辞書の定義からもわかるとおり,議論とは「意見を出し合うこと」である。
しかし一口に議論と言っても,「原発をどう思うか?」のような硬いテーマのものも
あれば,「カープは今年何位になるじゃろうか?」のような日常的な内容のものもある。
ここでは,あらゆる議論をいくつかのタイプに分類してみようと思う。
「議論」は,次の2つの軸によって分類することができる。
(1) 「私的な議論」と「公的な議論」
(2) 「結論を出すことが目的の議論」と「語ること自体が目的の議論」
(1)の「私的」と「公的」の境目は,議論に参加する人々の関係で決まる。
ここでは,親しい人(家族・友人など)との議論を「私的」,それ以外の人
(あまり親しくない会社の同僚や隣人・全くの他人など)との議論を「公的」
なものと考える。
以上から,議論には次の4種類があることになる。
|
私的な議論 |
公的な議論 |
結論を出すことが目的の議論 |
A |
B |
語ること自体が目的の議論 |
C |
D |
※「結論を出すことが目的だが,議論をしても決まらなかった」ような場合も,
A・Bのタイプとする。また,狭い意味での「議論」とはA・Bであり,C・Dは
単なる「雑談」と言ってもよいが,ここではC・Dも議論に含めて考える。
A〜Dの具体例は,次のようなものである。
(A) 友人同士で行う忘年会の場所を決めるための話し合い
(B) 町内会やPTAの役員を決めるための話し合い
(C) 特定のテーマ(例:好きな食べ物)に関する,家族や友人との会話
(D) 特定のテーマ(例:カープの応援)に関する,ネットの掲示板
A・Bの議論によって得られた結論には,次の2種類がある。
@関係者に何らかの行動や制約を求める(強制力を持つ)。
A関係者に何の行動や制約も求めない(強制力を持たない)。
この基準によって,A・Bをさらに分類することができる。
(1)+@の例:友人同士で行う忘年会の場所を決めるための話し合い
(1)+Aの例:?(適当な例が思い浮かばない)
(2)+@の例:町内会やPTAの役員を決めるための話し合い
(2)+Aの例:ネット上の「日本一歌のうまい女性歌手は誰か?」という投票
(1)+Aがなかなか考えづらいのは,「結論を出すために行う仲間内の議論」は
たいていの場合何らかの強制力を持つから。たとえば家族で旅行の行き先を
決める場合,決まったら全員がその決定に従うことになる。なお,「強制力」には
程度の差があり,たとえば町内会の役員を拒否することは原則としてできないが,
仲間内の忘年会なら「出席しない」という選択肢もありうる。一般に,公的な議論の
結論は強制力が強く,私的な議論の結論は強制力が弱いと言える。
最後に,これまで述べてきたことをふまえて,「議論を混乱させる(議論を成り
立たなくする)要因」と,それにまつわる諸問題を列挙してみたい。
以下の内容が本稿の中心と言ってもよい。
@「私的な議論」と「公的な議論」との混乱
公的な議論か私的な議論かに関して,たとえば次のようなことが起こる。
親しい5人の仲間が忘年会の場所を決めることになった。ここで仲間の
1人が「友達を誘っていい?」と言い出し,結局お互いの友人を含めて
総勢8人になった。この時点で議論は私的なものから公的なものへと
変わったと解釈する人は,「ゲストの都合も考えよう(交通の便や費用
など)」と言うかもしれない。一方「これはあくまで私らの忘年会だから,
こっちの5人の都合で決めりゃええ」と言う人もいるかもしれない。
この意見の食い違いは,普通は「どちらの考えが正しいか」という議論
にはならない(友人同士の間に溝ができるリスクを避けるため)。
A「結論を出すべき問題かどうか」についての混乱
(2)で述べたとおり,「(X)結論を出すことを目的とした議論」と,
「(Y)語ること自体が目的の議論」とがある。これについて参加者の間で
とらえ方の違いがあると,時に議論が成り立たなくなる。2つの場合に
分けて考えてみたい。
・(X)の議論をしている際に,それを(Y)の議論と解釈する人が混じって
いる場合 → たとえば「忘年会の場所を決める」という話し合いの
目的を忘れて,過去の忘年会の思い出話に脱線したりすることがある。
このようなケースでは大きな混乱はあまり起きない。
・(Y)の議論をしている際に,それを(X)の議論と解釈する人が混じって
いる場合 → 語ること自体が目的の議論の中で「結論」を出そうと
すれば,混乱が起きやすい。たとえば「日本で一番歌が上手な歌手は
誰か」という議論では,参加者全員が「結論」を目指すという共通理解
があるので,誰が一番に選ばれてもある程度は納得できる。一方,
「AKB48は歌がうまいか?」というテーマの議論では,ある人が「自分は
そう思う」と言ったつもりでも,聞く側がそれを個人的な意見ではなく
「AKB48は歌がうまいとみんなが認めるべきだ」という主張ととらえる
可能性がある。すると,単なる情報交換が「論争」に発展しやすい。
この場合,その聞き手には「結論」志向が見てとれる。ただし,それが
悪いというわけではない。ある議論が「結論志向」か「情報交換志向」
かは不変のものではなく,ケースバーケースで変動しうるからである。
