最終更新日: 2011/6/18
雑記帳 (その他編-10)
これは何かと申しますと・・・
中国新聞が「中国短編文学賞」というのを主催していて,毎年作品を募集している。
去年何気なく最優秀作(新聞の紙面で丸1ページ分)を読んだら,これくらいなら自分にも書けるんじゃ
なかろうか?と思って,今年の正月休み前後に,のべ7〜8時間くらいかけて,短編小説を書いてみた。
もちろん賞は取れなかったが,せっかく書いたのでここに出しておこうと思う。
できたら,下の作品を読む前に,2011年度の受賞作品を読んでもらえたらいいですね。
http://www.chugoku-np.co.jp/prf/tanpen/43/index.html
実は正月明けに作品を郵送した後,送ったことさえすっかり忘れていた。仕事がら,1つの原稿を
出したら次の原稿に頭を切り替えねばならないので。ふつうはしばらくしてから著者校正用のゲラが
届いて,「ああ,この原稿3か月ほど前に出したなあ」と思い出すが,この場合はそういうこともないし。
5月の中ごろに新聞に受賞作品が載ったが,その頃には仕事が多忙を極めていて,最優秀賞に
選ばれた作品(上のURLを参照)しか読まなかった。その感想を言うと・・・よくわからない。
その「よくわからなさ」をたとえて言うと,子どもが懐石料理を食っているようなものだ。料理としての
質は高いのだが,食べる側の味覚が発達してないので,「カレーやラーメンの方がうまいじゃん」と
思うわけだ。そういう人間が料理を作れば,インスタントのカレーやラーメンしかできるはずがない。
こちとら,今までに読んだ小説の数は,中学の頃に読書感想文を書くために強制的に読まされた
「十五少年漂流記」や「坊ちゃん」を入れても,数十冊くらいしかないのだよ。「もしドラ」でさえ,
本屋で最初の数ページを立ち読みしただけで「文学臭」に嫌気がさして買わなかったくらいだ。
このHPには時々料理の写真も出しているが,料理の腕を自慢したいわけではもちろんない。
あんな料理が自慢の種になるわけないしね。せっかく作ったので,ちょっと見てもらおうか,
というだけだ。下の作品もそれと同レベルなので,プロの小説を読むような目では読まないで
くださいね。単なる遊びです。自分では気に入ってますよ。自分らしいなあ・・・ということで。
思った以上に時間もかかったし,こういうものを書くことはもう二度とないと思いますが。
創作短編小説 〜時をかける少女〜
さっちゃんは今日も、ベッドの窓から尾道水道を眺めています。自宅のこの部屋と病院、部屋から見える景色、
それに優しい家族が、さっちゃんの世界のすべてです。さっちゃんは病気になってしまい、お家と病院の外に
出ることはできないのです。
さっちゃんの家は急な斜面の高台にあり、一階にあるさっちゃんのお部屋の窓からも、水道に面した尾道の町並みと、対岸の向島を見渡すことができます。一階にはもう二つの部屋があります。一つはリビング
キッチン、もう一つはお父さんとお母さんの部屋です。二階にも部屋がありますが、さっちゃんには誰の
部屋なのかよくわかりません。
さっちゃんの部屋にあるものは、ベッドとテレビ、古いビデオデッキ、大きなガラス戸棚、小さな鏡台、それにポータプルトイレ。壁には何枚かの絵が掛けられ、ガラス戸棚にはアルバムやお人形などに
混じって、お父さんのウイスキーも入っています。
今日は日曜日。勇人さんの仕事もお休みです。いつもの日曜日は朝寝坊する勇人さんですが、今日は
朝から忙しそうです。
「もしもし。わしじゃが。今から出るわ。そっちへは9時半ごろ着くじゃろう。はい、はい。ほいじゃ、また後で」
「大樹さん、具合はどんなん?」
「足の骨が折れとるかもしれんので、今MRIを撮りよるそうな。みいちゃんを連れに行って、昼ごろ帰るわ。昼はうちで一緒に食べさそう」
同じ町内に住むみいちゃんのお父さんが、けさ車の追突事故にあって入院し、お母さんは今夜は付き添いで病院にお泊りです。それで、みいちゃんは今晩、勇人さんの家に預けられることになったのです。
勇人さんは朝食を終えると、車で出かけて行きました。奈々さんは、部屋の掃除と溜まった洗濯で忙しそうです。
