという自負を持っている。
決済文書改ざんの指示は,佐川氏なりの職業的倫理観に基づく行動だったと思う。
しかし結果的に改ざんが発覚してしまい,再び彼の「職業倫理」が問われることになった。
ここで,「職業人としての自分」と「1つの人生を生きる1人の人間としての自分」との間に葛藤が生まれる。
つまり,マクロかミクロかの選択だ。ぼくが佐川氏なら,ミクロの方を優先して次のように考えるだろう。
―
私は今まで,官僚として自分の職務に忠実に尽くしてきた。
だから私は悪くない。世間が何と言おうと,私は自分の心に対してやましいことをしてきたつもりはない。
しかし今ここで「悪いのは全部私です」と認めてしまったら,自分の人生が世間から否定されてしまう。
当時の「忖度」の判断は,自分では最善の選択だったと今でも思っている。それを世間に認めてもらいたい。
安倍さんや麻生さんが悪いわけではないが,自分だけが悪者の烙印を押されて人生を終えるのはいやだ。
まして,今回の問題では理財局の職員に自殺者まで出ている。彼の自殺の原因が私の判断によるものなら,
私は彼に対する「良心の呵責」に耐えられない。せめて真実を語ることで,彼の死に報いたい。―
と,ぼくなら考えるだろう。それでも佐川氏は,あえて「いばらの道」を選んだ。
自分だけが悪者になり,安倍政権の防波堤になる。
それが官僚としての自分の生き様だと彼が考えたのだとしたら,そこには「禁欲の美徳」がある。
マクロ的に見れば,悪いことであることは明らかだ。
しかし1人の人間として佐川氏を見るとき,彼の行動を一概に責めることはできない。
きのうの中国新聞の社説に,いつも読み応えのある意見を述べる元鳥取県知事の片山善博氏が
「今回の佐川氏の発言の動機がわからない」と書いていた。
役人が文書を改ざんしたりする不正は今までにもあったが,その動機は自分が属する組織の利益だった。
たとえば帳簿を操作して裏金を作るのは,その裏金が自分らの組織にとって役立つからだ。
ところが今回の佐川氏の国会での発言は,自分にとっても組織にとってもメリットが何もない。
自分は悪者にされるだけだし,自分の組織(理財局)の評価も下がる。
これがたとえば「自分が独断で文書の改ざんを決めた。部下たちには申し訳ないことをした」と言えば,
自分は傷つくが組織は守られるし,ある種の倫理観をも満たすことができる。
そうしなかったのは彼が不道徳な人間だからだ,という意見も当然あるだろう。
この記事では,そうではない可能性を考えている。
ここから先は話がややこしくなるので,一種の妄想だと思ってもらいたい。
人間は誰でも,自尊心を持っている。そして自尊心を傷つけられることは,体の傷よりはるかに痛い。
小学生がいじめっ子に校庭でパンツを脱がされるイメージ…と言えばわかりやすいだろうか。
だから人は,本人が意識していようといまいと,自分の自尊心を死んでも守ろうとする。
幼稚園児にもヤンキーの兄ちゃんにも,守るべき自分ルールや越えてはいけない一線がある。
「人としてダメな奴にはなりたくない」という気持ち
― たとえばそれが自尊心だ。
そういう目で今回の件を見るとき,佐川氏が守った(と自分では思っている)自尊心とは何だったのだろう。
たとえばそれを,自殺した財務省職員(仮にA氏としておく)との関係で考えてみよう。
彼が文書の改ざんに関与しており,彼の判断がA氏の自殺に影響を与えたことはほぼ確実だ。
それに対して自分は何らかの「償い」をすべきだ,あるいは「罪の報い」を受けるべきだ
―
これが,彼の自尊心の一部であったとする。
(この気持ちが全くない人はただの自己中であり,そもそも忖度なんかしないだろう)
では,A氏の自殺に対する落とし前をつけるには,自分(佐川氏)はどうすればよいのだろう。
ここで,考え方は2つに分かれる。
第1の選択は,「A氏の意志をダイレクトに継ぐ」という発想だ。
