最終更新日: 2005/08/14

 

〜嗚呼,釣り人生(第4回)〜

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きのう,高校卒業から30年を経て始めての同窓会(学年会)があった。

名札を見ても,昔の顔が思い浮かばん人が半分くらいいた。高校時代とほとんど変わって

ない人もいるが,まるで面影のない人もいて,全員同い年とは到底思えない。

考えてみるとわれわれも,世間で言う定年まであと10年かそこらしかない。

あと10年頑張ればのんびり釣り三昧・・・と言いたいが,退職金が手に入るわけではないので

(自分で自分に退職金を出してもしょうがない),仕事と手が切れるのがいつになるかは

わからない。その前に,いつまで仕事の依頼が来るか・・・というような話は置いといて,

今回は高校時代について書く。

 

 

しかし実は,記録によると高校時代は,年に10回くらいしか釣りに行っていない。

休日は何をしていたかあまり記憶にないが,たぶん昼ごろ起きて,終日ゴロゴロするか塾にでも

行っていた(と思う)。今と違って土曜日も半日授業があり,友達と遊ぶ時間は限られていた。

 

高校時代に学校で何をしていたか?と,頭に浮かぶ順に書き並べてみる。

高1のときはクラスで将棋が流行っていて,休み時間はミニ将棋版で将棋を指していた。

高2からはトランプで「ナポレオン」ばっかりやっていた。もちろん将棋やトランプを学校に

持って来るのは校則違反だが,(たぶん)大目に見られていた。修学旅行に麻雀牌を持って

行っていいか?と先生に聞きに行った連中がいたが,さすがにこれは認められなかったようだ。

授業の空き時間とかには,よくソフトボールをやっていた。クラス対抗の球技大会のような

ものがあったので,その練習のためだ。考えてみると小学生の頃も,子供会活動でソフト

ボールチームに入っていた(もちろん補欠ですけどね)。今はどうか知らないが,当時の

男の子の遊びの中心はソフトであり(サッカーはまだマイナーなクラブ活動の一つだった),

バットの振り方やボールの捕り方などは誰でもひととおり練習していた。しかし,就職して

職場対抗のソフトボール大会とかに参加すると,我々よりもひと回り上の世代の人たちの

レベルは全然違っていて,戦後生まれ世代は全く歯が立たない。その先輩たちはどうも

娯楽も何もない終戦の焼け跡の草野球とかに熱中した世代らしく,鍛え方が我々とは全然

違うのだった。今の子供らはゲームやカラオケは上手いんだろうが,キャッチボールも

やったことのない男の子がおるんじゃなかろうか。

 

次に思い出すのは,高2か高3の頃だったかと思うが,クラスでよく歌を歌っていた。

「クラスの歌」というのを月単位くらいで決めて,朝のホームルームなんかで歌う。

こう書くといかにも異様だが,当時はぜんぜん違和感はなかった。歌声喫茶というものに

行ったことはないが,そういうノリである。曲は「遠い世界に」や「翼をください」や,

たくろうの「どうしてこんなに悲しいんだろう」とか,いわゆるフォークがほとんど。

修学旅行のバスの中でも,手作りの歌集を手に終始歌っていたような気がする。

「春夏秋冬」(泉谷しげる)や「夢の中へ」(井上陽水)もその歌集で覚えた。

高2の文化祭では,クラス対抗の出し物として当時流行っていたテレビの青春ドラマの

主題歌「帰らざる日のために」(いずみたくシンガーズ)を全員で合唱した。

アングラフォークが好きな奴もいて,「くそくらえ節」(岡林信康)や「悲惨な戦い」

(なぎらけんいち)のテープをクラスで回し聴きしていた。

 

 

