最終更新日: 2004/06/26

 

〜嗚呼,釣り人生(第3回)〜

 ※このコーナーに関する感想などをお寄せください。     ● 掲示板  ● メール  

 


 

 

ぼくらが中学生になったのは,1969(昭和44)年のことだった。

自分の人生の中で「強く印象に残っている年」が,いくつかある。

カープが初優勝した1975(昭和50)年も,もちろんその1つだ。

しかし,「一番鮮明に覚えている年」は,中学1年生だった年だ。

自分にとって特に大きな事件があったわけじゃないが,なぜか記憶に

残っている。生活環境が大きく変わったことも,1つの理由だろう。

ぼくらの通う中学校には,近隣の4つの小学校の生徒が編入された。

小学校の6年間は同じ町内の子供としか付き合いがないので,学年が

変わっても友達関係はあまり変わらない。中学生になると,別の小学校

から来た連中との交流が増えて,隣りの町の友人もできた。

 

 

松永には,町を貫流する川が3つ流れている。西藤〜高須を流れる藤井川

本郷〜今津を流れる本郷川,神村〜柳津を流れる羽原川,の3本だ。

小学校の頃はもっぱら本郷川で遊んでいたが,神村に友達ができたので,

中学の頃はその友達と一緒に羽原川へ行った。幅が数mほどしかなく,

渓流に近い小さな川だ。土手から竿を出すと,ハヤ(オイカワ)が釣れた。

ハヤは産卵期になるとオレンジ色の婚姻色を帯びるきれいな魚で,唐揚げ

にして食べると美味い。ただし当時は川で釣った魚は食べなかった。

羽原川は本郷川に比べると断然きれいな川で,今でも当時と同じくらい

魚が住んでいると思う。本郷川の方は川底を平らにする工事が進んだため,

魚の数は激減しているだろう。羽原川では当時,「ドンコ」もよく見かけた。

海のドンコ(ダボハゼ)に似た,カジカ(の仲間)だ。カジカは清流に住む

ことで知られた魚で,昔はあちこちの川で見られた。

 

 

ぼくらが中学生の頃,この時代を象徴する大きな出来事が2つ起きた。

1990年代における阪神淡路大震災とオウム神理教事件に匹敵する大事件,

と言っていいだろう。この時代を生きた人なら,すぐに思い浮かぶはずだ。

「三億円強奪事件」?--- それもあるが,違う。もっと大きな出来事だ。

すべてのテレビ局が昼夜を問わずえんえんと同じ映像を流し続けたのだから。

 

1つは,「あさま山荘事件」である。正直,何が起きているのか,なぜ

テレビはこの映像しか写していないのか,よく理解できなかった。

ただ,この事件が「時代の象徴」だったことは間違いない。

中学2年生の頃,朝のホームルームだか授業だかで先生が言った。

「みんな,けさの新聞に大きなニュースが載っとるのを知っとるか?」

先生が教室でそんなことを生徒に尋ねたのは,このときだけだ。

たまたま一番前の席に座っていたぼくに,先生が「答えてみい」と言った。

中学生は,朝から新聞なんか読まない。しかしたまたまその日,朝のテレビの

ニュースでアナウンサーがしゃべっていた言葉が,耳に残っていた。

その言葉の意味なんか全く知らないが,ぼくは答えた。

「アンポのジドウエンチョウ」。正解だった。

漢字で書くと,「安保(日米安全保障条約)の自動延長」だ。

先生はこれについて何かの説明をしたと思うが,全然記憶に残っていない。

ただ,当時の学校は(広島県の場合は特に)組合活動に熱心な,わかりやすく

言えば左翼的な思想を持った先生もいて,多少の影響を受けたような気がする。

学校でもらった歌集はロシア民謡が満載だったが,「イムジン河」は大好きな

曲だった。小学校でも何かの行事で合唱した覚えがある。

ついでに言うと,中1の頃「橋のない川」という映画を学校で見せられた。

当時,同じ経験をした人も多いだろう。感想文を書くのが苦痛だった。

子供心に,何かの洗脳を受けているという状況を察知したせいかもしれない。

 

 

