最終更新日: 2004/02/22

 

〜嗚呼,釣り人生(第2回)〜

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時は,1960年代。この頃小学生以上だった人なら,昭和39(1964)年に開かれた

東京オリンピックのことを覚えているだろう。当時は,東海道新幹線が開通して

間もない頃で,山陽新幹線はもちろんなかった。広島から東京へ行くのは大旅行

であり,クラスメイトの中に「オリンピックをナマで見た」という子はほとんど

いなかった。それでもテレビがほぼ全世帯に普及したおかげで,「東洋の魔女」

と言われた女子バレーボール,マラソンで銅メダルを取った円谷幸吉,柔道の

重量級で日本代表が負けてオランダのヘーシングが優勝したことなどは覚えている。

巷には,三波春夫の「東京五輪音頭」や美空ひばりの「柔」や村田英雄の「王将」

などが流れていた。「御三家」の元祖,橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦らも,この

時代に流行っていた。

 

当時と今の子供の生活を比べると,今さらながら隔世の感がある。

ひとつには,住環境の違いがあるだろう。うちの近所は普通の住宅街だったが,

まだ田んぼも残っていて,夜には寝つけないほどカエルの鳴き声が聞こえてきた。

家の目の前には,道路をはさんで左手に田んぼ,右手に空き地があった。

田んぼがあれば,当然そこに水を引く用水路がある。

小学生低学年の頃は,家の近くの小川で遊ぶことが一番多かった。

釣りをするような大きな川ではなく用水路なので,網で魚をすくった。

川底にはマツモやキンギョモがびっしり生えていて,藻の中に網を突っ込むと,

フナの子や川エビが取れた。田んぼでは,メダカやオタマジャクシをすくった。

もっとも,きれいだった小川はどんどん汚れていき,小学校を卒業する頃には

ほとんどドブ川に変貌した。それほど,当時はいろんな面で世の中の変遷の

スピードが速かった。

 

 

その小川を川下へたどって行くと,本郷川に合流する。

本郷川が海へ注ぐあたりには鉄橋がかかっていて,その向こうにはがあった。

堰はコンクリート製で,あまり背は高くない。

一部が壊れていて,潮が満ちてくると堰を越えて海水が川を上っていく。

堰の下部は海に向かって2〜3mくらいの幅の平らな面になっており,

その向こうには落ち込みがあった。ここを方言で「ドンドン」と呼んだ。

この落ち込みで子どもが死んだことがある,と聞かされていたので,

ぼくらはもっぱら,満ち潮に乗ってくる魚を堰の上から釣って遊んでいた。

 

今はもうよく覚えていないが,買ったばかりのリールつきの竿を使っていたと思う。

小学校高学年の頃だろう。エサは,魚屋で二束三文の値で売っている地物のエビ。

もちろん生きてはいない。これを竹皮に包んでもらって海へ持って行き,少しずつ

ちぎってハリに刺して,足元からちょっと先の魚を狙う。

この頃釣れた魚は,ハゼドンコ(ドロメやチチブ。いわゆるダボハゼ)が半々くらいで,

時々ギギ(ヒイラギ)が混じる程度だった。何しろ川の出口なので,そんなにいろんな

海水魚はいない。今と違って,当時はフグは見かけなかった。

 

ただ,一度だけ友達が,珍しい魚を釣った。

マダイの幼魚だ。これを初めて見たときの感動は,今でも覚えている。

タイは赤い魚だという思い込みがあるので,ピンク地に淡いブルーの斑点を見て,

最初は「この魚は何じゃろうか」とみんなで話した。

どうもタイの子供らしいとわかって,皆で大はしゃぎした覚えがある。

当時はまだ砂地が多く,川との境目あたりまでこんな魚も遡ってきていた。

 

環境に恵まれていたのは海だけの話ではなく,堰の向こうに長く続く干潟に

沿った土手の下あたりは,ほとんどが畑と手つかずの原野だった。

この頃の一番きれいな季節は春で,レンゲの赤や菜の花の黄色が映える中で,

ツクシ採りにもよく行った。今もツクシは生えてはいるが,原野が整地された

ために土手の斜面が消えかけていて,昔の面影は全くない。

夏は,強烈な磯の香りと草いきれの中,自転車をこいで土手の先端まで行った。

潮が引くと釣りをやめて,潮干狩りをした。アサリはその気になればいくらでも

取れた。アサリを食べるツメタガイ(ツブ)も,たくさんいた。

原野には野鳥があふれていて,つい最近までこの付近はバードウォッチングが

盛んだったが,野鳥が営巣する場所がなくなったので,いずれは廃れるだろう。

土手をはさんで海と川とに分かれているので,ミミズをエサにして海側で竿を

出すとハゼが,土手の内側の川の方で釣るとフナが釣れたりした。

 