ひととおりの仕事を終え、奈々さんはさっちゃんの朝ごはんを二階へ運びました。今日の朝食は、卵かけごはん、豆腐とワカメのお味噌汁、海苔、漬物と、さっちゃんの大好きなプリンです。
さっちゃんは、お母さんに手伝ってもらってベッドから体を起こし、窓から見える景色を見ながら、ゆっくり
朝ご飯を食べました。空には春霞がかかり、千光寺公園の桜もほころび始めています。
尾道水道を大小の船が行き交い、対岸の向島には造船所のクレーンが見えます。
その向こうの山の上にリゾートホテルが建設されていて、今年の夏ごろオープンするのだそうです。
お昼ごろ、勇人さんがみいちゃんを連れて帰って来ました。
「病院でみいちゃんを預かってから、一緒に福山の中古ビデオ屋を回って、やっとこさ見つけて来たで」
勇人さんが持ち帰ったのは、一本の古いビデオテープでした。「時をかける少女」というタイトルが入っています。さっちゃんはこのビデオをずっと前から見たがっていましたが、尾道のレンタルショップでは手に入らなかったのです。
「あんたあ、この映画、見たことあるか?」
勇人さんが奈々さんに尋ねます。
「いいや、名前だけは聞いたことがある気もするけど」
「わしも見たことはないんじゃが、監督の大林宣彦いう人は尾道の出身じゃそうな。ほれ、駅の東の方に記念館があろうが」
そう言われても、大阪生まれの奈々さんにはよくわかりません。
「そんな有名な監督の映画なら、どこにでも置いてあるやろ。それに、今はネットやテレビで昔の映画でも手に入るのに」
「ディスクに入った映画ならどこにでも置いてあるけどな。あの部屋の古いビデオデッキで見られるビデオとなると、尾道じゅう探しても見当たらんかった。ずっと前から見たい言うとったけ、喜ぶじゃろう。すぐ見せてやろうか?」
「さっき朝ご飯を食べて、今は寝とるんよ。夕飯の後にでもしたら?」
「そうじゃな。今日はみいちゃんもおるし、皆で一緒に夕飯を食べてから、ゆっくり見せちゃるか。全部いっぺんには見られんじゃろうが」
夫婦が話している間、さっちゃんはベッドで夢を見ていました。夢の中のさっちゃんは、どこかの浜辺にいます。見覚えのある景色のような気がします。でも、尾道や因島ではなさそうです。外国でしょうか。
遠浅の白い砂浜が広がる海岸沿いには、きれいなホテルが並んで建っています。
さっちゃんはその浜辺でビーチパラソルの下に座り、ハンバーガーを食べています。
さっちゃんの横には、男の人が座っています。さっちゃんは、この人と結婚するのでしょうか。
でも、その夢には続きがなく、テレビのチャンネルのように場面が切り替わります。
次の場面は、小学校に上がって間もない頃のさっちゃんです。隣にはみいちゃんがいます。
二人はいつも一緒に遊んでいました。
「みいちゃん、マンガ好き?」
「うん、大好きよ。さっちゃんは?」
「うちも」
「美紀はねえ、大人になったらマンガ家になりたいんよ。さっちゃんは?」
「うちは、結婚して、サザエさんみたいな家に住みたいわ」
さっちゃんは、アニメも大好きです。アニメを見ていると、自分がヒロインになったような気がします。マンガやアニメの世界に入って、魔法を使ったり空を飛んだりできたらどんなに素敵でしょう。
さっちゃんは小さい頃から、空想好きな女の子でした。
大林宣彦監督の映画「時をかける少女」を、さっちゃんは前から見たがっていました。なぜ見たいのかは、自分でもよくわかりません。でも、この映画のタイトルと大林信彦監督の名前をはっきり覚えていて、ビデオを
借りてきてほしいとお父さんに以前から頼んでいたのです。もしかしたら、この映画をリメイクしたアニメ映画を
見たことがあるのかもしれません。お話の内容は、尾道の街を舞台にした、時間を越えて旅をする能力を
持った少女の恋物語です。
今は街並みもずいぶん変わりましたが、生まれ育った尾道の街の風景が、さっちゃんは大好きでした。山陽本線の北側の斜面に張り付くように並んだ小さな家々。海岸沿いに雑然と立ち並ぶ、昔ながらの
乾物屋や定食屋。駅前のフェリー乗り場から因島や瀬戸田へ向けて出て行く定期船。尾道と向島を結ぶ
渡船から降りてくるたくさんの人や自転車。住吉神社の花火。まだ元気だった幼い頃に見た尾道の街を、
さっちゃんは夢の中で何度遊び回ったことでしょう。
