最終更新日: 2007/4/15
雑記帳 (社会問題編-D)
◆ 2007/4/15(日) 「赤ちゃんポスト」に思うこと
最近話題になっている「赤ちゃんポスト」について,「ポストという名前がよくない
(人命軽視の響きがある)」という意見は,理解できる。しかし,「名前が悪いから
反対」と言うのならその名前を変えればいいだけの話で,この問題の根っこは
もっと深いところにある。ちなみにぼくは,赤ちゃんポスト設置賛成派だ。
まず,反対派の立場に立って「赤ちゃんポストの弊害」を,いくつか挙げてみよう。
(1)ポストがなければ親は赤ちゃんを捨てることができないので,仕方なく自分で育てるはずだ。つまり「子捨て」という不道徳な行為が発生しなくなる。
(「ポストは子捨てを助長する」という意見を言い換えると,このようになる)
(2)赤ちゃんポストを1つ認めてしまうとそれが全国に波及して各地にポストが設置
されかねない(そうなれば気軽にポストを利用しようとする不道徳な行為が増える)。
(3)ポストがあることによって「間違って赤ん坊が生まれてもポストに捨てればよい」と考える者が出てきて,性道徳の乱れにつながる。
(4)ポストの存在そのものが「子捨ての公認」という性格を持ちかねないので,公の立場からこれを認めるのはおかしい。
言葉は違うけれど,これらの考え方は基本的に「ポストは『悪い親』を増やす恐れがある」という発想に基づいている。ただ,これらの意見を持つ人に対しては,「もう少し
現実の行為のレベルで考えるべきではないでしょうか?」と言いたい。
ここに一人の親がいて,ポストを利用したいと考えたとする。もしポストがなければ,その親はどんな行動を取っただろうか?可能性は3つある。
@ 生まれたばかりの赤ん坊を殺す(つもりでどこかに捨てる)。
A 仕方なくその赤ん坊を自分で育てることにする。
B 赤ん坊の命を救ってくれそうな所(たとえば病院)に置き去りにする。
赤ん坊の命を最優先に考えるなら,ポストは@の選択によって「殺される命」を救う機能を持ちうる。ポスト反対派は親にAの選択を期待するだろうが,果たしてAの
決断の末に育てられる子供は幸せになれるだろうか?そもそも親が子供を捨て
ようとするのはよほどの理由があるからであって,少なくとも普通の子育てができる
ような環境に置かれていないことだけは確かである。そうなると,この中では最も
まともな行為であるかに見えるAの場合でも,その赤ん坊が不幸になる確率は
極めて高い。それならむしろ,親がBを選ぶ方が赤ん坊にとっては幸せだろう。
つまり,「生まれてくる赤ん坊の利益」という観点からは,赤ちゃんポストには存在
価値があると思われる。
ここまでの話で明らかなように,この議論には次の対立軸がある。
● ポスト反対派は,「親」に目を向けている。
● ポスト賛成派は,「子供(赤ちゃん)」に目を向けている。
したがって,親と子のどちらを優先するかによって,賛否どちらの側につくかの結論は違ってくる。ぼく自身は,前にも書いたとおり「不幸な子供」を見るのが
辛いので,子供の利益の見地からポスト設置に賛成する。
さらに言えば,ポストによって救われるのは赤ちゃんの命だけではない。ポストは,「赤ちゃんをポストに入れた母親の魂」をも救うことになると思う。
「そんな非道な親を救う必要はない」と思う人もあるだろうが,これも現実の行為の
レベルで考えてほしい。
たとえば,ある若い女性(女子高校生でもよい)が妊娠したとしよう。彼女は何らかの理由で自分の妊娠を周囲の誰にも知らせず(または知らせることができず),しかも
堕胎手術の費用がないなどの理由で赤ん坊を産まざるを得なくなった。自室で一人で
出産した彼女は,赤ちゃんポストがなければ駅のロッカーかゴミ捨て場にでもその子を
捨てるしかなかったが,幸い(?)ポストがあったのでその赤ん坊をポストに入れた。