2つ目の事件。それは,「アポロ11号の月面着陸」だ。

NASAのヤラセという説もあるが,とにかく当日のテレビはこれ一色だった。

ドラマと違っていつクライマックスが来るのかわからないのでずっとテレビを

つけっ放しにしていたが,肝心のところは見てなかったような気もする。

ただ,それが世界の歴史に残るような出来事であることだけは,理解した。

そして,「月の石」がやってきた。1970年,大阪万国博だ。

「バンパク」は東京オリンピックに匹敵する大イベントで,ぼくらも大阪の

親戚の家に泊まって見に行った。月の石は,行列が長すぎて見なかったと思う。

このとき大阪の親戚の家に何日か泊めてもらったが,夕食で苦労した覚えがある。

ほとんどの料理に「あるモノ」が入っていて,その強烈なニオイのせいで箸を

つけることができなかった。それは,ニンニクだ。家庭の味付けの違いとは

言え,子供には辛かった。今の子供はニンニクも豆板醤もラー油もけっこう

平気で食べているが,小さいうちからああいう強烈な味を覚えると,微妙な

味覚の発達に影響するんじゃあるまいか。

 

ぼくは小学生の頃からマンガが大好きだったが,当時の少年マンガ週刊誌は,

とてつもなく過激な内容だった。その最先端が,「少年マガジン」だ。

横尾忠則のサイケなイラストを配した表紙からして,少年誌とは思えなかった。

「右手に(朝日)ジャーナル,左手にマガジン」と言われたほど,少年週刊誌

でありながら社会的事象と強く結びついていた少年マガジンに当時連載されて

いたマンガは,とにかく「暗い」話ばっかりだった。「巨人の星」の主人公は

不良少女と恋仲になってドロドロの展開になるし,「あしたのジョー」では

ライバルの力石徹が死んで,詩人の寺山修司らが本物の葬儀まで出した。

当時の文化は「エロ・グロ・ナンセンス」と呼ばれ,谷岡ヤスジの「鼻血ブー」

(ヤスジのメッタメタガキ道講座)や,人肉を食うシーンにPTAから批判の

嵐が起きた「アシュラ」(ジョージ秋山)などもマガジンに連載されていた。

ライバル誌の「サンデー」の看板は「男どアホウ甲子園」だったが,こちらも

すごいシロモノで,なにしろ高校生の野球部員が現役のヤクザで,紋付の羽織

袴で長ドスを持って登校して来るのだ。子供がついて行ける世界じゃない。

こうした「少年向け週刊誌の対象年齢の上昇」という流れの間隙を突いて,

新人の本宮ひろ志(「男一匹ガキ大将」)と永井豪(「ハレンチ学園」)の

二本柱を擁する「少年ジャンプ」が台頭し,勢力地図が塗り変わっていく。

釣りと全然関係ない話ですいません。

 

 

音楽関係では,「フォークソング」が流行りだしたのもこの頃だ。

普通の子供が音楽に接するのはテレビの歌番組かラジオを通じてであり,

田舎の子はレコードなんか聞かないので,ビートルズには縁がなかった。

グループサウンズのブームは小学生の頃で,中学生の頃には素朴なフォークが

流行した。「風と落葉と旅人」(チューインガム),「恋人もいないのに」

シモンズ),「風」(シューベルツ),「空よ」(トワ・エ・モア),

なんかが好きだった。高石友也・岡林信康らのメッセージフォークもこの頃

生まれたが,そっち方面に向かうのは高校に入ってからだ。

 

スポーツのテレビ放送は,当時は今よりもはるかに種類が多かった。

プロレスは毎週。プロボクシングも,世界タイトル戦は必ずテレビ放映された。

さらに,ボウリングにキックボクシング。ローラースケートでリンクをぐるぐる

回りながら相手チームの選手を何人抜くかを競い合うゲーム。

スポ根アニメ&ドラマに至っては,野球・サッカー・バレーボール・テニス・

柔道・レスリング・水泳と何でもありで,それらの人気もあってクラブ活動が

今よりずっと盛んだった。今は中学生でもクラブに入っていない生徒が多い。

 

スポーツと言えばプロ野球だが,小学生の頃はまるで興味がなかった。

プロ野球を聞くようになったのは,中学に入った頃からだ。「聞く」のは

カープの中継で,巨人戦以外はTV放送がないのでラジオで聞くしかない。

ところが,昭和43年に安仁屋・外木場の20勝コンビを中心に球団史上初の

Aクラス(3位)になったカープは,翌年,つまりぼくが中学に上がった

年から,6年間ほとんど最下位という最弱の時期を迎える。ちょうど自分の

中学・高校時代と重なっていたわけだ。それでもカープの試合を聞くのが

楽しみで,当時は一時期スコアまで記録していた。

 