お昼ごろ、勇人さんの妹の桜おばさんが、さっちゃんの家に立ち寄りました。
「みいちゃん、お父さん大変じゃったね。兄ちゃん、大樹さんどうじゃった?」
「まだ検査の結果が出とらんけど、思うたより元気そうじゃ。半月かそこらで退院できるんじゃないか」
さっちゃんが眠っていたので、勇人さん、奈々さん、桜おばさん、みいちゃんは、四人で一緒にお昼ご飯を食べました。ご飯の後、みいちゃんは桜おばさんの手作りのおはぎもごちそうになりました。
「ここのテレビ、いつ見ても大画面じゃねえ」桜おばさんがテレビを見ながら勇人さんに言いました。
「テレビは立派になったし、いろんな機能も増えたけど、わしらにゃ使い方がようわからんわ。それに、番組の内容も最近は面白うないしのう」
「まあ、あんまり明るいニュースはないわなあ。介護保険料もまた上がるらしいし」
「わしらの年金も、いよいよどうなるかわからんで」
「兄ちゃんとこは貯金があるじゃない。うちは年取って一人になっても、お金がないけん老人ホームへも入れんわ」
「お前には家があるじゃろう。ホームへ入らんでもええじゃないか」
「うちの家、もう築百年が近いんよ。あちこち補修したけど、もう限界じゃわいね。うちが寝たきりになるまで持つわけないわ」
「自分が生まれ育った家に住めるんじゃけ、幸せなもんじゃないか。広い家を一人で使えるし」
「その分、掃除が大変よ。去年の大掃除で、また古い本やらビデオやら出てきたよ。段ボール一箱くらいあるけど、取りに来る?」
「いらん、いらん。それでのうてもこの家は物があふれかえって、狭苦しゅうてかなわんのに」
「そりゃあ、昔のいらん物を、何でも捨てずに取っとくけんよ。二階のお母ちゃんの部屋も、ちょっと整理した方がええんじゃない?」
「そうは言うてもなあ。古着やら何やら山ほどあって、一日や二日じゃ掃除できんで。どれを捨てたらええんかわからんし」
「いっぺんに大量にゴミを出したら怒られるしなあ。それに、今ごろはゴミの分別もますます細こうなったし」
「ビデオテープなんか、もう分別のリストにも載っとらんわい」
「そう言やあ」奈々さんが言いました。
「こないだ市役所の人が来て、今年も誕生日に記念品をくれるらしいよ」
「どうせ、またバスタオルじゃろ?もうちょっとええ物をくれんかのう」
「予算がないんじゃろ。年寄りは増える一方じゃし。いらんのなら、うちがもろうて帰るわ」
桜おばさんは二階に上がり、奥の部屋へ入りました。その部屋にはベッドとタンスと化粧台、それにプラスチックの衣装ケースがありました。その上に、「記念品 小林美沙緒様 尾道市」と書かれた小さな紙製のケースがいくつも
積み上げられていました。桜さんはその中からタオルを何枚か抜き出して袋に入れ、一階へ降りて行きました。
さっちゃんは、夢の中でお葬式に参列しています。黒い服を着た人たちは、みんな泣いています。さっちゃんも泣いています。死んだのは誰だったのでしょう。それとも、これは未来に起こることなのでしょうか。
さっちゃんの夢は、時も空間も飛び越えて広がります。さっちゃんは今、お母さんと一緒にお弁当を作っています。今日は運動会。さっちゃんはサザエさんです。マスオさんに似たご主人の車にお父さんとお母さんを乗せて
小学校の校庭へ行くと、カツオくんとワカメちゃんに似た二人の子供が、元気にかけっこや綱引きをしていました。
子どもたちの歓声は、抜けるように青い秋の空に吸い込まれていきました。
また場面が変わりました。さっちゃんは映画を見ています。「時をかける少女」。この映画が作られた頃には、さっちゃんはまだ生まれていません。でも、さっちゃんはこの映画をよく知っています。三十席ほどしかない
小さな映画館でした。横には誰かが座っていました。
今度の場面では、さっちゃんは赤ん坊を抱いています。男の子のようです。「はっちゃん」「はっちゃん」と言っています。どこかのアニメで見た場面でしょうか。それとも、将来さっちゃんに、はっちゃんという名前の
男の子が生まれるのでしょうか。
さっちゃんは、幼ななじみの美紀ちゃんといつも一緒でした。二人は同じ町内に住み、同じ幼稚園に通い、ピアノ教室も書道教室も同じでした。春にはお父さんの実家がある向島の畑で、美紀ちゃんと一緒に