A氏は(報道によれば)「行政の公平性がゆがめられた」と強く感じ,それが心身の不調の原因になった。
だから自分(佐川氏)は,行政の公平性を取り戻す方向の発言をすべきだ。
それはすなわち,全てを明るみに出すことを意味する。
しかしそれをすると,自分が忖度をした(決裁文書を改ざんした)ことが間違いだったと自分で認めることになる。
それは,自分のこれまでの職業人としての人生を否定するに等しい。
この時点で,「A氏に対して筋を通したい」という思いと「自分に対して筋を通したい」という思いが対立する。
そこで後者を選んだ結果があの証人喚問での態度だったのだとしたら,それは尊敬に値しない。
他人より自分を優先しているからだ。人間としての弱さの表れだと言ってもいい。
(「禁欲の美徳」に照らせばということであって,そのことで佐川氏を責めようとは思わない)
第2の選択は,「A氏にならって,自分も自分の志を曲げない」という発想だ。
役所には昔から,忖度の文化がある。その文化には功罪があり,今回のような不幸なことが起こることもある。
一方で,役所から政治家への忖度が一切なかったら,日本の社会にとって計り知れないマイナスがある(かもしれない)。
何しろ政治家は,バカばっかりだ。
前川元文部事務次官による名古屋の私立中学での講演に対して文部科学省が送った調査書を見れば一目瞭然だ。
詳細はここでは省くが,役所の人間が自分の意志であんな(前川氏への憎悪丸出しの)下品な文章を書くはずがない。
特に「出会い系バー」うんぬんの箇所は,報道はされていないがバカな国会議員の「添削」の結果であることは明白だ。
そんなことは,まともな大人なら誰にでもわかる。
話が脱線したが,政治家は基本的にバカ(=単細胞)だ。しかし,だから悪いとは言えない。
バカでなければ大きな決断はできないこともあるし,政治的な力量と頭のよさとは何の関係もない。
言うなれば政治家はイケイケの社長であり,官僚はその後始末をする有能な秘書だ。
ただし秘書には,社長のような経営手腕はない。両者がお互いに補完し合ってこそ会社はうまく回る。
しかし,政治家と官僚の関係がそれに似ていたとしても,世間はそうは見てくれない。
(自分から見れば)メディアも大衆も,政官が癒着してお互いが甘い汁を吸っている,という色眼鏡をかけている。
そんな連中にあえて真実を教える必要はない。この国のコントロールは,自分たちに任せてくれればいいのだ。
だから,自分が安倍総理に対して行った忖度も,国会で証言拒否を貫いたことも,どちらも間違っていない。
要するにオレは,メディアも大衆も信用していない。政治家は選挙で大衆に選ばれたのだから,彼らを敵にはできない。
しかし官僚は,場合によっては大衆を敵に回さねばならないこともある。それが,政治家にはできない官僚の仕事だ。
そういう高い志を持って,オレは今まで仕事をしてきたのだ。A氏の志も,方向は違えど同じように高かったはずだ。
われわれは2人とも,よき官吏であろうとしたことに代わりはない。
だとしたらA氏に対する自分のケジメは,自分の信じた「あるべき官僚像」を最後まで追い求めることではないのか?
―
こういうストーリーだったら,佐川氏の態度には敬意を表する。
もっともそれは,売れない小説家やミュージシャンが夢にしがみつく(=自分の過去の決断と努力が過ちだったと
認めたくない)気持ちと同様の,ある種の現実逃避なのかもしれないが。
さらに「1人の人間の死よりも社会の安定の方が大事だ」という単純な発想である可能性も十分あるし,
むしろA氏の死は自分の関心の対象外だという可能性が現実的には一番高いのだろうが。
真実は,本人にしかわからない。いずれ法律的な決着はつくだろうが,それには興味はない。
佐川氏という1人の人間が,何を考えて一連の行動を選択したのか。その本音を本人の口から聞いてみたい。