最終更新日: 2008/4/26

雑記帳 (社会問題編-F)


 

◆ 2008/4/26(土) 山口県光市・母子殺害事件の死刑判決について

 

この裁判をマニアックに注視していたわけではないので,その都度テレビのニュースや

新聞報道などで断片的に伝わってくる情報でしか判断できないが,この事件に関して

思うことは山ほどあり,何から書くべきか迷う。とりあえず,簡単にこの事件の概略を

まとめておこう。記憶に頼って書いているので細かい点は正確でないかもしれないが,

大筋はこんな感じだろう。

9年前,山口県光市のアパートで,若い主婦と1歳にもならない幼児が殺される事件が起きた。

被告は当時18歳になって間もない若者だった。彼は,就職したばかりの水道工事会社の制服で

(作業員を装って)部屋に入れてもらい,主婦を強姦しようとしたが抵抗されたため首を絞めて

殺し,母にすがる乳児も殺害した。一審,二審で被告はこの事実関係を認め,どちらも無期懲役

の判決が出た。しかし,最高裁が「特に考慮すべき事情がない限り死刑にすべき」という理由を

つけて,二審の広島高裁に再審理を求めた。その高裁判決が数日前にあり,「A被告を死刑に

処する」という判決が出た。この裁判がマスコミで大きく取り上げられた理由の1つは,夫である

本村洋さんの言動が注目されたこと。もう1つは今回の裁判で被告の側に(オウム裁判の主任

弁護人も努めた死刑廃止論者の安田弁護士を中心とする)21人の大弁護団が新たに結成

されたことにある。一審,二審で検察側の主張する事実関係を認めていたA被告は,今回の

裁判でそれを否認し,およそ次のような主張をした。すなわち,アパートに侵入したのは,子供の

頃に自殺した母親の代わりに甘えさせてくれる相手を求めたからである。首を絞めて殺したのは

「はずみ」であり,その後性行為に及んだのは「(魔界転生で見た)復活の儀式」であった,という。

広島高裁の判決はこれを「死刑を逃れようとする作り話」と結論付け,「二審では更生の可能性を

考慮して無期懲役としたが,再審理の過程を通じて被告に改悛の情が見られないので死刑と

する」という趣旨の理由付けを行った。

この判決に関して,新聞には賛否両方の意見が載り,読者の投書欄にも多くの意見が寄せられた。

ここでは,今回の死刑判決に関する感想を,3つのパートに分けて述べてみたい。

 

 

PART1  死刑制度の賛否と今回の事件との関係

 

まず,世間の人々のさまざまな意見を,次の6つの類型に分けて考えてみよう。

A:死刑制度に賛成(または容認)する人の場合

A@ 積極的肯定派=「被告の供述は虚偽だ。よって死刑になるのは当然だ」
AA 消極的肯定派=「被告の供述がたとえ真実であっても,死刑判決はやむをえない」
AB 消極的否定派=「被告の供述は虚偽だと思う。しかし,死刑は厳しすぎる」
AC 積極的否定派=「被告の供述は真実だ。よって死刑判決は間違いだ」