テレビ番組はドリフターズとコント55号が大人気で,今ではそういう番組を

流しても若者は見ないかもしれないが,「青春ドラマ」も人気があった。

「青春とは何だ」「これが青春だ」などスポーツ部の仲間の交流を描いた話が

中心で,「おれは男だ」の森田健作や「奥さまは18歳」の岡崎友紀も人気が

あった。森田健作ドラマのヒロインの吉沢京子がCMで食べていたハウスの

「ミルクシャービック」(粉末を牛乳で溶いて製氷皿で凍らせたデザート)が

好きだった。この頃のCMには今も記憶に残っているのがたくさんあって,

小川ローザ(と言えば同年代の人にはわかる)はもちろん,アンクルトリスの

アニメ,サントリーの「ビ〜バ純生」のリフレインが入るCMソング。

そして一番好きだったのは,アニメの「ムーミン」の中で流れるCMだった。

3歳くらいの外人の女の子が,冷蔵庫を開けてグラスに氷を入れ,自分で

カルピスを作って美味しそうに飲む。ただそれだけをアップでゆっくり流す。

あー,たまらん。中学生の頃からこんなんでしたね,わし。(笑)

 

 

釣りの話に戻ろう。

一番古い「釣行記録ノート」を見る。最初の日付は,1970年10月20日。

中学2年生の頃だ。この頃は,秋には南松永の埋立地へほぼ毎週通っていた。

現在の松永港入り口のゲートの向こうには木材置き場などが立ち並んでいるが,

このエリアは昔は全部海で,ちょうどぼくらが中学生の頃に埋め立てが行われた。

工事中だから立入禁止だが,日曜日は工事の人はいないので,干拓地の土手へ

入って投げ釣りをした。道具は,リールつきのグラスロッドを2〜3本。

投げ釣り用の竿は当時はほとんど並継ぎで,振り出しの竿は持ってなかった。

リールは今よりも頑丈で重く,高級品というイメージだった。仕掛けの工夫

などはこの頃は全く頭になく,道糸5号・ハリス3号・ハリは流線の13号と

いうような,今思えばムチャクチャなものだった。ちなみに,この10年くらい

後によく使っていた投げ釣り仕掛けでは,道糸は2号・ハリスは1号・ハリは

袖型の5号になっていた。

 

この埋立地の土手から釣れる魚は,ほとんどハゼだった。記録では,だいたい

1回の釣行でハゼを1人が30〜50匹ほど釣っている。そのほか釣れた記録のある

魚は,ギギ(ヒイラギ)・セイゴ・ウナギ・チヌ・カレイ・マゴチ・タコ・カニなど。

型はどれも小さいが,魚種はけっこう多かった。この年の11月23日の記録には,

友達と二人でハゼ・グチ・イワシ・コチ・シャコ・アナゴを釣った,とある。

シャコやアナゴはふつう夜に釣れるが,工事中で環境が変わったせいだろうか。

釣った魚は基本的に家へ持ち帰ったが,自分ではあまり食べずに親父の酒の肴か

猫のエサになった。小骨の多い魚が好きでなかったこともあるが,何となく

気持ちが悪かった。奇形魚が時々釣れたからだ。背骨の曲がったハゼやグチを

見ると,この頃大きな社会問題になっていた「公害」のことが頭に浮かんだ。

実際,当時の瀬戸内海は「死の海」と言われ,今よりも汚染はひどかった。

しかし今と違って「釣ること」にしか興味がないぼくらは,毎週のように

松永湾最奥部の汚れた海で釣りを楽しんでいた。

 

 

自分の人生を「釣り人生」と呼ぶことには何のためらいもないが,人様に誇れる

ような立派な釣果を上げたことはほとんどない。身近に釣り好きな大人がいて,

子供の頃から遠くへ出かけて大物を釣り上げるような釣りのスタイルを知って

いたら,たぶん今とは違った「釣り人生」になっていただろう。しかし親父は

釣りにはほとんど関心がなく,たまに誘われて船釣りに行く程度だった。

親父は若い頃から「盆栽」ひとすじの人で,息子とはまるで趣味が違う。

だから当時の釣行先は近場に限られていたが,それで十分満足だった。

 

松永湾には今でも,材木のイカダがたくさん浮かんでいる。当時は,子供が

このイカダの上に乗って釣りをしても,怒られることはなかった。イカダの

上だと竿を使う必要はないので,糸巻きに巻いた道糸にオモリとハリをつけた

だけのシンプルな仕掛けをあちこちに沈めておき,順番に上げていくと魚が

掛かっている,というスタイルの釣りをよくやった。エサは当時は基本的に

釣具店で買ったコガレイ(ウチワゴカイ)を使っていたが,弁当の残りの

ゴハン粒やカマボコでもハゼが釣れた。形が同じならこれでも釣れるか?と

思ってケシゴムをハリにつけて試したこともあるが,さすがにダメだった。

 

