話が少し長くなりますが…
母は2014年に亡くなった。晩年はパーキンソン病でほとんど寝たきりだった。
母の介護度は最終的に要介護4になり,ヘルパーさんやデイサービス・ショートステイを利用しながら自宅で父と暮らしていた。
病気があるので一時的に入院はさせてもらえるが,長期間の入院は難しい。
母と二人暮らしをしていた父は,いわゆる老老介護の日々を送っていた。
うちは実家に近いので,ぼくも朝昼晩と様子を見に行って介護を手伝った。
大正14年生まれで2014年3月に89歳になった父は,その頃はまだ元気だった。
ただ,父には右腕がない。うちの実家は八百屋だが店は母が切り盛りをして,父は工場に勤める工員だった。
昭和48年(1973年)に工場の機械に右腕を巻き込まれて切断する事故にあい,それ以来右腕は義手をはめている。
幸い左腕が残ったので,車は普通に運転できるようになった。
趣味は盆栽で,左手でハサミを使うのが最初の頃は難しかったが,それにもだんだん慣れた。
しかし足腰の弱った母の介護は,片腕の父には厳しい仕事だった。
たとえばベッドの横のポータブルトイレに母を座らせようとする場合,ふつうは本人を立たせて片腕で体を支え,もう一方の手でパンツを下ろす。
しかし片腕でそれをやろうとすると,母本人に自力で手すりにつかまらせておくしかない。
ところがパーキンソン病に加えて認知症が進んだ母は,その指示を守らない。
ある日の朝に実家へ様子を見に行くと,母がポータブルトイレの横に寝そべっていた。
父に聞くと,トイレは使ったのだがベッドへ戻そうとしたときバランスを崩して床に座り込んでしまい,父の力ではベッドへ持ち上げられなかったという。
ヘルパーさんがいれば助けてくれるが,夜間に泊まってくれるようなサービスは普通はない。
家政婦協会に頼めばそういう人を派遣してくれるが,料金がべらぼうに高い。
母の介護は,体もそうだが頭の問題の方が大変だった。
たとえばデイサービスの迎えの車が来ると,子どものように駄々をこねる。
「どうして自分があんなところへ行かないといけないのか」と本人は言う。
デイサービスやショートステイは介護者の負担を減らすために利用するものだが,認知症の母にはそれが理解できない。
父がどうにか母の介護を続けることができたのは,父自身に認知症の気配が全くなかったという理由が一番大きい。
たとえ体は元気でも,二人とも認知症になったらどうしようもないところだった。
2014年4月に母が死に,父は介護の負担から解放された。
しかし7月の検査で胃がんが見つかり,8月に手術をして胃を5分の4摘出した。当然体重は激減した。
入院中に体力も弱ったが,退院後は少しずつ体力も回復した。
胃を取っているので食べる量は減ったが,飲食物の種類に制限はなく,刺身もビールも口にした。
ただし味覚が変わって,最初のうちはビールがまずくて飲めないと言っていたが。
調子がよくなってきて一人暮らしができるようになったので,実家へ様子を見に行くのは1日1回,昼ごろだけにした。
そして2015年3月末ごろ,いつものように昼に様子を見に行ってみると,玄関に鍵がかかっている。
何か異常があったに違いないと思って合鍵で玄関を開けて居間へ行くと,裏庭で父が倒れていた。
見た瞬間,死んでいると思った。しかし話しかけると反応があったので,すぐに救急車で尾道市民病院へ。
後でわかったが,前日の夕方からずっと庭に倒れたままだったという。
植木に水をやってから家に入ろうとしたときバランスを崩して転倒し,動けなくなったらしい。
入院直後はかなり危ない体調だったらしいが,1週間ほどで退院できる程度に回復した。
ただ入院中の食事で誤嚥を起こして熱が出たので,退院したら「キザトロ」というタイプの食事にしてくださいと言われた。
食材を細かく刻んでとろみをつけた,一見すると鳥のエサのような食事だ。ヘルパーさんに頼めば作ってくれる。
「本人は麺類が好きなんですが」と尋ねると,「絶対だめ(誤嚥の原因になる)」と言われた。
婦長さんには「施設に入られた方がいいんじゃないですか?」と勧められたが,母のときのようにできるだけ自宅で過ごさせてやりたいので断った。
このときも体調は少しずつ回復し,5月には広島での上の娘の結婚式に車いすで参加した。