 

ぼくらが小学生の頃に流行っていた遊びは,ドッヂボール,三角ベース,メンコ,

ビー玉,竹馬,プラモデルなど。雨の日は家の中で将棋やトランプや花札をやった。

外で遊ぶことが大半で,うちの家の前の空き地は格好のたまり場だった。

空き地とは言ってもそこは工場の敷地で,ときどきフォークリフトが作業しに来た。

子供らはそこに集まって遊び,目の前の食料雑貨店(うちの八百屋)で,お菓子や

アイスクリームを買って食べた。

 

家の中にあるものも,今とはだいぶ違っていた。

まず,ちゃぶ台。星一徹が引っくり返すようなやつ。

夏に使う蚊帳。冬に使う火鉢七輪練炭

冬は火鉢の上でモチを焼いたり,フライパンを置いて目玉焼きを作って食べた。

ハンドルのついた洗濯機。チャンネルをガチャガチャ回す白黒テレビ。

本箱くらいあるデカいラジオ。オープンリールのテープレコーダー。

 

当時のテレビは,今以上に強い影響力を持っていた。

チャンネル数が少なかったせいもあり,ほとんどみんなが同じ番組を見ていた。

子供にとってはテレビアニメが最高の楽しみで,夕方は毎晩アニメが放送されていた。

マンガ雑誌などに「テレビアニメ放映中」と出ていても,見られない番組がたくさんあった。

東京12チャンネル(今のテレビ東京)で制作された番組だ。当時のアニメは予算が少なく

ほとんど紙芝居のようなものだったが,それでも子供は夢中で見た。

この話をやり出すと際限なくなるので,ここではパス。

 

小学生の頃,「どうしても欲しいもの」が3つあった。

1つは,天体望遠鏡。これは,その後買ってもらえた。

2つ目は,ステレオ。というか,レコードプレーヤー。

雑誌の付録などに時々「ソノシート」というやつがついていた。

アニメの主題歌などを録音した,ビニールのような材質の一種のレコードだ。

プレーヤーがないのでこれを聞けないのは,とても悲しかった。

ステレオ願望は「応接間願望」とも結びついていた。

昭和30〜40年代ごろの「ちょっと裕福な家」には,立派な応接間があった。

毛皮のカーペット,牛革を張ったソファ,高級ウイスキーの瓶が並んだサイドボード,

それにステレオ。うちの家には縁のないものばかりで(八百屋の入り口を入ったら

応接間があった,というのはシュールな光景だろう),「こういう家に住みたい」とか

思ったりした。安いステレオを買ったのはずっと後のことで,その頃には子供時代の

ような憧れはなくなっていた。

 

そして,「子供の頃欲しかったものベスト1」は,投網(とあみ)だ。

これはもう,文字どおり「死ぬほど」欲しかった。

しかし,親父がどうしてもウンと言ってくれなかった。

子供の力じゃ投網は投げられん,というわけだ。

今考えれば確かにその通りではあるが,当時はそんなことはわからない。

干潟や川で投網を投げてわんさか魚を採っている大人を見ては,あれを自分でも

投げられたらなあ・・・と心底思った。

投網に入っているいろんな種類の大小の魚を見せてもらっては,「こんなに魚が

おるのに,同じ場所で釣りをしてもどうして釣れんのじゃろ」と思ったものだ。

大人になった今では自分で買うこともできるが,もう欲しいとは思わない。しかし,

今まで自分が生きてきた中で一番「欲しい」と思った品物が投網であることは

100%間違いないのだ。

 

 

当時の小学生の多くが,学研の「科学」と「学習」という月刊誌を講読していた。

最近レトロ本として復刻したらしいが,男の子はこの「科学」という本から

いろんな「科学っぽい知識」を学んだ。付録も,オモチャの延長ではあるが,

望遠鏡などそれなりに使えるものだった。

理科の勉強の素材も,今よりも身近にあった。

たとえば学校で「顕微鏡でプランクトンを見てみよう」という勉強をすれば,

家の前の田んぼの水をすくってくるだけで,本物のミジンコが生で見られた。

当時は,かなりの子供が地球儀・望遠鏡・顕微鏡などを持っていたように思う。

それから,どの家にもたいてい「百科事典」があった。

マンガ雑誌には「世界の七不思議」とか「UFO特集」などが載っていて,

子供の好奇心は大いに刺激された。テレビ番組でも,たとえばNHKで放送

されていた「ケペル先生」という人形が出てくるやつはおぼろげにしか覚えて

いないが,草下英明(漢字正しかったかな?)が司会を務めていた子供向けの

科学番組「四つの目」は,当時夢中で見ていた。顕微鏡・望遠鏡・赤外線など

4種類の特殊なカメラ(装置)を使って,小学校の授業やそれ以上の理科的

知識を紹介する,一種の教養娯楽番組だった。学校の夏休みの宿題も,昔は

「自由研究」が盛んだった。昆虫採集,植物採集,天体観測・・・われわれの

ような文系人間にも,昔の理科は十分面白かった。

 

