師匠のことB−NHKのテレビ取材

 

 

2002年4月17日,NHK広島支局のディレクターさんから電話がかかってきた。

「お好みワイド広島」という広島県内向けのニュース番組の中の「広島再発見」という

企画コーナーで,師匠とぼくの出会いのことを取り上げたい,という内容だった。

メールでもらった番組の趣旨を読んでみると,単なる「出会い」「思い出の場所」という

要素に加えて,「かぶせ釣りの情景」をテレビで見せたい,という判断も働いたらしい。

そのディレクターさんも多少釣りをするとのことで,このHPを見て思いついたらしい。

もちろん,すぐに了解の返事をした。

 

そもそもこのホームページを作ろうとした動機は,2つあった。

1つは,かぶせ釣りを通じて自分が味わった喜びを,より多くの人たちと分かち合いたかった。

もう1つは,そういう喜びを自分に教えてくれた人がいたという事実を,何かの形でこの世に

とどめておきたかった。

だから,ホームページのコンテンツを作るとき,「師匠のこと」の記事を真っ先に書いた。

今回テレビで天神波止と師匠の姿が流れると思うと,感慨無量で言葉もない。

いつかこういう日が来ることを漠然と期待してはいたが,その日の訪れは意外なほど早かった。

 

 

取材の趣旨から考えて当然,魚が釣れた方がいい。

釣りのことを考えると,早朝から竿を出すのが一番いい。

はるばる広島から申し訳ないが,早朝から来てもらうことにした。

4月23日の午前6時に天神波止で落ち合うことに決定。

ちょっと時期が早いのでどうかな・・・と思いながら,当日の取材に臨んだ。

 

事前の打ち合わせでは,当日のスケジュールはおよそ次のような予定だった。

@ 朝6〜8時ごろまで,天神波止で「魚を釣り上げた場面(!)」を撮影する。

A 万一天神波止がダメなら,別の場所でとにかく魚を釣り上げる。

B その後天神波止で簡単なインタビュー。

C 仕事場へ行き,ホームページを作っている場面を撮影する。

D 師匠の実家へ行き,写真をお借りする。

 

予定どおり事が運べば,昼過ぎには全部終わるだろう。

 

当日は朝から曇り空。

5時半ごろ現地に着き,釣りを始めた直後にスタッフの皆さんも来られた。

広島を4時に出発したが,道が空いていたので早く着いたとのこと。

ディレクターさんとカメラマンさん・照明さん,それに車を運転してこられた方を入れて4名。

こういうふうにテレビの取材を受けるのは,もちろん初めての経験になる。

マイクを取り付けたり,曇り空なので照明を用意したり,三脚を置ける場所を探したり

・・・素人から見ると,けっこう大掛かりな準備に見える。

何よりもカメラマンが女性の方で,重たいカメラを担いでじっとこちらに向けているのが

申し訳ない。何とか早く魚を釣り上げて楽にしてあげたい・・・

 

が魚はなかなか釣れず,5時半から8時近くまで釣って,

小ぶりのアイナメとチヌが1尾ずつ釣れただけだった。

何とかまともな魚を釣り上げる場面を撮影したいということで,内海大橋を渡って

沼隈の能登原波止へ移動。

ここで釣り始めてすぐに大型のコブダイが掛かったので,どうにか格好がついた。

 

釣りの詳しいレポートはこちら

 

9時半ごろ,再び天神波止へ戻った。

今までの撮影は「魚が釣れるところ」を撮るのがメインだったが,

今度は「釣りをしている姿」を詳しく撮るという。

その前に,波止に座ってインタビューを受けた。  

だいぶ長い時間をかけて,いろんなことを質問された。

まだ他の釣り人がいるので,ちょっと恥ずかしい。

急に雨が降ってきた。

テレビには雨は映りにくいそうだが,カメラマンさんは大変だろう。

結局この雨は,その後一日中降り続いた。

インタビューの後,カキのカラを割ったりサシエを投入したりする場面をしばらく撮影した。

今日はテレビ的演出のひとつとして,波止に花を供える場面を撮影することになっている。

師匠の亡くなった年とその翌年の命日には,この波止で同じように花を添えた。

ただ,他の釣り人がいるとムードが出ないので,午後から出直すことになったらしい。

取材スタッフは,遠くへ行ったり近くへ来たり,いろんな角度から天神波止を撮影している。

実際にテレビに映るのは数分でも,回したフィルムは何時間分にもなるだろう。

スタジオに戻ってからあれを全部見て,適当な場面をつなぎ合わせて編集するかと思うと,

どれほど膨大な時間がかかるのか,素人には想像もつかない。

 