レンゲを摘みました。ツクシ取りもしました。夏になると、家族ぐるみで一緒に海水浴に行きました。
向島の立花海岸で美紀ちゃんと一緒に泳ぎ、夜には花火をしました。秋には二人でさっちゃんの家の庭に
舞い落ちた枯れ葉をかき集め、お父さんが持って来てくれた籾殻と一緒に燃やして、焼き芋を作って
食べました。お正月にはきれいな着物を着て、神社へお参りをしてお雑煮を食べました。
ある年の夏祭りの日に、浴衣を着た二人は一緒に金魚すくいをしました。わたあめやミルクセーキも食べました。赤い金魚と黒い金魚を一匹ずつ持ち帰って、金魚鉢に入れてあげました。でも、黒い金魚は翌日には死んで
いて、赤い金魚もその数日後に死んでしまいました。夢の中なのに、さっちゃんはなぜだか涙が出てきました。
さっちゃんは大きな紙に絵を描いています。さっちゃんはマンガの絵をまねて描くのが大好きでした。でも、今描いているのは別の絵です。友だちと一緒です。みんなで大きな絵を描いています。どんな絵なのかは
よくわかりません。さっちゃんは大きな筆を持ち、墨汁で手は真っ黒です。この場面は、さっちゃんの夢の中に
何度も出てきました。この夢を見るたびに、さっちゃんは体が熱くなるのを感じるのでした。
さっちゃんの夢の中に、男の人が出てきました。さっちゃんはその人に寄り添っています。お父さんでしょうか。その人の熱い胸の鼓動が伝わります。さっちゃんは小さな掌をその人の掌に重ねます。その人の節くれだった指を、
さっちゃんの小さな手が撫で回します。その人の大きな手が、さっちゃんの頭を撫でてくれます。
さっちゃんが今までに一番たくさん見た夢は、お母さんの夢です。お母さんは、いつも働いています。さっちゃんのお弁当を作るお母さん。さっちゃんの制服を繕うお母さん。洗濯物を干すお母さん。
お父さんに叱られて泣いているお母さん。さっちゃんを優しく抱いてくれるお母さん。ああ、お母さん。お母さん。
お昼ご飯の片付けを終え、桜おばさんは帰って行きました。勇人さんは、一階の居間に面した庭で、植木の手入れをしています。奈々さんは、みいちゃんを連れて駅の近くのスーパーへ夕食の買い物に行き、夕方から
ご飯の支度を始めました。みいちゃんは少し疲れたので、リビングのソファの上で眠りました。
みいちゃんが目覚めると、外は薄暗くなっていました。時計の針は6時を過ぎたところです。夕ご飯の支度がもうすぐできそうです。
「となりの部屋へ行ってもええ?」
みいちゃんは奈々さんに言いました。
「ええよ。散らかっとるかもしれんから、足元に気をつけてね」
みいちゃんがさっちゃんの部屋に入るのは、これが初めてでした。さっちゃんはまだ眠っていました。さっちゃんを起こさないように静かに部屋に入ったみいちゃんは、ガラス戸棚のウイスキーの瓶の隣に、
小さなトロフィーを見つけました。その横の写真立てには、数人の若い男女がVサインをして写っていました。
「夕飯の支度ができたで」勇人さんがみいちゃんとさっちゃんを呼びに来ました。勇人さんは目を覚ましたさっちゃんを抱き起こし、リビングへ連れて行きました。
今晩の夕食は、アマテガレイの煮付け、ハンバーグ、野菜サラダ、お味噌汁でした。尾道で生まれ育ったさっちゃんは、地元で取れた美味しいお魚が大好きです。でも最近は体の調子があまりよくないので、
たくさんは食べられません。奈々さんに、ご飯を少しと、お魚と、お味噌汁を食べさせてもらいました。
みんなで食事をしながら、勇人さんがみいちゃんに言いました。
「みいちゃん、寂しかろうが、一晩辛抱せいよ。明日はお母さんが迎えに来るで」
「みいちゃん、今日は学校で何があったん?」と奈々さんが言いました。
「あのね。ブラジルの子がうちのクラスへ転校してきてね。すっごいカッコええ男の子なんよ」
「今ごろはこのへんにも、いろんな国の人が増えてきたもんねえ。うちの近所にも中国の人やらフィリピンの人やら住んどるよ」
「ほいでね、来週の土曜日に、うちの小学校の卒業生のマンガ家が、学校へ来てお話ししてくれるんよ」
「へえ、そりゃあええね。みいちゃん、その人知っとるん?」
「ううん。名前は聞いたことなかったけど、東京で仕事しとる有名な女の人らしいよ」