B:死刑制度に反対する人の場合

B@ 消極的否定派=「被告の供述は虚偽かもしれないが,死刑という刑罰には反対だ」
BA 積極的否定派=「被告の供述は真実だ。よって死刑判決は間違いだ」

A(死刑制度肯定派)の立場は4つに分けられるが,比率としてはA@が最も多いだろう。

本村洋さんもA@の立場である。ぼくは,AAの立場を取る。ABは,死刑制度を認めた上で

「今回のケースでは死刑は厳しすぎる」という立場であり,被告の不遇な生い立ちに感情移入する

人はこの立場を取るだろう。被告の境遇は確かに大いに気の毒だが,今回のケースで死刑は

是か非か?と問われれば,個人的には是と答えざるを得ない。ACは,理屈の上ではあり得るが,

この立場を取る人は皆無に近いだろう。

一方,B(死刑制度否定派)の場合はどうか?B@の立場を取る人々をぼくが好まないのは,

彼らが「思考を放棄している」ように思えるからだ。「どんな凶悪犯罪であっても死刑には反対」

という立場は,「何が何でも戦争(あるいは原発,あるいは捕鯨,あるいは消費税の値上げ)反対」

と言っているのと同じであり,「今回の事件では被告にどのような刑罰を与えるべきか?」という

個別の論議に目を向けていないように感じられて仕方がない。BAは,「死刑反対」という自らの

立場とのつじつまを合わせるために無理やり理由づけを行おうとしている疑いが非常に濃く,

説得力に欠ける。よってぼくは,今回の事件に関する限り,B(死刑制度反対派)の人々の

主張に賛同することはできない

話が前後するが,ここで「被告の供述の信憑性」を考えてみよう。先に述べたとおり,ぼくは

被告の話が全部「ウソ」だとは必ずしも思っていない。「母性への回帰願望」とか「復活の儀式」

とかいう供述内容が,彼の中では「真実」だった,という可能性はある。「一審・二審でなぜそれを

主張しなかったのか?」という問いに対しても,「誰も信じてくれそうにないし,かえって自分の

印象が悪くなると思ったから」という答えが可能だろう。しかし,言うまでもなく,その可能性は

限りなく低い。

 

彼の「心の動き」に対する一番もっともらしい解釈は,次のようなものだろう。

「性体験をしたいが,自分には女友達もおらず風俗へ通う金もない。だから,(マンガやビデオの

中でやっているように)昼間のアパートへ侵入して,主婦を強姦できないだろうか。水道工事会社の

制服を着て点検工事のふりをすれば,部屋には入れてもらえるはずだ。あとは主婦を暴行して,

素早く逃げればよい。顔を見られても,脅迫すれば(あるいは本人の羞恥心によって)警察に

駆け込まれる可能性は低いだろう。抵抗されたら,首でも絞めて気絶させてから強姦すればよい」

もちろんこれは,単なる想像にすぎない。しかし,大筋ではおそらく間違っていないだろう。

彼を弁護する立場の中には「彼の精神年齢は12歳くらいで止まったままだ」と言う人もいるが,

たとえそうであったとしても,彼が死んだ主婦に暴行したという事実がある以上,「18歳の若い

男の性衝動」が,今回の犯行の最大の動機であったことには疑う余地がない

それでもなお,「おまえに被告の心の内がわかるのか?」と批判する人があるかもしれない。

しかし,そもそも裁判とは,「事実をどう解釈するか」を論じ合う場である。判事は,提出された証拠や

証言の検討を通じて,犯行の事実関係や被告の動機などを「推定」して判決を出す。いわば判事は

野球の審判と同じ立場にある。審判の判定は絶対であり,選手はそれに従う義務がある。そうで

なければ野球の試合は成り立たない。その意味で,今回の判決後に弁護団が「事実誤認だ」と

裁判官たちを批判したのはいただけない。それは,野球の選手が審判の判定に対して「今のは

ストライクではなくてボールだ。審判の判定が間違っている」と言っているのと同じだ。

 

誰だって,他人の心の内を完全に読み取ることなどできはしない。せいぜい可能なのは「できるだけ

合理的な解釈」であり,「それでは不十分だ。事実とは違うかもしれないではないか」と言い出したら

裁判制度自体が成り立たない。「そんなあいまいな理由で人を死刑にしてよいのか」という意見も

あるだろうが,それにも賛同しかねる。「ではあなたは,『死刑判決』でさえなければ,あなたの言う

『あいまいな理由』によって人を裁くことを許すのか?」という反論が容易に可能だからだ。人が人を

裁くという制度を社会が認めている以上,全体の整合性をふまえた「線引き」が必要だ。少なくとも

理屈の上では,死刑だけを特別扱いすべき理由はない。



今回の事件でぼくが「死刑反対派」に対して抱く大きな違和感を,別の角度から挙げてみよう。

死刑制度に反対する理由のうち最も多いのは,「冤罪の可能性」である。しかし今回の事件に限って

言えば,被告が「犯人」であることは本人が認めており,冤罪の可能性はゼロと言ってよい。では,

その理由を除外して考えるとき,今回のケースで「死刑」に反対する理由として残るのは何だろうか?