夏ごろには誤嚥も起こさず普通のものを何でも食べられるようになった。夏はよくソーメンを食べた。
足が動かなくなると困るというので毎日散歩をしていたが,歩く距離はだんだん短くなっていた。
その代わりに車には毎日乗っており(そうしないと運転の仕方を忘れるから),自分で買い物もした。
2016年。父は91歳になったが,大きな異常は見られなかった。
体力はだんだん落ちてきたが,裏庭で植木の世話をしながらのんびり暮らしていた。
前年の3月のことがあったので,それ以降は朝と昼に様子を見に行き,夜はワンタッチで連絡できるアラームを電話機に取り付けておいた。
正直,母が死んだ直後にどうなるかが一番心配だった。老老介護の疲れが出てポックリいくんじゃないか,と周囲の人も心配していた。
しかしその後のガンの手術と庭で倒れていた事件を乗り越えて,もうしばらくは長生きできそうな感じだった。
ただ時々頭がふらついて吐き気がする症状があり,その都度かかりつけの病院で点滴を受けていた。
頻度は調子がいいときは1〜2か月に一度,調子が悪くなると週に2回行くこともあった。
2017年も,体力は衰えてきたが,週に2回ヘルパーさんに来てもらうだけで済んでいた。
年に一度の介護保険の点数の見直しがあり,7月に介護保険の調査員が来た。
そのときも「何でも一人でやってます」的な答えをしたために,この9月から「要支援1」,つまり一番低い介護度に下げられることになった。
それでも介護サービスは今までどおり受けられるし,介護度が低いのは本人にとってはいいことだ。
食べる物はうちで作って毎日持って行っているし,休みの日には釣って帰った新鮮な魚も食べさせてやれる。
何より認知症の症状が出ていないことが,介護する側にとっては圧倒的に楽だ。
母を介護した経験から言えば,体が動かないのはどうにでもなる。しかし頭がおかしくなると,身内の介護には限界がある。
徘徊も大きな問題だが,寝たきりでも介護する側の苦労は変わらない。
老老介護をしていた頃,父は毎晩2時間おきくらいに起きていたそうだ。
母はおしめにオシッコをするのが苦手で,起こしてポータブルトイレに座らせてくれと求めるからだ。
母の頭がしっかりしていれば,それが自分を介護してくれる父の迷惑になることが理解できる。
だからいやでもおしめにオシッコするようになるだろう。しかし認知症患者は子どもと同じで,わがままを言う。
病気だから仕方がないのだが,介護する側にとっては心身ともに消耗が大きい。
自分がいくら一生懸命に尽くしても,相手はそれに感謝してくれないのだから。
そして,2017年8月27日の日曜日。いつものように実家で昼ご飯の用意をした。
テーブルの上に食べるものを並べておけば,父は自分で食べて食器を洗う。
仕事場に戻って仕事をしていた夕方5時ごろ,電話が鳴った。
「倒れて動けん。家まで来てくれ」という父の声が聞こえた。
ふだん携帯電話を持ち歩かない父がどうやって電話をかけたのか?と思いながら,実家へ行った。
家の前には父の車が止まっており,土間のいすに父と近所のおばさんが腰掛けていた。
話はこうだった。父はいつものように車で買い物に行き,荷物を家の中へ入れようとして車を降りた。
そこでバランスを崩して転倒し,後頭部から地面に落ちた。
倒れていた父を見つけた近所のおばさんが父を家の中まで運んでくれて,電話機を持ってきてくれたという。
見た感じ,救急車を呼ぶほどでもなさそうだ。
今日は日曜日だし,とりあえず明日病院へ行こう,ということでその日はそのまま寝かせた。
8月28日(月),近所の脳神経外科でMRI検査。先生の話では「特に大きな異常はない」という。
薬をもらって帰ったが,夕食はほとんど食べなかった。
8月29日(火),引き続き調子はよくないが,病院へは行かず。ただ,左手が少し震えているのと,
話し方が少しおかしい(呂律が回らない感じ)なのが気になる。
8月30日(水),介護の点数が下がったので,サポートの見直しをする必要がある。
午後,ケアマネさんら数人が実家へ来て打ち合わせ。その席での父の様子を見ると,明らかにおかしい。
表情がゆがんで,口が半開きになっている。このところ暑いし食欲もなくなっていたので,夏バテじゃないか?
