最終更新日: 2009/6/21
雑記帳 (社会問題編-H)
◆ 2009/6/21(日) 脳死判定基準の変更に思うこと
● まず,ネットからの引用を1つ。
http://www.j-cast.com/tv/2009/06/19043555.html
(以下,このサイトから転載。「番組」とは,「とくダネ!」のこと)
「脳死は人の死」を前提に、家族の同意があれば15歳未満でも臓器が提供できる臓器移植法改正の
A案が衆院で可決され、参院に送られた。番組は、「脳死は人の死」を前提とする法案の行方に、
特別な思いで見守っている2つの家族を密着取材した。
生まれつき重い心臓病を患い、24時間酸素チューブで命をつなぎ止めている山口真生ちゃん(4つ)。
4歳になるまですでに4回も心臓手術を受けたが好転せず、両親が託したのが心臓移植だった。
しかし、国内では、現行法で15歳未満の心臓移植は認められず、両親が募金活動を行い、アメリカでの手術が待っている。今回の衆院通過について父親は「患者本人のことを考えると、やはり日本国内でできた
ほうがいい。募金活動は非常に大変だということが分かりましたし、私どもの募金活動が最後になればいいと
思います」と、法案成立に期待を寄せる。
一方「生まれてきた時にへその緒が切断され「長期脳死」といわれる西村帆花ちゃん(1歳8か月)。食事はチューブで直接胃に流し、呼吸器をはずせない。
それでも生まれたとき50センチだった身長は今90センチ。髪の毛が伸びたり歯が生えたり。
母親によると「いろいろな声を出すんです。お風呂に入れると『アーツ』、ウンチした時は『ヒーッ』もちろん娘が死んでいるとは見ていないし、目に見えている部分で生きているというのを感じる」と。
そして昨日(6月18日)、「A案が可決されましたよ」に、両親は「あーそうなんだ」と言い、しばらく絶句。
確かに、心臓が動き、髪の毛が伸び、声も発するわが子が、法律で「この子は死んでいるんです」と言われたら、親はたまったものではない。
母親が次のように心境を語った。
「この子が生きる意志というものを私たちが感じ受け入れて、3人で幸せな生活を送りたい。そういう時間が許されなくなっていくんじゃないかと、すごく不安です」
スタジオでは、まずキャスターの小倉が第1声を。
「A案から投票をはじめてD案まで進めるのかなと思っていたら、いきなりA案で可決と聞いてびっくりした。だって麻生首相も反対、民主党の鳩山代表も反対しているのですからね〜」
続けて小倉は次のような問題を提起した。
「『脳死を人の死』と認めた場合、治療の問題や健康保険の問題。親が周囲の人から『いくら頑張っても、もうダメなんだから、それより誰かのお役に立てたほうがいいんじゃないか』という話が絶対出てくると思う」
つまり小倉は、重要な臓器移植法改正案にもかかわらず、「現段階では十分議論がされたとは言えない」というわけだ。
● 続いて,新聞の社説を1つ。(6月19日・中国新聞朝刊)
http://www.chugoku-np.co.jp/Syasetu/Sh200906190132.html
脳死は「人の死」か、そうでないか―。一人一人の死生観や判断に委ねてきたものを、これからは一律に
「人の死」とする。そんな臓器移植法改正案が、衆院で可決された。唐突に通ってしまった感もぬぐえない。
参院では修正も含めて、さらに突っ込んだ審議をしてもらいたい。
これまでは臓器の提供を望む人の場合にだけ、脳死を「人の死」と認めてきた。改正案は、この限定条件を取り払う。
本人の提供の意思がはっきりしなくても、家族の了解があれば移植に応じられるようにする。
さらに15歳未満はドナー(臓器提供者)になれないという年齢制限を外す。開かずの扉から、やっと光が漏れてきた。国内では移植のすべがなかった小児患者や家族にとっては、
一日千秋の思いだったのではないか。
しかし法施行から11年余りで81件にすぎなかった脳死移植数が、これで一気に増えるだろうか。救急医療の現場では「貧弱な体制のまま、脳死判定を押し付けられても対応できない」といった声もあるようだ。