おそらく最も多くの人が思い浮かべるのは,被告の生い立ち,特に母親の自殺と父親から受けた暴力

だろう。確かに,これは考慮に値する理由である。一審・二審で被告が死刑でなく無期懲役になった

のは,裁判所が彼の更生可能性を認定したからだろう。しかし今回の差し戻し審では,この9年間に

被告の精神は改善するどころか悪化したと(精一杯合理的な解釈として)認定された。その結果が

死刑判決である。弁護人グループは事実誤認を主張したが,(くどいようだが)彼の犯行の根本的な

動機が「性衝動」であることは間違いない。ゆえにぼくは,今回の判決には合理性があると思う。

「冤罪の可能性」を主な理由として死刑一般に反対する人が,現実に冤罪の可能性がゼロで

ある個別の事件の死刑判決を(一般論で)批判するのは,筋が通らない。今回の判決に関する

ぼくの違和感は,そこにある。

 

 

補記:「犯行の計画性」という言葉にも,大いに引っ掛かるところがある。今回の事件は,たとえば

「口論の最中にかっとなって,近くにあった果物ナイフで相手を刺した」というようなケースとは違う。

作業員を装ってアパートに入り込んだ時点で,「殺人の計画性(あるいは「殺人を犯すかもしれない

という予測」)があった」と認定してよいと思う。「軽く首を締めて気絶させるつもりが,強く締めすぎて

殺してしまった。だから計画的ではなく偶発的な殺人だ」と主張することに,どんな意味があるのか?

あるいは,「部屋に赤ん坊がいるとは知らなかった。だから侵入した時点では赤ん坊を殺す計画性は

なかった」などと被告や弁護人が仮に言ったとしても,そんな理屈は通じない。裁判官は事件の

「悪質さ」の度合いを判定して刑罰の軽重を決める。「計画性」という言葉は,緩やかに解釈すべき

だと思う。

 

 

 

PART2  死刑制度一般について

 

ここから先は,話を「死刑制度一般」に拡張して考えてみる。


死刑制度に賛成か反対か?と問われれば,ぼくは「賛成」の立場だ。より正確に言えば,

 

「諸般の事情を考慮して総合的に考えると,今の日本に死刑制度が存在するのはやむをえない」

 

と考えている。

「いろんな事情」とは本当にいろんな事情なのだが,一般に言われているようなことはここでは書かない。

 

 

この文章を読んでいる人の中に「死刑廃止論者」がもしいたなら,あなたに1つ質問したい。

我と思わん方は,掲示板に回答を投稿していただきたい。(メールでもいいですよ)

 

かつて神戸で小学校に押し入って児童を殺傷した死刑囚は,「早く死刑にしてほしい」と言った。

これに対してぼくは,「被告自身が死刑を望むなら,その希望を叶えてやるべきだ」と考える。

あなたは,この考えにどう反論するだろうか?

 

先回りして言うと,これにはいくつかの反論が考えられる。

 

その1。「死を望むこと自体,人間として間違っている。そんな不合理な希望に応える必要はない」。

--- この反論は,簡単に論破できる。医療現場を見るがいい。いわゆる尊厳死という形で,「死ぬ権利」

が現実に認められているではないか。「自分の体が回復不能の状態になったら,延命措置を希望しない」

と希望する人を,あなたは許さないだろうか?神戸の死刑囚の希望は,本質的にそれと同じである。

「これから先どれだけ生きても,自分は(社会的に)回復不能の病人と同じだ。それならいっそ殺して

ほしい」と彼は考えたのだから。同じことは,自殺を望む人にも言える。もしも社会が自殺を害悪だと

考えるなら,「自殺未遂者を処罰する法律」が制定されてしかるべきである(現に死んだ人は処罰

できないので対象外となる)。しかし,世界中のどこにも,そんな法律はない。つまり,死を望むことは,

少なくとも社会的な処罰の対象とはならない。逆に言えば,万人が「死ぬ権利」を持っていると考える

のが合理的である。死刑囚だけがその権利を奪われるなら,それは社会制度上のバランスを失する

ことになりはしないか?