ということで,しばらくどこかの病院へ入院させてもらった方がよかろう,ということになった。
医者をしている昔の教え子に後で聞いた話では,MRIやCTで見た目の異常が見つからなくても,頭を打った
ことが機能に影響を与えるケースはある(ただし機械的な診断は難しい)とのことだった。
8月31日(木),かかりつけの病院で点滴を受けてから先生に紹介状を書いてもらい,翌日から近くの病院に入院することになった。
9月1日(金),その病院に午前中に入院。午後1時に様子を見に行ったときは,弱ってはいたが特に異常はなさそうだった。
ところが,夕方5時ごろ,婦長さんから電話が入った。ここから今日(9月10日)に至るまで,激動の日々が続いている。
婦長さんは言った。「入院直後から,お父さんの認知症が急速に進んでいます」
聞いたときは「ウソじゃろ」と思った。今まで認知症とは全く無縁だったからだ(だからこそ車の運転もできていた)。
病院へ行って本人と話をしてみると,どうもよくわからない。普通に話ができていると思うが…
しかし婦長さんの話では,午後に本人が右腕の義手をはめたり外したりして,しまいにはそれを床に投げたそうだ。
「ここはどこですか?」とか「今日は何年何月何日ですか?」という問いにもまともに答えられなかったという。
病院からは「徘徊の危険もあるので,入院中は常に家族が付き添ってください」と言われた。
従うしかないので,その日の夜から病院で寝泊りすることになった。
消灯時間が早いので,夜の6時〜6時半ごろには病院へ行く必要がある。
家へ帰ってパジャマなどを用意し,シャワーを浴びて,コンビニで弁当を買って病院へ。
結局この日から数日間は,1日3回の食事をコンビニに頼ることになった。
そして1日目の夜が来た。
父はふだんから,夜中にトイレに行くために3〜4回起きる。
しかし入院初日のこの日は体が弱っていたので,膀胱にカテーテルを入れてベッドの横の袋に尿が落ちるようにしてあった。
だからトイレに立つ必要はなかったのだが,目が覚めると「おい,起こしてくれ」と声をかけてくる。
そして,自分が今どこにいるのかわかっていない。
「ここは病院で,寝たままオシッコしてもかまわない」と説明しても,なかなか理解してくれない。
それが2〜3時間ごとにくり返されるわけで,当然こちらも眠れない。
母を介護していた当時,父は毎晩こんな苦労をしていたのか,と改めて思う。
9月2日(土),病院で検査を受けるためにたまたま北広島から帰ってきていた上の娘に代わってもらって,午前中に外出した。
行き先は,娘のスマホで調べさせた近所の介護施設だ。入院して1日ほどしかたっていないが,父の認知症は進行している。
自宅とは環境の違うところに行くと,年寄りはこういう症状が出やすい。母もそうだった。しかしそれにしても,進行のペースが速すぎる。
もともと2週間程度の入院予定だったが,2週間もここにいたら自分の名前さえ忘れてしまいそうだ。
何よりここは病院であって介護施設ではないから,重度の介護が必要な患者を世話してもらうのは看護師さんたちに申し訳ない。
介護のことは介護のプロに任せる方がいいだろう。
そして,K病院が経営するSという介護施設に話を聞きに行った。(地元の人ならこのイニシャルだけでわかるかもしれない)
ここはショートステイ・特養・グループホームが併設されており,ショートステイは長期滞在も可能だという。空きはあった。
入所一時金はゼロで,費用は介護度にもよるが月13〜14万程度で,本人の年金でまかなえる。