ドナー希望者のすそ野が広がっていないことも大きなネックだろう。内閣府の世論調査によれば、「ドナーになりたい」との意思を持つ人の割合は、この10年で31・6%から43・5%に増えてきた。
ところが法定のカードなどで意思を明らかにしている人は、9%足らずのままだ。
改正案は、この「言行不一致」を逆手に取ったとも言える。本人の「ドナーを拒否する」との意思表示がない限り、家族の同意で移植の話を進められるからだ。
とはいえ、移植臓器を増やすことを最優先するあまりに「人の死」の定義やルールを変えた、と受け取られるようでは本末転倒だろう。日弁連も、そう指摘している。これでは法改正をしても移植医療に対する国民の
理解は深まらず、結局はドナー確保にもつながらないのではないか。
医療現場での混乱も予想される。「脳死」判定を受けた途端、患者はドナー候補者に変わる。最善を尽くされるはずの治療がどう変わるだろう。保険医療はどの時点まで適用されるのだろうか。
疑問がいくつも浮かぶ。
臓器提供の「同意」を求められる家族の、精神的な負担も大きかろう。中でも子どもの場合は、事前の意思確認が難しい。乳幼児などの場合は事実上、家族の同意で決まるだけになおさら悩むことにならない
だろうか。
児童虐待が年々増える中、虐待した親が、子の臓器提供に応じるケースもあり得る。そんな想定から、衆院でも第三者委員会を設ける議論があった。家族の判断があれば十分だとは言い切れないところにも、
難しさがある。
誰もがドナーとなり得るし、家族として同意を求められることもあり得る。さまざまな立場を想定しての慎重な審議が、参院で望まれる。国民も自分自身の問題として真剣に考えなければならない。
● 今回の改正案の要点は,次の2つと言えるだろう。
@「脳死=人の死」という一般的な定義を,新たに採用する。
A15歳未満の脳死者からの臓器提供が可能になる。
B本人の(事前の)同意がなくても,家族の同意があれば臓器提供が可能になる。
この2点について,上の2つの記事は「十分な論議が尽くされていない」という主張をしている。
そしてその主張は,たぶん世間の一定数の人々の感情を代弁しているだろう。
しかし,ぼくは上の2つの記事が言う「問題提起」を,認める気にはならない。
要するに,今回の「改正案」には賛成である。以下に,その理由を語ってみたい。
■「切実さ」のバランス
今回の改正案に違和感を抱く人の中には,こう考える人もいるだろう。
「脳死を人の死と定義すべきかどうか?」という問題は,人間の根源に関わる問題であり,
「脳死者からの臓器提供を可能にするため」という実利的な目的とは切り離して考えるべきだ。
一理ある。しかし,この言い分は「堂々巡りの抽象論」の域を出ていない。
「ドナーがいなければ死んでしまう」という現実がある以上,その「実利」を実現しようとすれば,
「脳死の定義」を法体系の中に組み込まざるを得ない現実がある。
現実レベルで提案の是非を論じる場合,メリットとデメリットを比較する作業は必要だ。
「脳死になった子どもからの臓器移植」が認められなければ,決定的なデメリットが生じる。
海外での臓器移植が認められない方向に向かっている現在,現行法のままだと「臓器移植を
すれば助かるのに,法律に阻まれてそれができないために死んでしまう子ども」が必ず出る。
これに対して,新しい法律が成立した場合に予想されるデメリットは,たとえば次のようなものだ。
・脳死の子どもを持つ親への(「早くドナーになってほしい」という)心理的圧力
・ドナーになってほしいために,医師がわざと脳死患者の治療の手を抜くおそれ
・虐待の結果脳死状態になった子どもの臓器が積極的に使われるおそれ
しかしこれらは,現行法を維持することによって「確実に死ぬ子どもが出る」というデメリットに
優先するものでは決してない。したがって,現行法は改正する方がよい。思想や哲学の論議を
戦わせるのは自由だが,「現状では確実に死者が出る」という現実を承知の上で,「それでも
今のままでよい」と言うなら,その人には人間として大切なものが欠けていると言わざるを得ない。
■ 自分が「脳死」の当事者なら?
