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2006/1/4(水) 体罰について〜正しい議論のしかた〜
今日は仕事場に出ているが,まだ正月気分が抜けていないので,普通の仕事に復帰する前に
ちょっとウォーミングアップを兼ねて書く。前に「掲示板荒らし」の話を書いたとき,「この記事は
個人的感想であって,『オレの言うことは正しいだろう,まいったか』と主張するものではない」
と書いた。一方今回の記事は,「オレの言うことは正しいだろう。まいったか」と主張する
ためのものである。
現在,新刊書の構想を練っている。基本的にクイズ形式の本だが,英語とは全く関係ないので,
企画を出しても通るかどうかわからない。これから書くことは,その本のアイデアノートの一部だ。
タイトルはもう決めてあって,「大人のための知能テスト」という。当然のことだが,「著者が常識や
知性だと思うこと」を尋ねるわけだから,著者以上の常識や知性を持つ人には無意味な本である。
さて,今回のタイトルは「体罰について」だが,体罰は単なる議論の素材にすぎない。
言いたいことの本質は,「正しい思考(議論)のモデル」である。
体罰をテーマに選んだのは,「戦争」とか「郵政民営化」なんかよりも,大勢の人にとって身近な
話題であることが1つの理由。もう1つは,このテーマは「割り切った説明」に適しているからである。
前にも書いたが,ぼくは基本的に「世の中は議論では動かない」と思っている。会社だってそうだ。
下から積み上げた議論が,社長の鶴の一言で覆ったりする。しかしそうは言っても,多少でも頭を
使う仕事をする人は,議論が下手なより上手な方がいい。そこでだ。不肖わたくしが,皆さんに
「正しい議論のしかた」をこれからレクチャーしてあげよう,というわけだ。思いっきり偉そうだね。
この記事についての批判は,(議論の土俵であれば)いくらでも受けますよ。「言い草が気に入ら
ない」とかいうのは勘弁してね。なお,以下の説明はたとえば大学の哲学科の先生などから見れば
穴だらけだろうと思うが,あまり複雑に書くと誰にも読んでもらえないと思うので,厳密さをある程度
犠牲にしていることも付記しておく。
まず,次のテーマを提示してみよう。
「体罰は是か非か?」
このテーマを見てあなたの頭に最初に浮かんだのは,どんなことだろうか?
たとえば,「体罰はすべて悪だ」という考えが真っ先に浮かんだ人,いる?まだまだ若いね,キミ。
それは,正しい(合理的な)思考方法ではない。こう聞いて「じゃあオマエは体罰を肯定するのか?」
と思ったキミは,もっとダメ。問題外だ。(言うまでもないが,軽いジョークだよ)
ここからは,マジメな話。「体罰は是か非か?」というテーマで数人が議論のテーブルに着いたする。
さて,一番最初に語るべきことは何か?--- この質問に,ズバリ答えてほしい。
「司会者を決める」とかいうテクニカルな問題ではなく,議論の本質をふまえて考えていただきたい。
正しい思考のしかたが身についている人なら,正解を出すことができるはずだ。
少し考える時間をあげよう。答えが思い浮かんだら,下にある正解を見てもらいたい。
正解:「体罰」および「是非」の定義を決めること。
納得したかな?これ以外の答えは,すべて間違いである。その理由は,最後に改めて説明する。
さて,正解に沿って話を進めよう。便宜上,次のように言葉を定義しておく。
● 体罰否定派=いかなる体罰も認めない,という立場の人
● 体罰容認派=ある種の体罰は認めてもよい,という立場の人
最初に「体罰はすべて悪だ,と真っ先に思った人はダメ」と書いた。なぜダメなのか?
その人の頭の中には,「体罰とはこういうものだ」というイメージがある。しかしそのイメージは,
ほかの人と同じであるとは限らない。これがたとえば「死刑の是非」がテーマなら,死刑を定義
づける必要はない。死刑の定義は,万人にとってほぼ共通だからだ。
さらに言うなら,「是か非か?」という問いかけも,極めてあいまいである。「死刑は是か非か?」
なら,その意味は明白だ。「死刑を法律で認めるか?」と言い換えてよい。一方,「体罰を法律で
認めるか?」という定義は,十分ではない。この答えがノーだとしても,体罰を法律で禁止しさえ
すれば体罰一般の問題がすべて解決するわけではないからだ。
つまりこのテーマは,次の2点を語ることなしには,議論の入り口にすら立てないのである。
@ 「体罰」とは何か?
A 「体罰を是とする」とは,どういう意味か?