「1日でも早くここに移したい」と希望したが,あいにく週末で受け入れの体制が整わない。
とりあえず週明けの月曜日にまた連絡します,ということにした。
その日の晩も父の横で寝たが,カテーテルはこちらの希望で外してもらった。
退院したときのことを考えると,ベッドに寝たままでは足が弱る一方だからだ。
その分,夜中にベッドの横のポータブルトイレに座らせなければならなかったので,これがなかなか大変だった。
一応紙パンツははいていたが,できればトイレに座る習慣は残しておきたい。
夜中の寝言は相変わらずで,1日ごとにQOLが低下しているのがはっきりわかる。
9月3日(日),引き続き家族が交代で病院へ来て付き添い。この日の午後が最悪の体調だった。
トイレに座らせようとして抱えても,まるで荷物のように手足をだらんと下げたまま,手すりを握ることもできない。
まるで死ぬ直前の母のような様子で,このままここで死ぬんじゃないかとさえ思った。
親戚が見舞いに来ると,顔はわかるしどうにか話もできるが,言葉を口から出すのにかなりの時間がかかる。
見舞いに来た人は一様に驚く。何しろ1週間前まで体も頭もピンピンしていたのだから。
しかし毎日付き添って見ていると,もう元には戻らないだろうなということは確実だった。
その日の夜も,認知症は刻一刻と進行している感じだった。
9月4日(月),朝食を食べさせてやろうとするが,なかなか飲み込めない。
錠剤を1粒口に入れ,とろみのついたお茶を含ませて飲ませようとしても,嚥下力が弱っていて飲み込むのに1分くらいかかる。
パーキンソン病の母の最期がこんな感じだった。自宅での介護が不可能になったのは,薬が飲みこめなくなったからだ。
看護師さんたちはよく世話をしてくれるが,忙しいのでどうしても限界がある。早く介護施設Sへ移してやりたい。
Sへ行って話をすると,入所の前にK病院での検査が必要だという。
結局,翌日退院してK病院へ連れて行き,そこでの検査を経てからSへ移ることになった。
夜は泊まりの4日目。父はおむつをしてもらい,トイレに起きる必要はない。
しかし夜中には目が覚めて,たとえば「立たせてくれ」と言う。
聞いてみると,「寝ている体勢から立ち上がらせてくれ」という意味ではない。
「自分は今立っているのだが,地面に足がついていない」というのだ。
近くにあった箱をベッドの柵と足の間にはさんで,足の裏が箱の底に接触するようにしてやった。
「ほれ,立ったよ」と言うと,納得する。そんな程度の認知症だ。
9月5日(火),朝食前に「これを食べたら退院するよ」と父に言った。
「しっかり食べんと,歩けんよ」と言っておかゆをスプーンで口の前へ運ぶと,食べ始めた。
入院中はずっと,出された食事を1割ほどしか食べられず,点滴を受けていた。
しかしこの日の朝食は,7〜8割くらい食べた。退院すると聞いて気力が沸いたのだろう。
実際にはこの病院を出てすぐK病院へ移るのだが。
しかしこの日は,その途中で実家へ寄ろうと決めていた。
朝食を終えて9時過ぎに退院。
父を車に乗せて実家へ行き,家族や親戚に手伝ってもらって,土間から部屋へ上げる
(うちの家は土間から部屋の床まで70〜80cmの高さがある)。
「歩いてみるか?」と言って,手を引いてやると,自分でよちよちと歩き出した。
みんな驚いていたが,自分の家に帰ったらこの程度のことはできるだろうと予想はしていた。
それだけに,認知症になったのが残念でならない。
体が動かないだけなら,介護用のベッドを置いてうちの自宅で世話をすることも考えた。
しかし,認知症だけはどうしようもない。ここ4日間,父の隣で寝て実感した。
