最終更新日: 2004/11/16
雑記帳 (その他編-7)
● 2004/11/16(火) 世の中を動かす「道理」に関して思うこと
外道の魚を放置することへの批判に関して,前から書こうと思っていたことをここに書きます。
言いたいことの結論のひとつは,こういうことです。
「一番『敏感』な人の考えに,みんなが合わせる必要はないと思う。」
ここで言う「敏感」とは,「〜すべきだ」という主張をしたがる度合いのことを言います。
これをお読みの皆さんに,10個の質問をします。○か×で答えてください。
「大目に見てええんじゃないの?」と思うものには○を,「許せん(不愉快だ)」と
思うものには×をつけてみてください。気をつけてほしいのは,建前でなく,自分の
「気持ち」の問題として考えてほしいということです。建前で答えるのだったら,
ほとんどの質問の答えが×になるに決まっていますから。
(1) 新入社員が,親睦を図るための上司の酒の誘いを断って,仲間と飲みに行った。
(2) 居酒屋で父親が高校生の息子に,ビールを一口飲んでみろと勧めていた。
(3) 小学生の子供が,学校の帰りによその畑のミカンの実を1つもいで食べていた。
(4) 有名な温泉街の多くの温泉旅館のお湯に,水道水が混じっていた。
(5) 制限速度が80kmの高速道路を,多くの車が時速100kmくらいで走っている。
(6) 最近の若者の中には,政治に無関心で選挙に行かない者が多い。
(7) カラオケで,他人が歌っている曲に割って入って一緒に歌いたがる人がいる。
(8) ある政治家は,単位が足りず卒業できなかったのに「○○大卒」と言っていた。
(9) ある評論家が,電車内でスカートの中を盗み撮りした罪で逮捕された。
(10) 釣りに行くたびに,釣り場にゴミを放置して帰る人がいる。
質問の配列には,意味があります。
私にとって,「許せる度合い」が大きいものの順に並べてあります。
ちなみに私の場合,(1)〜(8)が○で,(9)と(10)が×です。
(8)については×をつける人も多いでしょうが,私は△,しいて言えば○です。
いわゆる学歴詐称ですが,それによって何かの影響があるとは思わないので。
学歴など政治の仕事には何の関係もないですし,選挙で学歴を基準に投票する
人はおらんでしょ?「ウソをつくような人間に政治を任せることはできない」と言わ
れればそうかもしれませんが,私にとってはその程度のウソは許容範囲です。
同じことは,(4)にも言えます。「水道水が入っていることが問題ではなくて,客を
騙していることが問題なのだ」という人もいるでしょうね。私は気にしませんが。
温泉へ行く目的は源泉を浴びることじゃないですから。かように私は「現実主義
者」であり,実態としての損害を伴わない行為は大目に見ることが多いです。
なぜこういう質問をしたかと言うと,「答えは人によって違うでしょ?」ということが
言いたかったからです。ガチガチの原理主義者なら,全部×をつけるでしょう。
「自分はこれとこれに×をつけたし,それが世間の常識だ」と思われた方も
おられると思いますが,果たして皆さんの○×は一致したでしょうか?
そこで,次の問いかけです。ある人にこのように言われたら,どう対応しますか?
「これらは全部,許せないことだ。速度オーバーは法律違反だし,よその畑の
ミカンを取ったら窃盗だ。あなたもそう思うでしょ?」
あなた自身もそう思うなら,問題ありません。でも,あなたはそうは思わないとき,
適当に相づちを打ちますか?苦笑してごまかしますか?
ここで私が思うのは,「建前はそうかもしれんけど,世の中の真実は別のとこに
あるんじゃないん?」ということです。割り切った言い方をすれば,上の10個の
質問について世論調査を行い,○が×よりも多いものについては,「そのくらい
大目に見てよかろう」というのが「世の中の道理」なんじゃないか?と思います。
そして私たちは,ガチガチの規範主義者に対して卑屈な苦笑を浮かべるのでは
なく,そのことを堂々と主張しても許されるのではないでしょうか?
人気のない深夜,幅数mほどの道路を,あなたと数人の友人が渡ろうとして
います。目の前の信号は,まだ赤です。みんな,信号を無視して渡ろうとします。
そのときあなたは,自分ひとりが信号を守って横断せずにいることができますか?
そもそもあなたは,そういう状況でも信号を守りますか?そして,あなたが信号
無視派の人間であるとき,「おまえら,信号無視するな!」と横断歩道の向こう
に一人残った友人から怒鳴られたら,素直に従いますか?