※ここでは「脳死患者には,意識が回復する見込みはない」という前提で考えることにする。
つまり,「脳死の判断が間違っていたら取り返しのつかないことになる」という意見は無視する。
※「(理屈抜きの)宗教的な主張」も,ここでは無視する。
「脳死=人の死,と考えるべきではない」という立場からは,たとえばこんな意見が出るだろう。
「本人の意志が確認できない以上,他人の判断でその人の『命』を奪うことはできない」
一般論としてこう主張する人に対して,「情緒」と「形式」の両面から反論してみよう。
まず,情緒の面。もしも自分が回復の見込みのない脳死状態になったら,あなたはそれでも
『生き』続けたいだろうか?もしもその答えがイエスなら,あなたの主張には一貫性がある。
つまり,「自分がたとえ脳死になっても,生命維持装置を外してほしくはない。だから,他人が同様に
脳死になっても,生命維持装置を外すべきではない」という理屈だ。臓器移植に同意するかどうかは,
本質的な問題ではない。要は「脳死になっても『命』をつなぎとめたい」という意志があるかどうかだ。
しかし,上の青字の質問に対して「イエス」と答える人が,果たしてどれくらいいるだろうか?
おそらく,ほとんどいないはずだ。少なくとも,「脳死=人の死,ではない」と主張する人々がすべて
「自分は脳死になっても生き続けたい」と考えている,とは思えない。だとすれば,かなりの人々は,
「自分が脳死になったら殺してもらってよい。しかし他人が脳死になったら殺してはならない」
と主張していることになる。その,一見して矛盾するかのように思える主張の背景には,どんな
意識があるのだろうか?(くどいようだが,これはあくまで「情緒」のレベルの話だ)
端的に言おう。あなたの主張は,単なる「責任逃れ」ではないのか?
脳死患者を見た多くの人は,「この人がもし自分の意思を示すことができるなら,『もう殺して
もらってもかまわない』と言うのじゃないだろうか?」という感想を,(自分の身に置き換えて)
持つのではあるまいか?そのシンパシーが「でもやっぱり殺すべきではない」という結論に至る
のは,「他人の命に責任は持てない(あるいは,気軽にそういう言葉を吐くべきではない)」という
思考が働くからだと思う。そのときあなたは,その患者のことを親身に考えているわけではなく,
自分とは関係のない第三者としてしか見ていない。「責任逃れ」とは,そういう意味だ。もしも
あなたの身内が脳死になり,生命維持装置を外すかどうかがあなたの判断に委ねられたと
したら,あなたもそんなに気軽に「殺してはならない」とは言えないはずだ(なぜなら,我が身に
置き換えて考える度合いがより強くなるからだ。あなた自身は「自分が同じ立場なら殺して
もらってもよい」と,たぶん考えるだろうから)。
次に,形式面から反論しよう。「もしかしたら本人は,脳死になっても生き続けたいと思って
いるかもしれない。そうであるかないかは,本人でなければわからない。だから,他人が
その人の命を絶つような判断をすることは間違いだ」−という主張には,合理性がある。
この問題は,「安楽死拒否カード」のようなものを作ればかなり解決できる。つまり,「たとえ
脳死状態になっても,生命維持装置を外さないでほしい」という願いを持つ人は,その意志を
登録したカードを持つようにする。そのカードを持たない人は,身内(身内がいないときは医者)
の判断で生命維持装置を外すことに同意したとみなす。現実にはこんな制度を作ったとしても
カードを持つ人はほとんど現れないと思うが,形式的な問題点はクリアできる。ただし,脳死の
意味がわからない幼い子ども(あるいは生まれたときから脳死の子ども)は対象外となるので,
万能ではない。
■「ハート」の問題
上の2つの記事からもわかるとおり,今回の改正案に反対する立場の人々は,基本的に
「自分の子どもが脳死状態になった人」に感情移入している。それ自体は,とても大切なことだ。
他人の痛みを自分の痛みとして想像することは,合理的な判断とは別にあってよい。
しかし,「脳死状態の子どもを持つ親」の気持ちに本当の意味で寄り添うなら,次のような解釈もできるのではないかと思う。
脳死状態の子どもを持つ人の思考の中心は,「子ども」ではなく「自分」である。
つまり,「親である私は,脳死状態のこの子のために何がしてやれるだろうか?」という視点
よりもむしろ,「脳死状態の子を持つ私は,この現実を自分の中でどう受け入れるべきか?」