気の毒だが,これからは施設に永住してもらうしかない。
ただ,時々は昼間に外出して,今日のように車いすで実家へ連れて帰ってやりたい。
このあとK病院へ連れて行き,入院の手続きをした。
「検査のための入院期間はどれくらいですか」と尋ねると,最初は1週間くらいだと言われた。
冗談じゃない。今日まで4日入院していただけで認知症があれだけ進行したのに,また別の
病院に1週間もいたら,介護施設にさえ入れなくなりそうだ。ましてこのK病院は…
結局「必ず1〜2泊で施設に移れるようにします」と確約してもらった。
4人部屋の病室のベッドに父を寝かせて看護師さんと話をしていると,昼食が運ばれてきた。
見ると,定食屋のメニューのような料理が並んでいる。
年寄りはたいていそうだが,見たことのないものは食べたがらない。
この日の昼食のメインは,白身魚にマヨネーズをかけて焼いた料理だった。
ああ,これは食べんじゃろうなあ…看護師さんに「私が食事の介助をしましょうか?」と言うと
「(自分は忙しいので)ぜひお願いします」というので,食べられそうなものを選んで口へ運んでやった。
それでも,食べたのは出された料理の1割くらい。当然午後は点滴だ。
結局ここには2泊することになったが,昼食だけはうちの家族の誰かが介助に行った。
開けっ放しの病室のあちこちから,認知症患者の叫び声やうめき声が聞こえてくる。
動物園の中にいるようだ。メンタルが相当強くないと,とても勤まらないだろう。
9月6日(水),見舞いは家族に任せて,新聞配達の中止や郵便の宛先の変更,世話になった
ヘルパー派遣会社へお礼の挨拶,介護施設Sの受け入れの確認などあちこちを回った。
9月に入ってから全く仕事をしていないが,それどころじゃない。
9月7日(木),K病院を退院して,介護施設Sへ父を連れて行く。できてからまだ3年ほどのきれいな施設だ。
ここに入れるのが1つの区切りと考えていたので,とりあえずは安心した。
着替えなど入所に必要なものをそろえるために実家などを往復。
夜は家族に「慰労してくれ」と頼んで,焼肉を食べに行った。
9月8日(金),しばらくはSへ毎日様子を見に行くことにして,この日は下の娘とここの施設内のレストランで昼食。
ここのシェフの料理はおいしくて,値段も安い。広くて客も少ないし,落ち着いて食事ができる。そのあと父のいるフロアへ。
ここは1階がショートステイ,2階が特養で,父は1階にいる(部屋はすべて個室。テレビや冷蔵庫はない)。
ここの入所者は昼間は普段着で過ごすのが原則だが,父はパジャマを着てベッドに横になっていた。
食事の様子を聞くと,入所以来食べる量はだいぶ増えていた。朝食は7割程度は食べるという。
スタッフがていねいに介助してくれるからだろう。夜は大声を出すこともなく,よく眠っているように見えるとのこと。
トイレは起こして座らせるかおむつを使うかを体調に応じて判断しているようだ。
何より病院は狭苦しいので,自分でもどうせ入るのならここの方がずっと居心地がいいだろうとは思う。
夕方,父の知り合いだという大工さんに実家へ来てもらい,土間から部屋へ上がるためのスロープの工事を頼んだ。
このスロープがあれば,車いすを押して父を部屋に上げることができるので,時々の帰宅が楽になる。
自宅にいることが前提なら介護保険を使ったリースが可能だが,施設入所者の場合は保険は使えないので自腹になる。
裏庭の植木には,父が帰ったときのために毎日水をやらねばならない。
9月9日(土),前日に続いてSのレストランで叔母と昼食。そのあと父の見舞い。