では,これらを暫定的に,次のように定義してみよう。
【体罰の定義A】
体罰とは,「何らかの肉体的苦痛を伴う罰」である。
【是非の定義X】
「体罰を是とする」とは,「(ある種の)体罰には教育的な
効果があると考える」ことである。
ここでもまた「教育的な効果とは何か?」という疑問がわくが,それは後述する。とりあえず
常識的な意味で考えてもらってかまわない。
さて,こう定義し直したとき,あなたは「すべての体罰は認められない」すなわち「どんな体罰にも
教育的効果はない」と言えるだろうか?「自信を持ってそう言える」と思った人は,やっぱり何も
わかっていない。わざわざ定義づけたのに,あなたにはその定義が理解できていない。より厳密
に言えば,あなたが「体罰であれ何であれ,そもそも『罰』自体を認めない」という立場に立たない
限り,あなたの確信はすぐに破綻してしまう。それを,これから証明してみせよう。
およそ罰というものには,何らかの苦痛が伴う(そうでなければ罰にならない)。「体罰を認めない」
なら,残る罰は何か?---
そう,「心の罰」である。しかし,「体罰は悪いが心の罰ならよい」と,
軽々しく言ってはいけない。たとえば,「テストで悪い点を取った生徒の氏名を公表する」のは,
体罰ではない。しかし,その罰が生徒自身に与えるダメージは,ハンパなものではない。仮に,
その罰をきっかけに(あるいはその罰を恐れて)その生徒が勉強に励むようになったとしても,
その罰の与え方が正しいとは必ずしも言えないはずである(その理由も後述)。
話がややこしくなるが,もう1つ別の観点から見てみよう。そもそも「肉体的苦痛」とは,殴る蹴る
の暴力によってのみ生まれるものではない。たとえばクラブ活動で顧問の先生が,怠けた生徒に
「罰」としてグラウンドを走らせたとする。これは,生徒に肉体的苦痛を強いている。では,これは
「体罰」なのか?あるいは,母親がつまみ食いをした子供に対して「今日はおやつ抜きよ」と言う
とき,「肉体的苦痛」という定義に従うなら,当然これも体罰になる。さらに言えば,罰とは多くの
場合,肉体と精神の両方の苦痛を伴うものであり(たとえば「廊下に立たされる」という罰は,
肉体的な苦痛よりもむしろ「大勢の前で恥をかいた」という精神的苦痛の方が大きい),
そもそも「肉体」と「心」を区別しようとする発想自体が不自然である。
ここまでの話の中で,何かが見えて来ないだろうか?---
実は,「体罰はすべて悪い」とか「体罰の
すべてが悪いとは思わない」とか賛否を戦わせている人々の頭の中には,それぞれ違った「体罰」
のイメージ,および「是非」の定義があるのだ。「体罰はすべて悪い」という意見は,「自分が(悪い)
体罰と認めるものは,すべて悪い」と言っているにすぎない。要するに「循環論法」だ。逆に「体罰の
中には悪くないものもある」という意見の実質は,「(自分にとって許せる)体罰は,悪くない」と言って
いるのである。そのギャップに目を向けなければ,両者の溝は決して埋まらない。
だからこそ最初に「体罰とは何か」と定義づけようとしたわけだが,ここまでの話で,その「定義づけ」
が思ったほど簡単ではないことが理解してもらえたはずだ。「何らかの肉体的苦痛を伴うものは
すべて体罰である」という定義は,一般人の思い描く「体罰」像とは全く一致していない。
では,「体罰」をどう定義し直せばよいのだろうか?たとえば,こうか?
【体罰の定義B】
体罰とは,「罰として殴る蹴るの暴力を加えること」である。
しかしこれも,厳密ではない。「殴る蹴る」とは,どの程度のことを言うのか?