 

その2。「その囚人が死刑を望むのは,本人が人間的に未熟だからである。正しく指導してやれば,

本人に人間的な心が芽生え,死を望まなくなるはずだ」。--- この主張にも,「その1」と同様の問題が

存在する。この主張の背景には,「死を望むのは,本人の人格が歪んでいるからだ」という前提がある。

果たしてその前提は正しいのだろうか?そしてこの主張をする人は,延命治療を拒否する病人に対しても

同じ言葉を投げかけるのだろうか?

 

その3。「死刑になるほど悪いことをした人間の権利など認めてやる必要はない。死にたいと願う

囚人を強制的に生き長らえさせることも,刑罰の一種だ」。--- こういう考え方をする人もいるかも

しれないが,もしもあなたが死刑廃止論者なら,この思想が一種のパラドックスであることを直感的に

理解するだろう。死刑賛成論者がこう言うのであれば,それはそれで筋が通っているけれど。

 

その4。「本人の気持ちはわかるが,そういう特殊な人間の希望を叶えることよりも,死刑制度を

廃止することによる社会的なメリットの方が大きい」。--- 一見もっともらしい意見だが,あなたが

死刑廃止論者なら,この意見に素直に賛同する気にはならないはずだ。なぜならこの意見は,神戸の

死刑囚のような囚人に対して「社会全体の利益のために,おまえは犠牲になれ」と命じているのと同じ

だからだ。一般に死刑廃止論者は個人の人権を重視する傾向が強いと思われる。このようないわば

「人権無視」の意見は,受け入れ難いはずだ。

 

さて,死刑廃止論者の皆さん。あなたのお答えはいかに?

 

 

「囚人への死ぬ権利の保証」にまつわる話は以上で終わる。次は,別の角度から考えてみよう。

 

日本には,なぜ「終身刑」という制度がないのか?

 

周知のとおり,「無期懲役」と「死刑」との間に大きな落差がある。

「死刑を廃止する代わりに,終身刑という制度を作ればよいのに」と思う人も多いはずだ。

 

以前,法律を生業としている友人に,この疑問をストレートに投げかけてみたことがある。

彼の回答は,まことに明快だった。「そりゃあ,物理的な制約の問題じゃろう」というのだ。

つまり,「収監期間の長い囚人が増えると,刑務所の収容能力を超えてしまう」ということだ。

言われてみればもっともな話だが,これを聞いた瞬間,直感的に不吉なことを想像してしまった。

仮にこの先犯罪者が増えて,有罪判決を受けて刑務所に入る人間が激増したらどうなるか?

足りなくなったら新しい刑務所をどんどん作ればよい,というわけにはいかない。刑務所は

いわゆる迷惑施設であると同時に,あまり山奥や僻地に作るわけにもいかない(面会人などに

不便を生じるので)。「囚人を養うためにどんどん貴重な税金を使うのか」という批判もあろう。

そのことが,裁判官や検事に「刑務所に入る人間をこれ以上増やすことはできない」あるいは

「こいつらを早く刑務所から出さないと次の囚人を入れることができない」というような,自主規制

による歪んだ運用を生じさせるおそれはないのだろうか?そう考えると,「無期懲役」という制度

の運用方法も,本当に公正が保てるのだろうか?という疑問が沸いてくる。

 

われわれの社会は,「パピヨン」のように囚人たちを絶海の孤島に隔離することなどできない。

もしも「刑務所のキャパシティが足りない」という現実的な事情によって終身刑という制度が選択

できないのだとしたら,無期懲役と死刑の二者択一しか残らない。そしてその場合の「無期」とは

実質は10年とか20年とかの(終身刑に比べれば)短い期間であり,それさえも社会情勢の変化

によっては不公正な扱いを生むおそれをはらんでいる。ぼくが「死刑」をやむをえないと考える

理由の1つが,ここにもある。

 

ところで,皆さんは「(文字どおりの)終身刑」という刑罰を,どう考えるだろうか?

