最終更新日: 2006/08/12

雑記帳 (お仕事・英語編-B)

 


 

◆ 2006年4月の出来事 〜前編〜 ◆

 

個人塾のオーナー」になりたかった。


その思いを抱いて,就職した役所を2年で退職した。

転職したとき,一つの誓いを立てた。
生活の安定を捨てて好きな道に入る以上,失業して路頭に迷っても後悔すまい」。

しかし,世間によくあることだが,当初の目標はその後,別の形になっていく。

第一に,時勢の変化により,個人塾には生徒が集まらなくなった。

第二に,教壇に立つよりデスクワークの方が自分には向いていることがわかってきた。


広島の予備校から東京の予備校へ,さらにまた別の予備校へと渡り歩いて,

今の仕事のスタイルに落ち着いてから,今年の4月で14年が過ぎていた。
振り返ってみると,今の仕事の形がこれほど長く続くとは思っていなかった。


1980年代のバブル経済時代,大学も「偏差値バブル」の時代を迎えていた。

受験生人口はピークに達し,広島県内の私大も一定の偏差値を持っていた。

今ではF(フリー(パス)の略)ランクの大学が4割にも達しようとしているが,当時は

浪人してもどこの大学にも受からない若者が毎年多数出るような時代だった。
90年代の初めごろに移籍した東京の予備校も,当時は他予備校からの有名講師の

引き抜きを盛んに行っており,「年俸1億円講師の誕生も近い」と言われていた。

しかし,予想されていたことではあったが,その後10年を経ずして時代は激変した。

何より,予備校じたいの数が減った。若者の人口減による業界の衰退,授業の削減,

職員(とりわけ講師)のリストラ・・・社会のどこにもある風景が,自分の身近にもあった。

そういう中にあって,1年ごとの契約更新とは言え,実質的に在宅勤務の正社員に近い

待遇で10年以上同じ仕事を続けられたのは,客観的に見て幸運だったと言えるだろう。
しかし,この十数年というもの頭の中には常に,ある種の不安があった。
「いつまでもこの形で仕事が続けられるとは思えない」という不安だ。
一般の会社や役所の定年は60歳前後だが,60歳近くになっても同じ条件で親会社に

雇われている自分を,どうしても想像できなかった。

少なくとも自分が親会社の経理担当者なら,「こいつに支払っている給料は本当に妥当な

額なのか?」という素朴な疑問を持つだろうと,この仕事を始めて以来ずっと思っていた。

仕事の内容は,おおむね三種類に分けることができた。

第一に,教材やテストの原稿書きの仕事。これは商品の形となって現れるので,絶対に

必要な仕事であり,仕事の質に対する評価もしやすい。この種の仕事だけで自分の

スケジュールが全部埋まれば,何も問題はない。しかし実際はそうではなく,原稿書きの

仕事は全体の3分の1程度にすぎなかった。


第二の仕事として,親会社から出されたアイデアを具体化するための資料作りがあった。

たとえば「通信添削を始めたい」という漠然としたアイデアが,親会社から出されたとする。

この段階では,単なる思い付きにすぎない。この企画を具体的な商品体系として提供する

ためには,いくつかの下準備が必要になる。提供する添削講座のラインアップを決め,

分量や料金を決め,採点スタッフを集め(そのための審査基準を作り),スタッフを教育し,

マニュアルを作り,作業スケジュールを固め,営業用の資料を作り・・・こうした一連の

「企画の具体化作業」が,教科教務の専門職としての仕事の一部を占める。

そして,第一・第二の仕事をした後に,さらに「時間が余る」ことがある。時間が余ったから

といって,遊んでいるわけには当然いかない。契約は1年ごとの更新なので,「アイツは

仕事をしてないじゃないか」と思われたら,翌年の契約はない。そこで,第三の仕事をする。

それは「基礎研究」である。「今すぐに商品化するのは難しいが,将来役立ちそうなデータ

の整備」とか,「これまでに行ってきた企画の経緯や具体的作業の手順をまとめた資料作り」

などである。親会社は非常に人の移動が激しい会社で,仕事の要領を知らない若い新人が

入れ替わり立ち代り入って来るので,そうした資料などはそれなりに意味があると思って

自主的に作って提出したが,どの程度利用されたかはわからない。

それぞれの仕事のうちどの程度の部分が親会社に貢献しているかを正直に見積もると,

第一の仕事は100%,第二の仕事は50%,第三の仕事はほぼ0%だった。

 