今の子供の娯楽と言えば,何と言ってもテレビゲーム。

それにマンガ,ビデオ,テレビ,携帯,インターネット・・・

全部,家の中で楽しむものに限られる。

外で遊べと言われても,昔ほど簡単にはいかない。

まず,空き地がない。塾通いなどで友達が集まりにくい。

子供が外でやる遊びをあまり知らない。そして何よりも,子供の数が少ない。

我々は「団塊」よりは下の世代だが,当時はとにかく子供の数が多かった

小学校ひとクラスの人数が下手をすると50人近くにもなり,同じクラスに

佐藤という同じ苗字の子が5〜6人いたりした。

今の小学校は,どこでも当時の生徒数の半分以下だろう。

だいたい外で遊ぶのは大勢だから面白いわけで,2,3人で外へ出ても

大したことはできない。そういう意味では,昔の子供は恵まれていた。

近所には同級生の友達が大勢いたし,違う学年の子供らも加わって

遊びの集団がたくさんできていた。

うちの家の前の空き地は,同じ学年の子供らの溜まり場だった。

多いときには20人近い小学生が,自転車に乗って集まって来た。

子供が多ければそれを相手にする商売も成り立つわけで,屋台を引いた

オジサンが夏には「アイスクリン」,冬には「田楽」を売りに来た。

田楽は,三角に切ったコンニャクを湯に浸けてあるだけで,それを

甘めの味噌が入ったドンブリにくぐらせて渡してくれる。

1本が10円くらいじゃなかったかと思う。

子供に関係した行事には,夏祭り(おつるぎさん),秋祭り(だんじり),

亥の子さん」などがあった。今も祭りはあるが,子供の数が少ないので

盛り上がらない。第一,今の子供はほかに娯楽がいっぱいあって,祭りに

参加したがらない。昔とはモチベーションが全然違う。

亥の子では家を1軒1軒回ってご祝儀をもらうが,当時はそのお金を

子供らがほとんど山分けしていた。そうなると1円でも多くかせぎたい

ので,自分らの子供会のエリアを越えてよその地区まで回ったりもした。

逆のケースも当然あるわけで,自分らの地区の家を回ったら「さっき別の

子らが来たよ」と言われると,もうご祝儀はもらえない。早い者勝ちだ。

子供にとって,友達が多いというのは,ライバルが多いということでもある。

団塊の世代ほどではないと思うが,我々の世代にも子供の頃からしみついた

競争心のようなものが,今の子供よりも強くあると思う。

公の行事以外に,小学生の頃非常に楽しみにしていたものはほかにもある。

まず,新築の家を棟上げしたときに,「モチまき」がよく行われていた。

施主が建築途中の家の2階に上がり,ご祝儀のモチをばらまく。

集まった人は,争ってこれをキャッチする。一番最後に木札が投げられる。

この札は,酒の一升瓶に交換してもらえる。モチまきには何度も行ったが,

背の低い子供は圧倒的に不利で,ただの一度もモチを手に入れた覚えがない。

我ながら,当時からトロい子供だった。

もう一つ。「ビラを撒くヘリコプター」というのがあった。ただの広告だが,

空から降ってくる紙切れを集めるために,子供らはヘリコプターを追いかけて

遠くまで行ったりした。アドバルーン,サンドイッチマン,ロバのパン屋さん

・・・今では見られなくなった町の風景が懐かしく思い出される。

 

 

海では,大潮の日に「網立て」という一種のお祭りが行われた。

湾に注ぐ川の両岸から,川を横切るように竹竿を並べて立てる。

潮が満ちた頃,その竿にくくりつけた網を張り,川の出口にカーテンを

張るようにして魚の通り道をふさぐ。潮が引き始めると魚は沖へ戻ろうと

するが,建網に遮られて戻れない。その網の近くに集まった魚を,手網で

すくったり潜ったりして捕る。完全に潮が引けば干潟になるが,魚を捕る

のは早い者勝ちなので,大勢が小舟を網の近くにつけて待つ。

ただし,魚を捕っていいのは漁協の鑑札を持っている人だけだ。

この網立てを間近で見たことは1回しかないが,とにかくいろんな魚が

入っていたのには驚いた。シロギスも,このときに初めて見た。

今の松永湾奥部にキスが入ってくることはないだろうが,当時はまだ

砂地がかなり残っていたからだろう。

 