ここでは「混乱が生じるメカニズム」の観点から考察している。
※もともと「情報交換志向」の議論だったものに「結論志向」が入り込む
ことの心理的背景は,次のように説明できるかもしれない。そもそも
我々が親しい人やネットの掲示板などで「雑談」をするのは,いわゆる
社会的欲求(他人に認められたいという気持ち)を満たすためという
面がある。このとき,「より強く自分を主張したい」「より強く相手の興味を
引き付けたい」という心理から,「面白い話題を提供したい」と考える。
そして,「面白い話題(=他人が面白がるだろうと自分が思う話題)」や
その語り口を選ぶ基準が,人によって異なる。「草食系」「肉食系」の分類
に従えば,「結論志向」が強い人は「肉食系」に近いと言えるかもしれない。
(言うまでもないが,肉食系を批判しているわけではない)
B「結論の影響」が生む混乱
現実レベルの議論では,「結論」の強制力の強さや,「結論」と各参加者
との利害関係の強さによって,議論が迷走しやすい。その典型的な表れが,
「総論賛成・各論反対」というパターンである。たとえば消費税のアップ。
「いずれ上げる必要がある」という点ではほとんどの人の考えは一致して
いる。しかし実際に上がるとなると自分の生活に直結するので,選挙では
消費税据え置き派の政党に投票するかもしれない。あるいは原発。
社会にとってはない方がいいとは思うが,エアコンが使えないのはちょっと…。
こうしたことも各人の判断の問題であって,いい悪いとは関係ない。
より正確に言えば,「ある規準に照らして『いい』『悪い』」という判断を下す
ことはできる。たとえば「原発を止めることが当面の日本経済にとって
いいか悪いか?」という問題設定をすれば,合理的な結論は出るかも
しれない。しかし,その問題設定自体を疑ってしまえば議論の土台が
崩れてしまう。したがって,何も前提条件をつけずに消費税や原発の
問題を語るなら,「いい」「悪い」のどちらの判断もイーブンでしかない。
C話し手の関心と聞き手の関心とのミスマッチが生む混乱
(3)で述べたように,話し手の伝えたい情報が聞き手に正確に伝わらない
ためにしばしば混乱が起こる。話し手・聞き手のどちらかに責任がある
ということではなく,伝言ゲームのようにこの種の「情報の変質」は常に
起こり得る。「あなたの言う言葉の意味は理解できる。しかし私はこう
思う」という意見交換ができていれば「議論が成り立っている」と言えるが,
実際にはなかなかそうはならない。話し手が軽い冗談のつもりで言った
ことに対して,「聞き捨てならない」という反応が返ってくることもよくある。
これはおそらく,「これは大事」「これはどうでもいい」という情報の価値
判断が,話し手(書き手)と聞き手(読み手)との間で異なることによって
起こるのであろう。したがって,話し手(書き手)の表現力がどんなに
優れていても,この混乱が起こるリスクは常につきまとっている。
D事実認識の違いによる混乱
(4)で「主張に説得力を持たせるもの」のトップに「事実」を挙げたが,
実際には「事実の説得力」でさえも絶対的なものではない。たとえば,
「尖閣諸島はどこの国の領土か?」という議論は,本来は事実認識の
問題であるが,それで話が収まるのなら今日のような混乱は起きて
いない。また裁判などの例を見ても,事実や数字の説得力が絶対的な
ものではないことがわかる。また,(4)Aの「専門知識」についても,
もしも専門家の言うことが絶対的に信じられるのだとしたら,裁判員
制度など必要ないし,原発の安全性の議論も起きないだろう。
E「一般常識」をめぐる混乱
これはもう,言うまでもない。「一般常識」とは,正確に表現するなら,
「一般常識だと自分では思っている知識」のことである。したがって,
一般常識を自分の主張の論拠にすることは,自分と同じ「常識」を
持っている人には有効だが,そうでない人には意味をなさない。
娘に「友達の家に泊まっていいか」と尋ねられて「結婚前の娘の
外泊は許さん。それが一般常識だ」と父親が答えたとしても,その
言葉は娘にとって何の説得力もないだろう。そのほか「法律などの
ルール」や「論理性」についても同様のことが言える。昔の人は
言った。「理屈と膏薬はどこにでも付く」。論理性は議論を構成する
1つのファクターではあるが,現実にはそれだけで解決する議論は
ほとんどない。
F理屈と感情との兼ね合いをめぐる混乱
「結論を出すことを目的とする公的な議論」では,たいていの場合は
できるだけ説得力のある(客観的に見て妥当だと思われる)結論を
出そうと努力する。しかしその場合でも,「感情」というファクターは
無視できない。たとえば裁判では,被告がどの程度反省しているかを
裁判官や裁判員が主観的に判断し,その判断が判決に影響する。
したがって被告が(たとえ演技であっても)法廷で土下座して泣いて
詫びれば,多少罪が軽くなるかもしれない。「議論=結論を出す
プロセス」ととらえた場合,そのプロセスの中で「感情」という要因が
無視できない重みを持っていることが容易に想像できるだろう。
※「人間関係への配慮」によって生じる混乱もここに含まれる。
たとえば,いくら正論であっても社長に反対意見を述べることは
普通の人にはなかなかできない。