自分の知っている範囲で,具体例を出してみよう。
中学校の頃,野球部の友人たちはよく顧問の教師から「ケツバット」された,と言っていた。
バットで尻をスパンクされる罰だ。これは「殴る蹴るの体罰」に含めていいだろう。ではその罰は,
「マイナスの教育的効果」を生んだのだろうか?少なくともぼくの目には,そうは映らなかった。
その先生は野球部員だけでなく多くの生徒に慕われていて,ケツバットの罰を受けた部員たちも,
それを恨んだりすることはなかったと思う。一方で,説教オンリーで体罰は加えないけれども,
多くの生徒から疎んじられていた教師もいる。教育的効果うんぬんを言うなら,罰の「形」が問題
なのではなく,その罰が「誰によって与えられるか」の方が,はるかに重要だと言えるだろう。
※「今の学校でそんな形の体罰を加える教師はいない」と思われるかもしれないが,
ケツバットというのは一つの象徴にすぎない。念のため。
ただしこの考え方は,危険な一面も持っている。「信頼関係さえあればどんな体罰も許される」と
いう極端な一般論にたやすく結びついてしまうからだ。この点については後述する。
さて,もう一度,今度は次のような定義を試みてみよう。
【体罰の定義C】
体罰とは,「怒りに任せて衝動的に暴力を加える罰」である。
これこそが,「体罰否定派」の人たちの頭の中にある「体罰」の定義だと思われる。
そして,「体罰容認派」のイメージする体罰は,これとは明らかに違う。そこが,体罰の是非を
論じる際の大きなカギである。たとえば「ケツバット」は,この定義に言う「体罰」には該当しない。
「怒りに任せて衝動的に」行われる罰ではなく,一種の「儀式」だからだ。したがって,体罰を上の
ように定義し直した上で「ケツバットという罰には教育的効果がある」という結論を出したとしても,
賛否どちらの意見とも矛盾しない。(ケツバットは,定義Cで言う「体罰」には含まれないのだから)
以上のことをふまえて,「体罰の是非に関する暫定的な結論」を提示するなら,次のようになる。
怒りに任せて衝動的に暴力を加えるような罰には,教育的効果はない。
それ以外の「肉体的苦痛を伴う罰」は,プラスの教育的効果を持つこともある。
この結論は,世の中の多くの人の支持を得るだろうと予想される。しかし体罰否定派は,この結論
に納得しないだろう。実はこの結論は,それを承知でわざと体罰容認派に有利になるよう誘導した
ものである。どこに「誘導」があるのか? ---
それは,「是非」の定義,すなわち「教育的効果」という
部分である。体罰否定派の人々が彼らの言う「体罰」を否定するのは,その罰に教育的効果がない
からではなく,体罰を受けた側のダメージの大きさを問題視しているのだ。つまり,「体罰」に加えて
「是非」の定義も,否定派と容認派との間で食い違っているのである。否定派による是非の
定義とは,こうだ。
【是非の定義Y】
「体罰を是とする」とは,「体罰が生み出す本人へのダメージ
を無視する」ことである。
結局,両派の主張は次のようにまとめることができる。
●
体罰否定派の主張=体罰の定義C+是非の定義Y
「『怒りに任せて衝動的に暴力を加える罰』がすべて悪いのは,本人が(常に)
心身にダメージを受けるからだ」
●
体罰容認派の主張=体罰の定義A+是非の定義X
「ある種の『肉体的苦痛を伴う罰」を認めてよいのは,その罰が本人にとって
プラスの教育的効果を持つことがあるからだ」
この説明によって,何がわかったか?考えてみてくれ。今度は答えられるだろ?
そう。こういうことだ。
体罰否定派と容認派の意見は,対立してはいない。
両者の主張は,「一方を肯定すれば必然的にもう一方を否定することになる」という関係にはない。
一見「賛否両論を戦わせている」ように見える議論だが,実はそうではなかったのだ。
冷静に考えれば理解できるはずだが,熱くなってしまうと「議論がかみ合っていない」という
ネガティブな評価をしがちなものである。そんなふうにシニカルになる必要はない。
「否定派も容認派も両方正しい」と言っても,全然かまわないのである。
両者の主張を正しいとした上で,「体罰は是か非か?」という議論の最終的な結論を,一般常識に沿う
形で簡潔に表現するなら,次のようになるだろう。
「体罰論争」の合理的結論
「肉体的苦痛を伴う罰」のすべてが悪いとは言えない。
ただし,衝動的に暴力を加える体罰は,すべて悪である。
ここまでが,「体罰の是非に関する議論」を例にとった,正しい物の考え方の一般的解説である。
読み疲れたかもしれないので,以下の説明は興味のある人だけ読んでくれ。
【補記1】
〜さらに理屈を言うならば〜
上に最後に挙げた反対派と容認派の主張を純粋に理屈の上だけで比較すれば,否定派の方が
圧倒的に不利である。記号論理学の練習問題と思えばよい。
次の例を比べてみよう。(A)が否定派,(B)が容認派の主張に対応している。
(A)「すべてのネコは魚が好きだ。」
(B)「ある種のネコは魚が嫌いだ。」
この2つの命題のうち,より「証明しやすい」のはどちらか? --- もちろん,(B)である。なぜなら(B)を