という視点の方が,親の心の中ではより支配的ではないだろうか。これは,寝たきりの親を
介護をする人などにも当てはまる。
たとえば,生命維持装置を外すかどうかの判断だ。自分の手で身内の「命」を奪うことになる
判断を,気軽に行えるような人はいない。しかし現実には,どこかの時点でそういう判断を
する人が少なくないはずだ。その判断の背景には,当然経済的な理由もあるだろう。
その人は,自分の判断によって亡くなった身内に「今までよく頑張ったね」と言うかもしれない。
そしてその言葉は,図らずも身内よりもむしろ自分に向けられたものであるのかもしれない。
当たり前と言えば当たり前なのだが,「身内の脳死」をどう考え,現実問題としてそれにどう
対処するかは,脳死患者当人ではなく,それを介護する家族の問題である。病気の家族を介護する人が「戦う」相手は,病気(の家族)ではなく,自分自身(の気持ち)だと思う。
非常に失礼な言い方になるが,最初の記事に出て来た,生後すぐに脳死になった子どもを
抱えた母親は,今は「脳死が人の死だとは考えられない」と思っているだろうが,将来は
その子の「命」に見切りをつけねばならない時が来るかもしれない。そのとき彼女が自分で
自分を納得させるには,何かの「理由」を自分で探さねばならない。「死んでいくわが子の臓器が,他の子どもの命を助けるのに役立つ」という思いは,たぶんその理由の1つになる
だろう。ただし,親自身が自覚的にそういう意識を持つ,ということではない。他人から
「あなたの子は死ぬけれど,その子の臓器が他の子の役に立つのですよ」と言われても,
それに「わかりました」と答える親はいないだろう。そういうことではなくて,もっと心の奥の
問題だ。わが子が生まれてから今日までの生き様,その子の(明るい見通しの持てない)
将来,入院に要する費用,自分の体力や気力の限界,周囲の目・・・そういったもろもろの
条件の中で,最終判断を下すために「自分を納得させる」理由付けの1つとして,わが子の
臓器を提供する(できる)ことが,いわば「自分への言い訳」となるだろう,ということだ。
そう考えると,最初の記事にあった母親の
「この子が生きる意志というものを私たちが感じ受け入れて、3人で幸せな生活を送りたい。
そういう時間が許されなくなっていくんじゃないかと、すごく不安です」
という言葉は,「本人が自分の気持ちとどう折り合いをつけるか?」という観点からとらえるべきであり,脳死判定の制度設計の問題と関連づけるべきではないと思う。なぜなら,
この母親の不安は,脳死判定の基準が変わることと直接の因果関係があるわけではない
からだ。「おたくのお子さんは,もう回復しません。一方で,子どものドナーは不足しています。
そろそろ延命に見切りをつけて,臓器を譲ってもらえませんか?」というような圧力を,
たとえば主治医から受けたとしても(常識的にはそんなことはあり得ないが),彼女には
それに従う義務はない。しかし,その言葉を「自分への言い訳」として,生命維持装置を
外す決断を下す自分の「罪の意識」を,少しは軽くすることもできるかもしれない。
そういう意味で,新しい脳死基準は,結果として「脳死の子を持つ親」の精神的葛藤を,
逆に緩和する方向に作用する可能性も十分にある。もっと現実に即して言うなら,親が
自分の口から「この子をもう死なせてやりたい」と言えるはずはない。しかし周囲の人々が,
死後の臓器提供を口実に(親の心理的負担を少しでも減らしてやろうという配慮から)
親に生命維持装置を外す決断を促すケースはあるだろう。
最初の記事にある小倉キャスターの言葉
「親が周囲の人から『いくら頑張っても、もうダメなんだから、それより誰かのお役に立てた
ほうがいいんじゃないか』という話が絶対出てくると思う」
は,そのとおりだ。そういう話は出るだろう。しかしその場合「周囲の人」は,親にとって
よかれと思ってそう言っているはずだ。なぜなら,「誰かのお役」とは自分とは無関係の
誰かであって,その親にそういうアドバイスをしても自分には何の得もないからだ。では
なぜそういうアドバイスをするのかと言えば,それは「その親の得になるから」だろう。
そして親は,周囲の人たちのその気持ちを理解した上で,「最後の決断」を下すだろう。
それでいいんじゃないかと思う。
脳死判定の問題を自分の身に置き換えてまじめに考えれば考えるほど,「脳死は人の死
ではない。心臓が動き続ける限り,命をつなぎとめるべきだ」というたぐいの主張をする人の
「現実への鈍感さ」に対する嫌悪感が募るばかりだ。