朝,久しぶりに2時間ほど釣りをしてチヌの刺身をほんの少し作り,「夕食に食べさせてやってください」と持って行った。
家にいるとき,父は毎晩必ず刺身を食べていたのだ。しかし残念ながら,刺身は受け取ってもらえなかった。
Sは基本的に飲食物は持ち込んでもよいが,今は食中毒防止月間とかで生ものはダメだという。
現時点の父は,目が覚めていて体調のいいときは,普通に話はできる。しかし時々わけのわからないことを言う。
ただ,テレビは基本的に見ないし,やることがないのでどうしてもベッドに横になってしまう。
新聞が読みたいというので施設に新聞を配達してもらうことにして,雑誌も持って行ってやった。
このあとケアマネさんと今後の打ち合わせ。
現時点では要支援1だが,変更の申請を出しているので近々調査員が来る。
今の体調なら,要介護3がもらえるのじゃないか,という。要介護3以上は特養に入れる。
ここは2階が特養だから,そちらに移してもらえばいいと最初は思っていた。
ただ…とケアマネさんと調整役の担当者の2人が言う。
「うちの特養に入るということは,何かあったとき(母体の)K病院の世話になるということです」。
そうか!…ケアマネさんはもちろん口に出しては言わないが,「それでいいんですか?」ということだ。
う〜ん…ちょっと考えさせてほしい。
数年前に上の娘が腹痛でK病院に入院したとき,慢性腸炎やら何やらいろんな病名をつけられて,
体調は半日で回復したのになかなか退院させてもらえなかった。結局数日後に退院して別の病院で
検査を受けたところ,「ただの腸の風邪です」と言われたことがあったのだ。
−という話をしている最中に,薬の管理を担当している人が「ちょっとすいません」と入ってきた。
「この薬,本当に飲ませていいんですか?」
病院でも介護施設でも,ふだん飲んでいる薬はスタッフに預けて,正しく飲むように管理してもらう。
ここへはかかりつけの病院でもらった血圧やめまい止めなどの薬を持参していた。
加えて,2日前にK病院を退院するとき「うちの病院から出た薬も入れておきますね」と看護師さんに言われた薬が何種類か入っていた。
そのうちの1つは血液をサラサラにするという薬で,けっこう強いので定期的な血液検査が必要だという。
Sは介護施設だから,その検査は(特に希望しない限り)K病院で受けることになる。
しかし今まで父は,そんな薬を他の病院でもらったことはない。
さらにK病院が処方した薬の中には,もともと飲んでいた(つまりK病院での入院中も飲んでいた)のと同じ薬も入っていた。
K病院には父の「おくすり手帳」も渡している。K病院の医者は,患者が今飲んでいる薬のチェックもしないで処方箋を作るのだろうか?
結局4人で相談して,K病院から新たにもらった薬を飲ませるのはやめよう(かかりつけの病院でもらった薬だけを飲む)ということになった。
ケアマネさんたちが「本当にK病院でいいんですか」的な(ぼくの耳にはそう聞こえた)問いかけをしてきたのは,そういうことだ。
ちなみに薬を持ってきてくれたスタッフには「K病院へ薬を持って行って返せば,薬代は返金してくれます」と言われた。
しかし父は保険などで薬代はいつも無料だから,結局K病院から出た薬は廃棄処分することにした。もうかったのはK病院だけ,という構図だ。
そういうわけで,特養は別のところを探そうと思う。
父の介護に終着点があるとすれば,それは父が死ぬときだ。
自分の名前さえわからないほど認知症が進めば,施設に預けっぱなしでもいいかもしれない。
そうならない限り,これからも介護の旅は続いていくのだ。