証明するためには,魚が嫌いなネコを一匹連れて来るだけでよい。一方(A)を証明しようと思えば,
すべてのネコをチェックしなければならない。この理屈を体罰に当てはめるならば,容認派は「体罰
がプラスの効果を持った例」を1つ挙げさえすれば,自説の正しさを証明できる。一方否定派は,
過去に行われたすべての「体罰」をチェックし,そのすべてが本人にダメージを与えたという事実を
証明しなければならない。これは現実には不可能である。もっとも,「怒りに任せた暴力が本人の
心身にダメージを全く与えない」ということは常識的に言ってあり得ないので,反対派の意見にも
特に違和感はないだろう。
ただし,1つ注意しておかねばならないことがある。それは,「暴力」という言葉の意味である。
体罰の定義Cにおいては「怒りに任せて衝動的に暴力を加える罰」と表現しているが,この言い方
自体がネガティブな意味を既に含んでいる。「犯罪」や「ワイロ」などと同様,「暴力」という言葉も,
それ自体の中に「悪いこと」というニュアンスがある。したがって反対派の主張は,「悪い体罰は悪い」
と言っているのに近い。「女優はすべて女である」と言うようなもので,情報的価値がほとんどない。
これは,反対派による「体罰」の定義が,一般人の考える定義よりも意味を限定しすぎていることに
よる。「『ケツバット』のような罰も,一般的には体罰に含まれる。だから容認派の勝ちだ」と判断する
人も大勢いるはずだ。このようなとらえ方が,体罰の是非に関する世論調査などにおいて容認派が
一定の割合を占めることの背景にあると考えられる。その調査結果をもって「世間の人は体罰の
罪の深さに対する理解度が低い」と断じるのは,底の浅い発想である(責めるべきは世論調査の
質問方法である)。繰り返すが,反対派と容認派とでは,「体罰」という言葉の意味が違うのだから。
冒頭の質問(議論の最初に語るべきことは何か?)の正解が「『体罰』と『是非』の定義を決めること」
であったことの理由が,これで理解してもらえたのではないかと思う。
「怒りに任せた説教」が,本人にプラスであるはずがない。体のダメージはなくても,心は傷つく
はずだ。母親がヒステリックに子供を叱り付ける場面を思い浮かべればわかるだろう。
ここでようやく,「体罰問題」の本質が見えてくる。要するに体罰論議において重視すべきは,
「体」ではなく「罰」の方なのである。「言葉の暴力」という言い方からもわかるように,単に
体に物理的な力を加えなければそれでよい,というものではないのだ。
そもそも,「体罰は悪い」という言い方は,「じゃあ,どうすればいいの?」という疑問には答えて
くれない。その疑問とは,こういうものだ。
「罰の正しい与え方」とは,どんなものか?
これを考えるプロセスの中で,まず次の問いかけが生まれる。
「罰の効果とは何か?」
ここで言う効果とは,プラスの効果だけでなくマイナスの効果も含む。罰にはしばしば両方の
効果が伴う。両者が相殺してゼロになることもあるだろうし,「プラスの効果もあるが,それ
よりもマイナスの効果の方が大きい」場合もあるだろう。この観点から,罰の効果を次の
4点に集約してみよう。
●
罰の「プラス効果」 = @ 管理効果 / A
教育効果
●
罰の「マイナス効果」 = B 体へのダメージ / C
心へのダメージ
プラス効果について,少し補足説明しておく。罰には「好ましくない行動を抑止する」という
効果がある。たとえば「万引きした生徒は退学とする」という罰は,万引きという悪行の防止に
つながる。また,その罰を与える側と受ける側との力関係が明確になる,という側面もある。
罰によって(悪く言えば)脅迫することによって,教師は生徒に対して,親は子供に対して,
法は市民に対して,「管理する側とされる側」という共通理解を増進させる。罰の持つこうした
(プラスの)効果を,ここでは便宜的に「管理効果」と呼んでみた。次に,罰のもう1つのプラス
の効果(教育効果)については,たとえば叱られた子供は,その時点では叱った相手を恨む
かもしれない。しかし後になって振り返ると,叱られたことが自分のためになったことを理解し,
叱ってくれた人に感謝することもある。このとき,その罰には「教育効果」があったと言える。
もしもこの4つを点数化して表すことができれば,すべての罰の「効果の度合い」を査定する
ことができるだろう。たとえば,次のように。
罰の種類
|
@管理効果
|
A教育効果
|
B体へのダメージ
|
C心へのダメージ
|
合計
|
ケツバット
|
+5点
|
+3点
|
−5点
|
0点
|
+3点
|
怒りに任せた衝動的な説教
|
+3点
|
0点
|
0点
|
−5点
|
−2点
|
数字はもちろんダミーだが,このような査定が理屈の上では可能である。この例では,
「トータルの効果で考えると,ケツバットはプラスであり,衝動的な説教はマイナスだ」となる。
(もちろんケツバットも度が過ぎれば,B(体へのダメージ)のマイナスポイントが大きくなり,
トータルでマイナスになることはあり得る)
これは,世間の多くの人の常識的な感覚に近いのではないだろうか?