こういうことは,明日にでも起こりそうである。反対派の人に問う。このケースで責められるべきは,ひとりその女子高生のみなのか?到底,そうは思えない。彼女に非が
全くないとは言わないが,相手の男の責任はどうなるのか?あるいは,彼女の妊娠の
理由がレイプや近親相姦だったとしたら?彼女が誰にも相談できずに一人で悩み
苦しんだあげくわが子をゴミ捨て場に放置して死なせたなら,彼女はその先死ぬまで
罪悪感に苛まれることになるだろう。ポストに預けても大きな罪悪感は残るだろうが,
少なくとも赤ん坊の命が救われることで,精神的な重圧は多少は軽くなるはずだ。
そういう不幸な境遇に置かれた女性を救うためにも,赤ちゃんポストは必要だと思う。
ところで,話はここからが本題である。ポストに対する賛否が「親と子供のどちらに目を向けるか?」という単なる選択の問題であるなら問題ないのだが,実際には反対派
(の一部)の人々は,大きな偏見を持っているように見える。その人々とは,いわゆる
「自民党内保守派」と呼ばれる人々である。この問題に関して彼らの持つイメージは
おそらく,「若い女(と男)が享楽的で無計画な性交渉を通じて妊娠し,その尻拭いとして
ポストを利用する」というようなものだろう。しかし,ちょっと考えてみればわかることだが,
「間違って」妊娠したなら堕胎するのが普通であり,我々の周囲でもそういう話はよく聞く。
まして,自分の腹を痛めて生んだわが子を実の母親が気軽に捨てるなどということは,
まず100%あり得ない。そんなことは,一般人なら容易に想像できる。「一般人なら」と
あえて言うのは,保守派の人々がそういう想像力を決定的に欠いているように思える
からである。ぶっちゃけて言うなら,唐突に響くかもしれないが,彼らは基本的に「今の
女はダメだ。昔の女はよかった」あるいは「男の浮気はかまわないが,女の不倫は
許さない」という思想を持っているように思われる。
赤ちゃんポストに実際に赤ん坊を捨てに行く人がもしいたなら,それはまず間違いなく女性であり,その女性を妊娠させた相手の男は,その判断や行為に関与しない
(彼女がポストへ行ったことさえ知らない)無責任な傍観者に過ぎないケースが多い
のではないだろうか。したがって「赤ちゃんポストに赤ん坊を捨てるな」という非難は,
現実には捨てる当事者である女性だけが背負うことになる。
政府与党(つまり自民党)内では最近,「離婚後300日以内に生まれた子は前夫の子とする」という民法の規定を見直す動きがある。簡単に言うと,今までは「離婚後に
妊娠した子だけを新しい夫の子と認める」という規定だったのを「離婚前に妊娠した
(不倫によってできた)子でもDNA鑑定などで新しい夫の子と証明されればそう認める」
と変えようとするものである。これに対して長勢法相は,「性道徳や貞操義務についても
考えるべきだ」と反論している。「貞操義務」という言葉からもわかるとおり,彼の意見が
(相手の男の非を棚上げして)「女性の不倫」を念頭に置いていることは言うまでもない。
そもそもこの民法規定見直しの動きは,生まれた子供を法的に保護することにある。これに対して,保守派の立場を代弁する法相の発言は実質的に,「不倫(浮気)に
よってできた子供を法的に保護する必要はない」と言っているに等しく,不道徳な親に
対するペナルティという性格が強い。ところが,ここで言う「親」とは,まず100%「母親」
である。浮気男と不倫女の間で子供ができたとき,男の方は基本的に,できた子供の
ことなど知ったことではないだろう。現実的に子育ての責任を負うのは,まず確実に
母親である。つまり法相の立場は,実質的には浮気男を保護し,不倫女の責任だけを
追及する結果を生む。
保守派にとってのタブー語の1つに,「ジェンダーフリー」がある。東京都ではジェンダー論に関する講演会に公的施設を貸さない決定をして物議を醸したが,これはもちろん
保守派の代表格である石原慎太郎都知事の意向を反映したものである。