そういう理由もあって,ラジオはよく聞いていた。当時のRCCラジオ(中国放送)には,

夜の10時ごろ「パンチ・パンチ・パンチ」という若者向け番組があった。DJはくず哲也

という人で,モコ・ビーバー・オリーブの3人がレギュラー出演者。モコはその後DJに

転身し,ひろしまFMでもお馴染みになった。彼女が「あなたのモコ,高橋基子です」と

いう語り出しでDJを勤めた「マクセル・ユア・ポップス」が,一番好きな番組だった。

10分か15分の短い番組で,日替わりでいろんなフォーク歌手の曲を2曲くらい紹介する。

これをラジカセで録音して編集し,好きな曲だけ集めたテープが何十本にもなった。

このHP中の「私家版・フォーク大全集」中の歌手の大半は,この番組で初めて聴いた。

印象に残った曲は山ほどあるが,一番衝撃を受けたのは,五つの赤い風船の「まぼろしの

翼とともに」だ。独特の旋律とボーカル・藤原秀子の声にインパクトがあった。

そのあと11時からは,「日立・ミュージック・イン・ハイフォニック」という音楽番組

あった。クラシック・ジャズ・ポップス・ニューミュージックなど何でもありの番組で,

視聴者が特定のテーマ(たとえば「雨にちなんだ曲」とか)に沿って自分で好きな曲を

数曲選んでリクエストするコーナーが面白かった。大石吾郎の「コッキー・ポップ」も,

たしか11時台の時間帯だった。「春うらら」や「夢想花」がリアルタイムでヒットして

いた頃だ。中島みゆきが「時代」でデビューするのは,もう少し後になる。深夜放送と

言えば普通は「オールナイト・ニッポン」ということになるが,夜中に起きて勉強する

という習慣がなかったので,この有名番組はほとんど聞いたことがない。

 

受験生とラジオと言えば,高石友也の「受験生ブルース」にも歌われた,旺文社のラジオ

講座がある。しかし,文化放送は受信状態がよくなく(特に夜遅くなると北朝鮮のラジオ

電波と混線して)ラジオで聞くのは難しかった。学校にはラジオ講座のテープが置いて

あって,図書館でそれを借りてLL教室で聞いていた友達もいるが,レベルが高すぎて

(特に数学)ついて行けなかったのを覚えている。当時(今も?)理系で成績のいい

連中は「大学への数学」というハイレベルな月刊誌を読んでいて,それに対する文系の

雑誌としては「高校英語研究」「受験の英語」などがあった。仕事がら当時の雑誌もまだ

持っているが,改めて読むと当時の大学入試問題は,今よりはるかに難しかった。

英語の場合,暗記事項が今よりも格段に多く,それこそ重箱の隅をつっついてウルシを

剥がしてしまうような難問奇問がたくさんあった。ここで英語の話をしてもいかんのだが,

この問題,誰か解けるかい?

 

He is as (     ) as a church mouse.

 

問いは「カッコ内に適当な単語を入れよ」。某国立大学二次試験(当時はセンター試験も

共通一次もない)で40年くらい前に出題された問題だ。これはいわゆる「直喩」を使った

慣用表現で,たとえば as white as snow(雪のように白い)とかいうやつだ。この問題を

日本語に直すと「彼は教会のネズミのように(     )」。正解は,poor(貧しい)である。

こんなん知るかー!!・・・というような,ヘンな入試問題が当時はゴロゴロあったのよ。 

 

 

中学・高校時代と言うと,クラブ活動も思い出深い。もっとも運動部ではなかったので,毎日

活動していたわけではない。高校時代に入ったクラブは,「天文部」というところだった。

釣りクラブというものがもしあれば,当然そっちに入っただろう。しかし,天文部は仕方なく

入ったクラブではない。子供の頃から星を見るのが好で,小学生の頃は「将来は天文学者に

なりたい」とか思っていた。天文学が理系の学問であるとは,当時は知らんかったし。

中学の頃,「天文ガイド」という雑誌の存在を知った。バックナンバーが欲しくて,東京に

住む叔父に頼んでその会社を探してもらった。しかし,本の裏表紙に書いている住所のあたり

へ行っても,その本の出版社「誠文堂新光社」という会社はどうしても見つからなかった,と

叔父に言われた。出版社というのは,どこでも立派なビルを構えて大きな看板を掲げている

ものだ,と信じていたのですね,当時は。

 