私が他人に対して「〜すべきだ」とあまり言いたくないのは,上のような質問の
それぞれについて「〜すべきだ」と言ったとき,その意見は世の中の何パーセント
くらいの人の共感を得られるのだろうか?と常に思うからです。(9)と(10)に
ついては,「盗撮はいかん」「ゴミの放置はいかん」ときっぱり言えます。
世の中の大多数の人が,それに賛成してくれるだろう,と予想するからです。
一方(1)〜(8)については,その種のことは言えません。きっぱり白黒つけら
ない,グレーゾーンに属する(=賛否両論が予想される)ことのように思うから。
自分の気持ちのレベルで○×をつけることはできますが,他人に対して「自分と
同じように思う(感じる)べきだ」とは言えません。
さて,以上の話を前提として,「外道の魚の放置問題」を取り上げます。
私はこの問題を,ゴミの放置問題とは次元の違うことだと考えています。
放置ゴミは,「周辺に住む人たちへの迷惑」という実態を伴っています。
外道の放置も釣り場の美観を損ねる要因ではありますが,これを問題視する
人は,それよりも「人としての振舞い方」に力点を置いているはずです。
「生き方の問題」と言ってもよいでしょう。ゴミの放置が「現実」の問題である
としたら,外道の放置は「思想」の問題です。だから余計に「他人の思想に
とやかく言いたくない」という面はありますが,それだけではありません。
以下に,仮想の議論を示します。登場人物は5人であり,A〜Cは釣り人,
D・Eは釣りをやらない人です。
B 「フグやヒトデを海へ返さずに地べたへ捨てる人がおるけど,あれはいけんね」
C 「同感」
A 「ちょっと待って。ワシは,外道は地べたへ捨てとるよ」
B 「魚がかわいそうじゃないんですか?」
A 「あんたらも,フグやヒトデが釣れたら憎たらしいと思うやろ?」
B 「そりゃあそうですが,命を奪おうとまでは思いませんよ」
A 「じゃあ,釣った魚はどうするん?」
B 「持って帰って食べます。余分な分はリリースするけど」
A 「そんなのは自己満足よ。命を奪うことには変わりなかろう」
B 「事実としてはそうですけど,要は自分の気持ちの問題です。本命魚は自分に
とっていろんな意味で『必要』なものだから,気の毒だけどカンベンしてね,と
いう気持ちで命を奪ってます。なるべくなら,奪う命の数は少ない方がいい。
だから外道は海へ戻すんですよ。それだけ罪悪感が減るわけですね。」
C 「ぼくは,釣った魚は全部リリースしますよ。奪う命を少なくするために」
B 「リリースしても,いったん釣った魚は死ぬ確率が高いですよ」
C 「でも,生きる可能性も十分あるでしょ?食べたら全部死ぬじゃない。資源保護
のためにも,キャッチ&リリースすべきでしょう」
A 「資源保護って,釣り人の釣る魚の数は大したことないじゃろ?」
C 「いや,そうでもないでしょう。実際,魚は減ってますから」
A 「そんなら,ワシが外道を地べたへ捨ててもええはずじゃろ?」
B 「どうして?」
A 「釣り人が釣り上げることで魚の数が減るんなら,外道をぎょうさん釣り上げたら,
外道の数が減るじゃないか。そしたら,本命のヒット率が上がる」
B 「それは,屁理屈でしょう」
C 「とにかく,魚の命を考えるなら,全部リリースすべきです」
A 「食べるために釣ると言うんなら,食べられる分だけ釣ったら竿をたたむか?
実際は,それ以上に釣り上げるじゃろ。キャッチ&リリースする人も同じじゃ。
楽しみのために魚を殺したり傷をつけたりしとる。1匹殺すのも10匹殺すのも
一緒よ」
B 「いや,1匹と10匹は違います」
A 「1匹ならOKで10匹ならダメ,というのは誰が決めるんか?」
B 「自分です」
A 「ほれ見てみ。単なる自己満足じゃないか」
D 「魚の命が大事なら,釣りは禁止すべきです。そうすれば,命を奪うこともない。
私は釣りという趣味を認めません。」
A 「じゃあ,漁師が魚を獲るのはどうなん?」
D 「それは仕方ないでしょう。生活のためですから」
A 「命を奪われる魚の身になったら,漁師に殺されても釣り師に殺されても一緒よ」
E 「私は,漁師が魚を獲ることも,皆さんが魚を食べることも罪悪だと思います。
私は菜食主義者で,肉も魚も食べません。」
B 「じゃあ,何を食べるんですか?」
E 「野菜と牛乳,チーズなどです」
B 「植物だって生き物ですよ。動物は殺しちゃダメで,植物ならいいんですか?」
E 「それを言ったら,人間は生きてはいけませんよ」
この仮想の議論を通して,各自の主張の要点をまとめると,次のようになります。
A
外道は地べたに放置してよい。1匹殺すのも10匹殺すのも同じだ。
B
奪う命を少しでも減らすために,外道はリリースすべきだ。
C
奪う命を少しでも減らすために,釣れた魚はすべてリリースすべきだ。
D
奪う命を減らすために,趣味の釣りはすべきでない。
E
奪う命を減らすために,釣りも漁もすべきでない。
私個人の考えはBに近いですが,Bが絶対正しいとは思えません。
「外道の魚を地べたに放置するのはやめよう」と私が仮に主張した場合,
私以外の立場の人からは,「その主張自体がナンセンスだ」という反論が
返ってきそうです。5人でディベート(議論)をしたとすると,私には他の4人を
論破する自信がぜんぜんありません。あえて私が自分の主張の正しさの
根拠を語るとしたら,「だって,世の中の多数派は,私と同じ意見を持って
いるはずですよ」ということくらいしか言えないと思います。
そこで,最初の話に戻るわけですね。つまり,「多数派の意見をもって,
世の中の『道理』とみなしてよいのではないか」,という。
でも,「他のみんながこう思っているのだから,おまえも同じ考えを持て」と
いうのは,ある意味で危険な思想ですよね。そんなもん,論理でも何でも
ないしね。なんか難しげなことを言ってますが,要するに「自分にとって
一般常識だと思う行動を取る」という,ごく当たり前の話です。でも,自分の
常識と他人の常識とは違うわけだから,少なくとも(現実的利害を伴わない)
「人としての生き方」みたいな話については,自分の考えを他人にまで押し
付けようとは思わないわけです。「外道の魚を放置すべきではない」と私が
あえて言わないのは,そういう理由によります。