ジェンダーフリーはフェミニズムなどよりはるかに穏やかな概念だが,「女が男のように
振る舞うことへの嫌悪感」が,保守派の人々の根っこの部分にある。彼らのバイアスは,
「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」(安倍晋三座長)の
報告中に「ジェンダー論は性差を否定し,結婚,家族をマイナスイメージでとらえ,文化
破壊を含む概念」という言葉で表されている。
http://seijotcp.hp.infoseek.co.jp/genderfreeQandA.html
要するに彼らは「女は家でメシを作って子育てをしていればよいのだ」と考えており,そのステレオタイプな歪んだ女性像が,「女性は生む機械」発言にも,ジェンダー・
バッシングにも,民法改正への圧力にも,そして赤ちゃんポストにも,さらには従軍
慰安婦問題にも,現れているのである。
週刊現代は「安部首相が『韓国はキーセン国家』と大暴言」という記事の中で,彼が10年前
「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の事務局長をしていた当時,こんな発言
をしたと報じている。
「実態は韓国にはキーセン・ハウスがあって、そういうことをたくさんの人たちが日常どんどん
やっているわけですね。ですから,それはとんでもない行為ではなくて,かなり生活の中に
溶け込んでいるのではないかとすら私は思っているんです」
これではまるで,彼女たちが楽に金を儲けたいがために進んで春を売っているかのようだ。現実には売春したり子捨てをしたりする女性は社会的弱者であり(日本で援助交際をする
女子高生もその例外ではない),そうした女性たちの境遇や苦痛に思いを馳せることなく,
「女は黙って男の言うことを聞いていればよい」と考える女性蔑視思想が,現代の日本の
エリートと呼ばれる人々の一部(すなわち自民党保守派)の中に根強く残っていることを,
これら一連の事実は示している。
しかし,世の女性たちよ。悲観したり憤慨したりするには及ばない。こんな江戸時代の遺物みたいなアナクロニズムが通用するのは,石原くんや安部くんの世代までである。家庭では
濡れ落ち葉と呼ばれ,妻からの三行半におびえ,職場ではセクハラ免職や痴漢の冤罪に
さらされて萎縮する世のオジサンたちを見よ --- というのは冗談だが,一般社会の中で
女性とともに生きている男性たちの多くは,男性も女性も等しく「自己実現」の願望を
持っていることを知っており,少なくとも自分の身近にいる女性たちがそうした願望を
実現する手助けをしてあげたいと思っている。少なくとも,ぼくはそうだ。
うちのおばあちゃんも,ヨメも,娘たちも,自分の人生を輝かせたいという思いを抱いている
ことをぼくは理解している。男であれ女であれ,人として生まれた以上,自己実現の欲求を
持つことはごく当然なのだが,それを認めようとしない愚かな男たちもいるようだ。
「男は外で働き,女は家を守るものだ」「女は家事と育児をしていれば幸せ(なはず)だ」と
いう自分勝手な幻想を抱いている諸君。君たちの思想の根っこに,かつて自分が子供だった
頃の「古き良き家庭(家族)」へのノスタルジーがあることは,君たち自身も認めるだろう?
しかし,君たちの記憶の中にいる「良き母親(妻)」とは,君たちを含む世の中の男性にとって
「都合の良い母親(妻)」にしかすぎないのだよ。もしかしたらかつては,(一種の洗脳によって)
家庭を守ったり子供の世話をしたりするだけで一生を終えることに満足する女性もたくさんいた
かもしれないね。しかし,今はもうそんな時代ではないことに,君たちは気づくべきだ。
君たちの思想を,端的に表現してあげよう。
要するに君たちは,「女性にはいつまでも自分の母親のような存在でいてほしい」と思って
いるのだろう?世間ではそういう男のことを「マザコン」と言うのだよ。