死刑と終身刑とでは,どちらが残酷な刑罰か?」と言い換えてもよい。

 

「そりゃあ,死刑の方が残酷に決まっている」?--- 果たしてそうか?ぼくはそうは思わない。

もしも自分が凶悪な犯罪を犯し,「死刑と終身刑のどちらかを選ばせてやる」と言われたら,

ぼくならたぶん「死刑」の方を選ぶだろう。出獄できる可能性がゼロの境遇に置かれ,狭い檻の

中で何十年も過ごすくらいなら,早く殺してもらった方がましだ。仮に終身刑という制度が日本に

導入されたなら,「早く死刑にしてほしい」と希望する囚人の数はさらに増えるだろう。そこで再び,

「囚人の死ぬ権利」の問題がクローズアップされるかもしれない。そこに刑務所のキャパの問題が

からんでくると,「終身刑を新設し,同時に該当者には終身刑と死刑との選択件を与える」という

ような,死刑廃止論者にとっては悪夢のような状況が起こらないとも限らない。「死刑は許せない

けれど終身刑なら許せる」と考えている人がもしいるなら,その考えは少し浅はかと言わざるを

得ないのだ。


PART3  今回の事件の関係者たちへ

 


<被告の元少年へ>

 

君には,重大な役目がまだ残っている。事実上,君の死刑は確定した。今まで君には「もしかしたら

死刑を免れるかもしれない」という期待も当然あっただろうから,自分にとって有利になることだけを

語ったかもしれない。しかし,もはや君にとってそうした「打算」は必要ない。今こそ,世間の大多数の

人々が感じている1つの疑問に対して,君は正直に答えるべきだ。

 

それは,「今回の裁判で君が語った内容は,弁護団の入れ知恵によるものか?」という疑問だ。

この疑問に対する君の答えがイエスであれノーであれ,君のその回答は社会的に大きな意味を持つ

だろう。君はこの質問に答えることで,ささやかな贖罪を行うことができるのだ。

君の答えが「ノー」である,つまり「最後の裁判での主張が自分にとっての真実であり,一審・二審の

発言は間違いだ」と君が答えた場合,次には当然「一審・二審ではなぜ真実を語らなかったのか?」

という疑問が沸く。この点については今回の裁判でも当然検討されているはずであり,裁判所はその

理由付けに説得力を感じなかったのだろう。しかし,死を前にして,もはや「ウソをつく」ことに意味が

ない状況に置かれた君の口からは,これまでとは違う説明が出てくる可能性もある。たとえば「自分の

中では真実でも他の人から見れば非常識に思われそうだし,かえって裁判官の印象が悪くなると

思ったから」というような。それならそれでいい。

逆に君が先の質問に「イエス」と答えたなら,すなわち「今回の裁判での自分の発言は,(死刑を

免れたい一心で)弁護人の作ったシナリオを演じたにすぎない」というものであったなら,これは

大問題である。君の罪を軽くするために努力すべき弁護士が,それとは正反対の結果を招いた

ことになるのだから。世間の多くの人々が一番知りたいのは,まさにその一点にある。

もちろん,死を前にしてなお,君がせめてもの自尊心(=強姦に失敗して人を殺して死刑になった

愚かな男,という惨めなレッテルを貼られたくないという思い)を守るために「母体回帰願望」という

捏造されたストーリーにしがみつく可能性もあるだろう。また,君の精神年齢が12歳程度であり,

自分の行動を自ら説明するだけの語彙を持たない(だから外から吹き込まれた説明をその都度

なぞるしかなく,自分がウソをついているという自覚さえない),という可能性もあるかもしれない。

ただ,いずれにしても,「君と21人の弁護団との関係」だけは,どうしても君自身の口から語って

もらいたい。それが実現して初めて,この事件には「ケリ」がついた,と言うことができるだろう。

<本村洋さんへ>

 

お疲れ様でした。結果的にこれだけ目立つ活動をしてこられたあなたには,世間からいろいろな声が

届いたでしょうし,裁判以外でのさまざまな心労もあったことと思います。ゆっくりと休んでください。

古館アナは,あなたが画面に出るたびに,「本村さんの言葉はどうしてこんなに重いのか」とコメント

していました。同感です。それと同時に,あなたの澱みのない語り口には毎回驚嘆しました。

しゃべりのプロにもできない「芸」(不謹慎な言い方ですが)だと思います。今後のあなたの人生は

あなたがお決めになることですが,あなたご自身が望むなら,次の選挙で国会議員になることも

十分可能でしょう。いずれにしても,あなたの今後の安らかな人生をお祈りしています。

 