で,天文部に入り,念願の天体望遠鏡を買ってもらった。値段は覚えてないが,相当高かった。

天体望遠鏡は,「屈折式か反射式か?」「経緯儀式か赤道儀式か?」の組み合わせによって,

大きく4種類に分けられる。ぼくが買ってもらったのは,「屈赤」つまり屈折赤道儀である。

小学校などの天体観測で先生が使わせてくれるのは,たいてい反射鏡だ。土管(今の子は

知らんか)を小さくしたような太い筒の上部に小さい接眼レンズがあり,主鏡は底にある。

つまり,底に反射して星の光を筒の入り口近くに集めて見るタイプの望遠鏡である。

反射式望遠鏡には,いろんな利点がある。まず,楽な姿勢で(直立して)観察できる。

したがって星の追尾も簡単である。さらに決定的なことは,同性能の屈折望遠鏡より安い。

それでも屈折望遠鏡にこだわったのは,反射望遠鏡のフォルムが好きでなかったからだ。

いかにも素人ですね。でも望遠鏡いうたら,やっぱりああいう形(屈折式)でないと。

 

で,クラブでは何をしていたかと言うと,平日はほとんどすることがないのである。

当たり前だ。昼間に星は見えんし。自分で撮った写真をクラブの暗室で現像するくらい。

しかしぼくは,クラブの暗室はほとんど使わなかった。写真屋さんに頼む方がきれいなので。

フィルムの感度は,ASAという単位で表す。普通のフィルムはASA100だが,天体

写真にはASA400とか800とかの高感度フィルムを使う(トライXなど)。

誰でも撮れる天体写真は,三脚にカメラを固定してしばらく露光させておく方式だ。

これは星の軌跡が線になる。天文部員は,そんな写真は撮らない。アダプターでカメラを

望遠鏡のレンズに直結して,視野の中に星を入れた状態で追尾しながら長時間撮影を行う。

手順は,こうだ。まず望遠鏡を天の北極(北極星の近く)に向け,座標を合わせる。

ついで,筒を適当に回転させて目標の星をレンズに入れる。星は動いているので,望遠鏡

を固定しているとすぐに視野から外れていく。手元の2本のハンドルを操作しながら筒を

少しずつ動かし,目標の星が常に視野に入っているようにする。こうして時間をかけて

露光すれば,カメラがより多くの光を捕らえるので,暗い星まで写る。露光時間が長い

ほど美しい写真が取れるが,屈折望遠鏡の場合は姿勢が窮屈になる(ずっと上を向いた

ままでレンズを注視しなければならない)ので,30分から1時間くらいが限度。しかも

最初の座標合わせがたいてい不正確なので,ハンドル操作にやたら手間がかかり,気の

休まるひまがない。ある意味,釣りに似ていなくもない。

しかし,そうやって苦労して撮影すると,土星のリングとか,木星の縞模様や衛星とか,

オリオン座の大星雲(三ツ星の下にある。写真では濃いピンク色のベールのように写る)

なんかが,きれいに撮影できるのである。これはなかなか感動モノだ。

 

ただし,うちの近所は市街地なので,自宅のベランダから撮影するのは難しい。

そこで,親父の車で近くの山や海へ運んでもらい,1時間後に迎えに来てくれるよう頼んで,

ひたすらレンズをのぞきこむ,というようなことをやっていた。一度,埋め立てて間もない

南松永の南端の材木置き場に望遠鏡を運んで観測していたら,ドーベルマンらしき大きな

犬に吠えつかれて,あわてて材木のスキマに隠れたことがある。あれは怖かった。

海がすぐ近くなので,星を見ているとボラやスズキがバシャバシャ跳ねる音が聞こえてきて

けっこう気が散る。天体観測と釣りを同時に楽しむこともできなくはないが,それはやった

ことがない。そう言えば,当時は近所の釣具店に「エサの自動販売機」というものがあって,

店が閉まっている夜中でもエサが買えた(エサの種類は限られていて,ほとんどが青虫。

しかも活きはかなり悪い)。あの機械,今でもどっかにあるんかな?