自転車で15分ほどの柳津方面でも,竿を出した。小さな木製の桟橋の上から

2〜3mほど下の海面を見ると,大きな細長い魚が泳いでいた。ウキ釣りの

仕掛けを出してコガレイをエサにして釣ろうとするが,なかなか食わない。

ハリを小さくしてエサも小さくしてやると,掛かった。しかしハリスが

細すぎて魚の重量を支えきれず,抜き上げようとするとハリスが切れた。

ハリスを太くしてどうにか釣り上げた魚は,体長が40センチくらいあった。

そんな大物を釣ったことがないので家へ持ち帰ったが,結局この魚,

すなわちボラは,猫のエサになった。当時,魚の値打ちの違いは知らない。

大きいサイズの魚が釣れたら,それだけで満足だった。一番幸せな時期

だったと言えよう。

 

 

そして,ひとつの「転機」が訪れた。

ハゼの釣期は秋が中心で,春はほとんど釣れない。

そこで,中3になったぼくらは,ちょっと足を伸ばしてみることにした。

自転車にクーラーを積んで竿の袋を肩にかけ,柳津から藤江,浦崎を過ぎて

常石へ。ここまで行くのに30〜40分ほどかかる。常石港からフェリーに乗り,

横島の坊地港へ行った。ここの桟橋や,今の坊地旧波止で竿を出した。

当時はもちろん内海大橋はなく,交通手段はフェリーしかない。

田島と横島を結ぶ今の「睦(むつみ)橋」は,当時は木製のはね橋で,

水道を船が通るときには両側からクレーンで橋を持ち上げていた。

島には釣具店があったかもしれないが当時は知らず,途中でエサが切れて

友達が本土の釣具店へ戻って買って来ようとしたら,船を間違えて百島に

着いてしまった,ということもあった。

 

横島へ渡って最初に感じたのは,海の水の色が松永湾とは全然違うことだ。

これがホンマの海か,と思った。松永湾は底が砂泥地で水は茶色だが,

横島の海はきれいに澄んで青かった。桟橋の上からのぞくと,海草の

際にたくさんの小魚が見えた。中には,手の平くらいのチヌも見える。

あれを何とか釣りたい。しかし,エサを入れても反応はない。

網ですくおうともしたが,当歳魚のアブラメ(アイナメ)がたまに

入る程度だった。もっとも,アブラメでさえこのとき初めて目にした。

そして,この桟橋で初めて釣れた魚が,キスであり,ギザミだ。

「なんときれいな魚じゃろうか」というのが第一印象だった。

ちゃんとした海にはこんな魚もおるんじゃな,という感動があった。

釣れた魚は持ち帰って,今度は自分でも食べた。

 

 

そういうわけで行動範囲も徐々に広がりはしたが,相変わらず釣行先は

ほとんど松永湾だけで,しかも年中というわけでもない。釣りに行かない

休日は何をしていたか?と思い出そうとするが,どうにも記憶にない。

クラブ活動?いや,それはない。中1で入ったテニス部は半年でドロップ

アウトして,中2では「計算尺部」というわけわからんクラブに入れられ,

中3のときは単なる帰宅部だった。日曜日に友達と遊ぶときはほとんど

釣りに行っとったはずじゃし・・・。なにしろ田舎のことで文化的な趣味には

縁がなかった。映画?もはや松永の映画館は全部閉館し,生徒だけで一般

映画を見ることは禁じられていたので,映画館へ行った覚えはない・・・

いや,1回だけあったか。福山の映画館で,有名なアメリカ映画を見た。

タイトルはここまで出かかっとるけど,思い出せん。現代版のロミオと

ジュリエットと言われた,ミュージカル映画だ。友達に誘われて行った

(もちろん校則に違反して)が,当時の自分にはレベルが高すぎた。

まあ,今見て面白いと思うかも疑問ではあるが。

コンサートとか,観劇とか,美術館とか,そういうものに接したことは

この当時は全くない。今にして思えば,子供の頃の文化体験がないことが

大学生以降の生活や交際でハンディになった面もあるかもしれない。

しかしまあ,当時の田舎の子供はみんな似たようなもんだろう。

 

というわけで,大物に縁のない中学時代を経て,人生釣りひとすじのヒトの

釣りライフはいよいよ,高校時代に入っていく。

なお,高校生になっても大物に縁がないことには変わりはない・・・

 

 

(次回につづく)

 

嗚呼,釣り人生(第2回)へ         釣り随想のトップへ戻る