「みいちゃんも、やっぱりマンガが好きなんか?」
「大好き!うち、大きゅうなったらマンガ家になるんよ」
「ほうか、ほうか」
勇人さんはとても嬉しそうです。さっちゃんは、にこにこしながらみいちゃんの話を聞いています。さっちゃんは今は学校へ行けませんが、みいちゃんの話す学校の話が大好きでした。
夕ご飯が終わって、勇人さんはみいちゃんにお風呂に入るように言い、さっちゃんを隣の部屋へ連れて行きました。ベッドに横になったさっちゃんに、勇人さんが言いました。「大林監督の『時をかける少女』、
見つけたで。見るか?」
さっちゃんがうなずいたので、勇人さんはビデオの電源を入れ、テープをデッキに入れました。映画が始まり、今はもう消えてしまった尾道の街の風景が映し出されます。さっちゃんはじっと見ていましたが、
そのうち目からぽろぽろと涙が出てきました。それを見た勇人さんも泣いていました。
そのうち、さっちゃんはうとうとし始めました。さっちゃんが寝付いたのを見届け、テーブルへ戻った勇人さんは、奈々さんの入れてくれたお茶を飲みました。
「ビデオ、見たん?」
「ああ。途中で寝たけどな。泣いとったで」
「昔のことを思い出したんじゃろ」
「そうじゃろうて。大林宣彦の名前だけは、今でも覚えとるらしい」
「みいちゃん、そろそろお風呂から上がるけど、どこで寝かす?」
「あの部屋で寝かすわけにはいかんじゃろ。お前の隣に布団を敷いてやってくれ。今日はいろいろあって、くたびれとろう。早う寝かしてやれや」
「それにしても、血は争えんね。美樹ちゃん、マンガ家になるんやて」
「ほんまよのう。あの子のひいばあさんも子供の頃からマンガやアニメが大好きで、高校生の頃はマンガ同好会やらに入っとったらしいで」
「今ならどこの高校にもマンガ部があるけど、当時は珍しかったろうね。それにしても、さっちゃん、最近は寝てばっかりやね」
「あんたも、その呼び方に慣れてきたのう」
「しょうがないわ。お義母さんて言わなあかんのやろうけど、本人がうちらを自分の親と思い込んでるんやろ」
「そうよ。わしの子は大樹だけじゃったのに、六十を過ぎて娘ができたわい」
「でも、お義母さん、名前は美紗緒やろ?なんで『さっちゃん』なん?」
「小さい頃の呼び名は『みいちゃん』じゃったらしいで。幼稚園の頃に仲良しの子ができてな。たまたま向こうも『みいちゃん』じゃったもんで紛らわしいいうて、ばあさんの呼び名は『みさっちゃん』になって、結局
『さっちゃん』に落ち着いたそうな」
「ひ孫の美樹ちゃんのことを、自分の昔の友達と思い込むのも当然やわ」
「美樹ちゃんも『みいちゃん』じゃけな」
「あんたも年取ったら、自分のことを『はっちゃん』て呼ぶんかね」
「そうかもしれんな。美樹ちゃんの子供にゃ、『ナナ』以外の名前をつけてもらわんとな」
「そうそう、今日の夕方に、また市役所の人が来たよ。今年はお義母さんの九十五歳の誕生日やから、タオルのほかに特別な記念品をくれるって」
「あと五年生きたら、ばあさんが尾道最後の昭和生まれになるかもしれん。そしたら表彰状が出るんじゃないか」
もうすぐ九十五歳になる昭和六十三年生まれのさっちゃんは、お部屋の窓から見える海を眺め、夢を見ながら一日を過ごします。さっちゃんの体はもうほとんど動きませんが、夢の中ではどこにでも行くことができます。
幼ななじみの美紀ちゃんと一緒に、海や畑で遊んだ楽しい日々。高校時代に、マンガ同好会のキャプテンとして、
みんなと一緒に出場した全国大会。そこで優秀賞に選ばれ、生涯でただ一度もらったトロフィー。初めての
デートの日に尾道駅前の映画館で見た、リバイバル上映された大林宣彦監督の「時をかける少女」。
新婚旅行で行った美しいハワイの海。優しいご主人。今は娘の桜さんが住む実家に三世代が同居して過ごした、
平凡で幸福な日々。優しかったお父さん。そして、お母さん。さっちゃんは明日もまた、時を駆ける旅に出るのです。 (おわり)
※人間関係がよくわからなかった方は,下をごらんください。
〈親子関係〉 小林美紗緒(さっちゃん) ―― 勇人(はやと) ―― 大樹(ひろき) ―― 美樹(みき)
〈その他の人物〉 奈々(なな)〈勇人の妻〉 / 桜(さくら)〈勇人の妹〉 / 美紀(みき)〈美紗緒の幼なじみ〉