10時を回ってから,仕事場へ移動。

パソコンでホームページを作っている場面を撮影した。

師匠の写真は,いつも部屋に飾ってある。

月刊釣り情報に載った最後の写真の拡大コピーと,亡くなったときの新聞記事のコピーを

小さな額に入れてある。師匠の写真は,これ1枚しか持っていない。

師匠が何度も釣り情報誌に紹介されたことは後で知ったが,その気で見ていなかったので

昔の雑誌は全部捨ててしまっている。

この額をパソコンの前に置いて,キーを叩いている場面を撮影。

その後,またインタビューを受けた。

内容は部分的にしか覚えていない。どうせ大半はカットされるだろう。

放送されない分も含めて,覚えている範囲内で言うと,次のような答えをしたと思う。

 

「最初に橘高さんと出合ったとき,どんな印象を受けましたか?」

⇒ 最初に会った日は言葉を交わさなかったが,技術の高さは一目でわかった。釣り番組なら

ここで技術論をいろいろ言うところだが,一般向けなのであまりコメントできなかった。

 

「橘高さんは一口で言うと,どんな人でしたか?」

⇒ 釣り人としての向上心が旺盛な人だった。他の人がやらない工夫をいろいろ重ねた結果,

独自のスタイルを編み出したわけだから。質問した方は別の答えを期待していたかもしれない。

釣りを通じての付き合いなので,どうしても「釣り人としての性格」に関心が向いてしまうのだ。

※釣り人としての美点がそのまま一般的なほめ言葉になるとは限らない。たとえば,かぶせ釣り

は非常に集中力を要する釣りなので,釣りをしている最中にお互いベラベラ喋ったりはしない。

だから「話し好き」だとか「愛想がいい」とかいう形容は当てはまらない。当たりがないときなどは

手を休めていろいろ話をしたが,なにしろほとんどは釣りの技術論や情報交換で,釣り以外の

日常生活はお互い全然知らなかった。釣り場ではよく自分の身の上を語りたがる人もいる。

そういう人はたいてい,釣りそのものにはあまり熱心でない。そういう意味で言えば師匠は,

職人気質というか,根っからの釣り人であったことは間違いない。

 

「橘高さんの釣りはどういう点が上手だったのですか?」

⇒ わかりやすく説明するのは難しい。他の分野と同じように,釣りの技術にもいろんな要素がある。

その1つ1つが少しずつ他の釣り人よりレベルが高いわけで,その積み重ねが最終的に大きな

差になって現れる。これ以上は釣り番組でないので説明できなかった。

 

「橘高さんからはどのように釣りを教えてもらいましたか?」

⇒ 「手取り足取り」ということではない。大工さんや板前さんと同じように,「先輩の姿を横で見て

真似をしながら仕事を覚えていく」という感じに近い。言葉で説明すれば簡単でも,実際にやって

みないと身につかない。師匠も,人から問われたらそう答えていた。

 

「かぶせ釣りの魅力は,どんな点ですか?」

⇒ 一生懸命説明しようとしたんだけども,うまく言えなかった。釣りをやらない一般の人に,

どれだけこの釣りの魅力をわかってもらえるかわからない。最初に出てきた言葉は「適度に

釣れる。釣れすぎない」ということで,そのあとは何を言ったかよく覚えていない。

 

「橘高さんからは,釣り以外でどんな影響を受けましたか?」

⇒ 一生続けられる趣味を見つけることができた,というのが,たぶん師匠から受けた一番の

影響だろう。大げさに言えば,生き方の面でも影響を受けている。師匠のライフスタイルという

のは,「毎日釣り場へ通って,必ず晩のおかず程度の魚を釣って帰る」というイメージだった。

釣り人としてそういう姿が理想だと思うようになったのは,師匠と出会ってからのことだ。

それ以前はどちらかと言うと釣果第一主義で,たくさんの数の魚を釣り上げることが目的だった。

かぶせ釣りでは爆釣ということがあまりないので,1尾の魚が釣れたときの喜びがそれだけ大きい。

こういう釣りに慣れると,何と言うか,身近なところで小さな幸せを見つける喜びのようなものを

感じるようになる。もちろん師匠にしても,魚を釣りたいという欲は当然あっただろう。ただ,毎日

同じ場所で同じように釣りをして十分満足できるというのは,それはそれで幸せなことだろうと思う。

そして,いつものように釣りをした帰りに,事故で亡くなったわけだ。亡くなった事実は悲しいが,

釣り人としては理想の死に方と言っていい。自分も年を取ったらああいうふうに暮らしたい,と

いう目標ができたことも,師匠のおかげだろうと思う。

 