 

福塩線に,湯田村という無人駅がある。ここに住んでいるクラブの先輩の案内で,付近の

山で合宿をしたことがある。テントは用意してあるが,ひと晩中起きていて星を観測する。

さすがと言うか空は真っ暗で,文字通り降るほどの星空だった。降る星を見に行ったのだ。

そのときは,確かペルセウス座流星群の観測をした。みんなで寝転がって天を仰ぎ,星が

流れたらその軌跡や時刻などを星図に書き込む。おまえは西の空,あんたは南の空,とか,

あらかじめ見るエリアを分けておく。1人がひと晩で観察できるのはせいぜい数個だが,

そういうことに楽しんでいた時代もあったのだなあ。このときテントの横に置いてあった

ラジオからは,たくろうの「お伽草子」が流れていた。天体望遠鏡は今でも実家に置いて

あるが,もう30年近く触っていない。

 

 

高校の頃の釣りの思い出というのは,実はほとんどない。

一度,理科の実習で仙酔島へ行ったことがある。目的は一応地層の観察だったが,一種

遠足のようなものだったので,釣り竿を持参してもOKだった。しかしエサが買えずに

困っていたとき,一般の釣り客が何やら入れ食いのように魚を釣り上げていた。それが,

そのとき初めて見たサヨリだった。エサを少し分けてもらって釣ってみたが,持っていた

一番小さいハリが袖の5号(ハリス0.8号)だったためにさっぱり釣れず,かろうじて

エンピツサイズが1匹釣れた。ハリを外そうとすると,口の中から何やら虫が出てきた。

「おい,なんか虫食うとるで」「これをエサにして釣ってみたらええんじゃないんか」

というわけで,サヨリのエラにくっついていた寄生虫をエサにしてやってみたが,まるで

釣れなかった。当たり前ですね。知らんということは恐ろしい。

 

夜釣りというものを,中学の頃はほとんどやったことがなかった。高校に入ると,友達同士

で夜釣りに行くのはもちろん無理だったが,友達のお父さんに連れて行ってもらうことは

時々あった。行き先はたいてい田島・横島だが,当時はまだ内海大橋はなく,完全な泊まり

ということになるので徹夜で釣っていた。釣り日記を見ると,内海中学校前の波止で大きな

ウナギを釣った,とか書いてある。もう30年以上前のことだ。

この頃は日曜日の昼間に,親父の車で釣り場まで運んで行ってもらったりもしていた。

うちの親父は釣りはやらず,趣味の盆栽に使う松の木を調達するために,山へ入っていく。

たとえば横島あたりへ連れて行ってもらうときは,息子は海へ,親父は山へ,という感じ。

もっともあのへんは瀬戸内海国立公園なので,勝手に山の木を切ったらいけんかったらしい。

あとは,海水浴のついでに向島や走島で竿を出したりもしたが,釣れる魚はほとんどキス・

ギザミ・アイナメなどの小物オンリーで,高校時代に釣りで特に印象に残る経験はない。

もっとも,1日の釣果がそういう小物数匹ぐらいでも,当時は十分満足していた。

これも高校時代だと思うが,初めて浦崎・池上木材の波止へも行った。当時はチヌ釣りが

盛んで,実際かなり釣れていたが,何より驚いたのは水がきれいだったことだ。高校時代

はまだチヌ釣りには手を染めていなかったので,この話は別の機会に譲る。

自分の釣り人生を大まかに分けると,こんな感じになる。

 

・ハゼ釣り期(小〜中学生)

・普通の投げ釣り期(高校〜20代)

・ヘラブナ期(大学)

・ダンゴ釣り期(大学〜30代)

・かぶせ釣り期(40代〜)

 

それぞれは多少オーバーラップしているが,それぞれの時期に思い出がある。

一番印象が薄いのはやっぱり高校の頃だが,まあこの頃は釣り以外にいろいろとやることが

あったし。個人的なことを書いても本人以外は面白くないのでパス。今回の記事はこれで

おしまい。次回,大学編からは,釣りの話を中心に書けるだろう。アップはまた1年後か?

 

 

(次回につづく)

 

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