この頃まで,ぼくはまだ「チヌ」という魚をナマで見たことがなかった。

最初に見たのは,小学校5〜6年生の頃だったと思う。

自転車をこいで土手の先端近くまで行き,いつものようにハゼを釣って

いたときだった。ハゼとは違うゴツゴツした引きが手に伝わってきて,

それまで見たことのない形の魚が釣れた。それが,10センチほどの

当歳魚のチヌだった。このときの感激も,はっきり覚えている。

当時は釣れた魚を持ち帰ってはいたが,たいていは親父の晩酌の肴に

なるか,飼っていたネコのエサであり,自分で釣ったハゼはほとんど

食べなかった。しかし,このとき釣れたチヌは煮付けで食べた。

もちろん,美味しかった。ような気がする。

 

考えてみると,当時魚屋で売っていたのは地物の魚だけで,子供の

頃にはあまりいろんな魚を食べた覚えはない。

もちろん,子供だから魚自体があまり好きでなかったせいもある。

記憶に残っているのは,まずサバ。これが一番多かった。次に,メダカ

(メイタガレイ)・マゴチ・ブリ・サケ・イワシ・エビ・イカ・タコ。

タイやチヌも食べていた覚えがある。あとは,アサリ・赤貝などの貝類。

基本的には全部煮付けで,塩焼きの魚はあまり食べていなかった。

塩サンマは食べていたと思うが,生のサンマは売ってなかった。

マグロ・シジミなど,瀬戸内海で獲れない魚介類は当時見た覚えがない。

何より,「寿司屋」がなく(あったかもしれないが子供には縁がなく),

「にぎり寿司」というものを食べた覚えもない。「寿司」と言えば,

バラ寿司(ちらし寿司)のことだった。

食堂と言えば,惣菜を並べた定食屋か中華料理店がほとんどであり,

松永の子供にとって憧れの食事は,「電車で福山まで出て,天満屋で

買い物をして,近くのグリルで洋食を食べる」というものだった。

色とりどりのジュースを入れて噴水の上をふさいだような大きな

容器の中でぐるぐる回す機械も,見るだけで楽しかった。

 

今ではスーパーでショッピングセンターへ行けば生活用品は何でも

手に入る。当時はそれぞれの品物を売る店が別々で,買い物をする

ためには何軒も店をハシゴしなければならなかった。

実家の近所の「町の雰囲気」は,今とは全く違っていた。

住宅より「お店」の方が多く,通りや店にはいろんな匂いが漂っていた。

子供の頃に大好きだった匂いも,いくつかある。

一つは,肉屋の匂いだ。冷凍庫から流れてくる,ひんやりした空気の

感触と何とも言えない芳香を味わいたくて,肉屋へはよくお使いに行った。

それから,自動車修理工場だか鉄工所だかの前を通ると漂ってくる,

機械油のような薬品のような匂い。天ぷら屋で,天ぷらを揚げる匂い。

「天ぷら」とは今で言う練り物(さつま揚げ)のことで,うちの店でも

これを仕入れて売っていた。コロモをつけて揚げたものは「揚げ物」と

言い,これも昼どきになると近所のお客さんが大勢買いに来た。

土曜日など家で昼食を取るときは,オカズはたいてい揚げ物だった。

一番好きだったのは,鯨カツだ。

鯨肉はクセがあって,調理方法次第で美味くも不味くもなる。

筋を切り血を抜いて下ごしらえをしたフライは,最高に美味だった。

 

 

小学校の頃の釣り体験は川と河口付近の海に限られていたので,釣ったことのある

魚の種類はあまり多くなかった。ただ,船釣りに連れて行ってもらったこともある。

覚えているのは1回だけだが,このとき一番多く釣れたのは,トラハゼ(正式名は

クラカケトラギス)だった。キスやギザミや手の平くらいのマダイも釣れた覚えがある。

しかし,何よりも船酔いが辛かった。その後も船に乗ると酔うことの方が多かったので,

船釣りをした経験は今までにたぶん10回もない。船釣りが苦手な最大の理由はそれ

だが,もう2つ理由がある。1つは,なんか「船長さんにコントロールされとる」感じが

するのがどうも・・・。それと,食べきれないほどの数が釣れるのも困る。船でキスとか

小物釣りに行くと,たいていそうなる。料理の手間のことを考えると,ちょっとなあ。

 

 

ぼくらが中学に上がる頃からだったと思うが,南松永の土手の先端を沖へ

伸ばす大掛かりな干拓工事が始まった。現在の松永港入り口の大きな看板が

立っているあたりが当時の海岸線の先端で,そこから先は海だった。

干拓は,まず埋め立てようとする干潟の周りを高い土手で囲んで水を抜き,

そこに土を入れていく。最終的に今の地形が完成するまでに,数年を要した。

この「沖へ伸びた土手」へ,中学生になったぼくらは通うようになる。

 

 

(次回につづく)

 

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