ここでは机上の理屈だけを語っているように響くだろうが,実際はどんな罰であれ,与える
側はこうした「プラス効果とマイナス効果」を頭の中で計算した上で行動しているはずだ。
「衝動的な罰」にはそうした計算は当然含まれないので,好ましくないと言ってよい。
そのように考えていくと,「やってはいけない罰」の条件,逆に言えば「正しい罰」の条件が,
少しずつ見えてくる。それを,次のようにまとめてみよう。
最終結論:「正しい罰」の必要条件
@
衝動的に与えるものではないこと。
A
与える側と受ける側との間に信頼関係があること。
B
大勢の前で恥をかかせないこと。
C
その他,方法が社会的な許容範囲に収まっていること。
これら4つの条件のうちどれか1つにでも抵触する罰は,「好ましくない罰」と言える。
(ただし,4つの条件をすべて満たしているからといって,好ましい罰であるとは厳密には
言えない。少なくともマイナスの効果はないだろうが,プラスの効果もない場合もあるので)
Bの条件は広い意味ではCに含まれるが,あえて独立させた。
「大勢の前で恥をかかせるような罰」は,絶対に認めるべきではないと思うからだ。
理由は説明するまでもあるまい。あなたにも,経験があるのではないだろうか?
最初の方で挙げた「テストで赤点を取った者は氏名を公表する」という罰が許されないのは,
このBの条件に抵触するからである。また,「愛があればどんな体罰でも許される」という
発想は,限度を越えればCの条件に引っ掛かるのでアウトとなる。
Aの条件も,無視できない重要な要素である。たとえば教師が軽く生徒の手をつかんだ
だけで「センセイ,それは体罰(セクハラ)じゃないん?教育委員会に訴えちゃるでえ」と
言われるような人間関係の下では,体罰だろうと説教だろうと本人の心には届かない。
この4つの条件では,基本的に「体と心」を区別していない点に注意してもらいたい。
これが,「体罰論の本質は『体』ではなく『罰』の方にある」ということの意味である。
試しに,あなたの頭の中に,いくつかの形の「罰」を思い浮かべていただきたい。
肉体的苦痛を伴うかどうかは問わない。それらの罰の中に,「上の4条件を満たしている
けれども好ましくない罰」,あるいは「上の4条件のどれかを満たしていないけれども好ま
しい罰」というものが,あっただろうか?もしもそうした例を思い浮かべることができたなら,
上の説明は間違いということになる。すまん。逆にそうした例が思い浮かばないとしたら,
上に挙げた条件の妥当性が実感できるはずだ。
以上で,「体罰」論議のすべての説明を終わる。さて,あなたはこれを読んで,何を感じた
だろうか?ここで最も言いたかったことは,「体罰は是か非か?」という問いかけを見た
瞬間に,そこに含まれる「あいまいさ」を感知できる思考回路を作り上げることが,
議論上手になるための大切なプロセスである,ということである。テーマを見た瞬間に
各人が「衝動的に」賛否どちらかの立場を選び,その立場をテコでも変えない,というの
では,知的な議論が成り立つはずもない。議論の目的はさまざまだが,「相手を論破する
こと」がすべてではない。話し合いを通じて共通理解を深めるための議論もある。
何が何でも自分の主張を相手に認めさせたいのなら,話し合いなどという生ぬるい方法
ではなく,懇願でも脅迫でも談合でも金銭授受でも,法に触れない範囲でもっと現実的な
方法を使えばよい。冷静に物を考え,合理的な結論を見つけよう,という姿勢で議論に
臨みたければ,ここで説明したような「言葉の意味をはっきりさせる」という習慣を身に
つけることが,非常に大切なことである。
こういう感じの内容を含む本を,今書こうとしているところだ。
興味のある人は,出たら買ってくれ(いつになるかはわからんが)。
おっと。8時から書き始めて,もう昼だ。まるまる4時間かかった。
午後からは仕事に復帰して,頭を使わん手作業でもするか。