 

<弁護人グループへ>

 

あなたがたは弁護のプロですから,今回の裁判で「負けた」ことを大いに反省すべきです。

今回の裁判におけるあなた方の最大の目的は,「被告を死刑にしないこと」だったはずです。

その目的が達せられなかったのは,あなた方が力不足だったからです。法廷戦術の誤り,と

言ってもよいでしょう。被告が裁判で深く反省している態度を見せれば,死刑判決は回避できたかも

しれません。「自分たちは被告の本心に忠実に弁護をしただけだ」というのは,単なる言い訳です。

釈迦に説法でしょうが,アメリカの弁護士を見ればわかります。彼らは「真実を明らかにする」こと

よりむしろ,「被告に少しでも大きな利益をもたらす」ことを第一の目的としているように見えます。

弁護とは,そういうものではないでしょうか。世間の多くの人々が言っているように,あなた方が

本当に「被告の利益」のために弁護活動を行ったのか,疑問が残ります。もしかしたらあなた方の

目は,被告以外の「何か」の方に向いていたのではないでしょうか。まさかとは思いますが,「裁判

には負けたが,(死刑制度の存廃に世間の目を向けることができたので)実質的には勝った」と

思ってはいる人が,あなた方の中におられないでしょうか。あなた方は,裁判の直後の記者会見で

「不当な判決だ」と言っておられましたが,あなた方が最初に口に出すべきは「死刑判決を回避

できなくて,被告に申し訳ない」という言葉ではなかったのか,とぼくは思います。それがあなた方の

仕事なのだから。

 

 

(以下,日記帳から転載)

 

昨日書き忘れたことを,ここに追加しておこう。「終身刑」に関する考え方についてだ。

これを読んでいる皆さんに,一つ質問しよう。あなたは,

 

(A)終身刑と死刑との間の落差

(B)無期懲役と終身刑との間の落差

 

この2つの「落差」のうち,どちらの方がより大きいと思うだろうか?

もしかしたら,多くの人が「Aだ」と答えるかもしれない。しかしぼくは,Bの落差の

方が大きいと思う。文学部の出なので法律論には素人だが,素人なりにそう思う。

それは,「人間に対する見方」という点において,死刑と終身刑とは同じ地平にあり,

無期懲役という発想はそれらと対立しているからだ。ここで問題となるのは,

「犯罪者の人格を矯正することは可能か?」という問いかけである。

 

死刑と終身刑は,この問いかけに対して「ノー」と答えている。つまり,「凶悪な

犯罪者の人格は,矯正不可能である。よって彼らは,永遠に社会から隔絶

せねばならない」という思想が,死刑および終身刑の背景に存在する。一方,

無期懲役とは「期限を定めず,社会復帰できると認められる時期が来れば,

刑務所から出してあげますよ」という性格の制度である。そこには「刑務所の

中で自ら反省すれば(または人格矯正の指導を受ければ),犯罪者の反社会

的人格は矯正可能だ」という思想がある。すなわち,死刑・終身刑はともに

「性悪説」の立場に立っており,無期懲役は「性善説」の立場に立っている。

 

そもそも懲役刑には,さまざまな目的がある。「ペナルティを与える」あるいは

「犯罪者を一定期間社会から隔離する」などのほかに,「反省の時間や機会を

与える」ことも,その目的に含まれる。つまり,「犯罪者が社会復帰するための

準備を行わせる」ということだ。しかし終身刑という制度の場合,本人には

社会復帰の道が閉ざされているのだから,刑務所の中で本人が反省しようが

すまいが,そんなことは(社会にとって)どうでもよい。要するに終身刑も死刑も,

「犯罪者を切り捨てる」という意味では同じなのである。そう考えると,「死刑は

許されないが終身刑なら許される」という発想は一種の「自己満足」であり,

「自分の目の前からゴミがなくなってしまえば,海へ捨ててもかまわない」と

いう発想と同根なのではないだろうか。

 

 

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