「橘高さんが亡くなったとき,どんな気持ちでしたか?」

⇒ たぶん放送はされないだろうが,こう答えた。「その少し前に義父が亡くなりましたが,その

ときよりずっと悲しかったです」・・・ 実際,その通りの気持ちだった。師匠のことを知っている

常連さん(とりわけ弟子)たちも,当時は大きなショックを受けていた。

 

「橘高さんとの付き合いの中で,一番印象に残っていることは何ですか?」

⇒ 師匠が亡くなった日,事故のほんの2〜3時間ほど前に天神波止で話しこんだ時のこと。

師匠から「あんたの方がワシより上手になったのう」と言われた。そのときはもちろん,何を

言いよってんね,と答えた。実際,今でもぼくの腕は師匠の足元にも及ばないと思っている。

ただ,後で振り返って思えば,あれが師匠の後を継ぐひとつの儀式のようなものだったと思え

なくもない。師匠に認められたことが嬉しいと思うと同時に,師匠の技術をこれからも伝えて

いかねばならん,と,亡くなってしばらくしてから思うようになった。そのことが,このHPを作る

大きな動機の1つになったことは言うまでもない。

 

その後近くのファミレスで昼食を取ってから,また天神波止へ。

さすがに誰もいなくなっている。

ここで,波止に花を供える場面を撮影。

そのあと,海を眺めて物思いにふけっているポーズを撮影。

実際の番組では,これにカッコええナレーションがかぶさるんじゃろうなあ。

最後の締めの場面に使うということで,波止からの海の景色を撮る。

「船かカモメかなんかがほしいね」とディレクターさん。

「さっきカモメが飛んでましたよ」とカメラマンさん。

ほどなくカモメが飛んできた。カモメに出演してもらって,無事撮影完了。

さらに睦橋の上からも波止の遠景を撮影。

帰りには,内海大橋手前の喫茶店の駐車場から田島を撮影。

その後,赤坂にある師匠の実家へスタッフの皆さんを案内した。

テレビで放送するのに,大きな写真が必要なので。

天神波止で45cmのチヌを持って笑っている師匠の大きな写真を,また見せてもらった。

ただ,考えてみれば当然だが,師匠の釣りをしている姿が映った写真はない。

どうせなら自分が死んだら,釣り場で撮った写真を遺影として飾ってほしい。

元気なうちに,誰かに撮影してもらっておこう。

 

取材が全部終わって仕事場に戻ると,午後4時近くになっていた。

魚も釣れて,取材は一応無事に終了した。イスに座ると,疲れがどっと出た。

インタビューは,釣りの話中心になってしまったので,あまり使えないかもしれない。

振り返ってみると,やはり師匠とぼくの関係は,純粋な釣り人同士の師弟関係にすぎない。

「人生の師」というような濃い関係ではないだろう。しかし,師匠を通じて入ったかぶせ釣り

の道は,あまりにも多くのものを自分に与えてくれたし,そういう意味では師匠との出会いが

自分の人生の一つの転機になったと,大げさでなく言える。

 

その師匠・橘高徹さんに,今回の取材で少しでも恩返しができただろうか。

 

ディレクターさんの話では,今後チャンスがあれば全国放送も・・・とのこと。

「広島⇒カキ⇒かぶせ釣り」というわかりやすさがいい,と言われた。

まあ雑談の話なので期待はしていないが,もしそういうチャンスが来ればなお嬉しい。

できたら今度は,釣り番組として紹介してもらえたらと思う。

今回のインタビューでは,師匠の人柄や生き方などもだいぶ聞かれた。

ただ,もともと釣り人同士の付き合いなので,ついついこちらの答えが釣りの技術論に

なりがちだった。わかってはいたことだが,師匠を語るということはぼくにとっては

その釣技を語ることに等しい。人柄や生き方にも影響は受けたが,釣りの話に絞った

番組なら,釣り人にはもっと興味深いものになっていただろう。

 

 

※ この番組の放送予定日は,4月30日(火)です。午後6:10〜7:00の

広島県内向けニュース番組の中で取り上げられます。放送時刻は流動的ですが,

6:20〜6:45ごろの間になる可能性が高いとのことです。

正味の放送時間は,6分半程度だそうです。

なお,当日大きなニュースが入ったら,翌週に延期されます。

 

 

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