第二の仕事の半分が会社の役に立たないのは,その会社は猫の目のように方針が変わる

社風を持っていたからだ。ただし,それが一概に悪いとは言えない。よく言えば臨機応変な

対応が取れるということであり,悪く言えば「行き当たりばったり」ということだ。どちらの解釈

をするかは人によって違うだろう。いずれにしても,そういう会社であるから,マニュアルなど

作っても実際には無視されることの方が多い。あるいは,企画を具体的に練り上げて8割

くらいまで固まったところで,また全部チャラにしてゼロから考え直す,というようなことも

日常的に起こっていた。当然,われわれ事務方の仕事には膨大なロスが発生する。

結果,数週間かけて作った資料が全部お蔵入りになる,というようなこともままあった。

言われた通りにしたこちらには責任はないが,しかしその間,現実問題として自分は

会社に何ら目に見える貢献をしていない。そういう,賽の河原で小石を積むような作業は,

精神的な徒労感が大きい。

 

そして,第三の仕事はさらに苦痛だった。こちらが「親会社の役に立つだろう」と思って

提出した資料の大半は,ほとんど誰の目にも留められず忘れ去られていくように見えた。

そういう「水子」(不謹慎な喩えかもしれないが,作る側としてはまさにそういうことだ)の

ような資料のストックを振り返りながら,1年契約の専門社員は,「本業とバイトの配分

に常に頭を悩ますのである。

 

具体的に言えば,こういうことだ。少なくとも第三の仕事は,結局自分が「何かの仕事をした」

という自己満足を感じるためだけにやっていることにすぎないのではないか?なぜなら,その

仕事は実質的に会社に貢献しておらず,したがって自分の査定の対象にもならないから。

それならいっそ,第三の仕事に費やしているかなりの時間を,別の仕事に振り向ける方が

賢明ではなかろうか?つまり,アルバイトである。うちは一応有限会社の形を取っていて

(ただし社員は家族だけ),親会社との業務委託契約を結んでいる。契約上は,親会社の

仕事に専念しなければならない(同業他社の仕事を請け負ってはならない)ことになっている。

ただし勤務時間外に他社の仕事以外の仕事をするのは自由であり,実際そうやって市販本

をこれまでにも書いてきた(出版社は予備校の同業者ではないのでOK)。

 

はっきり言って,本業の方の手を抜いてアルバイト(市販本)の原稿書きに多くの時間を

割いても,親会社にバレる可能性は低い。しかし,そこは自制心を持って,正規の勤務

時間には親会社以外の仕事は極力しないようにしていた。そうは言っても,第二・第三の

仕事が増えれば増えるほど自分の査定にとってはマイナスであり,その分翌年度の契約が

更新されるかどうかの不安も増してくる。そのリスクを回避するためには,セーフティネットを

用意しておく必要がある。つまり,アルバイトの手を広げておくということだ。市販本のほかに,

散発的にちょっとした仕事を請け負う得意先を,多少は開拓しておいた。その「さじ加減」を

誤ると本業の方がアウトになるので,毎年その点は神経を使いながら仕事をしていた。

 

ただ,1年ごとの契約も10年を超えるようになると,何となく「惰性」のような感じは出てくる。

「毎年クビにならずに契約が更新されているのだから,それなりに評価されているのだろう」

と思う反面,「会社も厳しいリストラが必要な状況ではないし,特に不都合がなければ現状の

ままでいい」という,消極的な動機によって毎年の契約が更新されているような気もしていた。

自分なりに親会社に貢献すべく,そのときどきで最善と思う仕事をしてきたつもりだが,

果たして親会社の方は,自分の能力や貢献度をどの程度評価してくれているのか?という

不安は,常にあった。その一方で,「いきなりリストラされる可能性は低いだろう」と高を

くくってもいた。なぜなら,親会社は慢性的に人手不足だったからだ(もっともそれは現場の

感覚であって,雇う側は「これくらいの人数でちょうどいい」と思っていたかもしれないが)。

 

しかし,それでもなお不安はあった。本部の社員は殺人的なスケジュールと格闘しており,

その中で商品の質も確保することは現実的に難しい。その結果「とにかく納期までに現物

が用意できればいい」という発想に陥りがちになる。品質に目を光らせるのはわれわれ

専門職の仕事なわけだが,実際にはその時間が取れないことも多い。「品質」と「納期」の

二者択一を迫られれば,数値化できない「品質」の方を棚上げして「納期厳守が最優先」

となっていくのは,ある程度は止むを得ない。当然われわれも,また制作担当の社員も,

品質が保証されていない商品を世に出すことに対する「心の痛み」のようなものはある。

しかし社員の側は「背に腹は代えられない」ということで,だんだんと品質に対する自らの

要求水準を下げざるを得なくなってくる

 

よい品質の商品を作りたい,あるいは作らねばならないという本来の志が低くなり,

「質はどうであれモノがあればよい」という雰囲気が職場に蔓延すると,どうなるか?

当然,われわれ「品質管理」を担当する者の相対的価値は下がっていく。極論するなら,

品質を一切問わないならば,すべての商品を学生アルバイトに作らせてもいいことになる。

「納期」と「品質」が対立関係にあるとき,本来なら「最低限これだけの品質は確保すべき

であり,そのためには納期をここまで延期しよう」というような発想があって然るべきだが,

この会社では,あたかも小泉首相の靖国参拝と同様の「納期原理主義」が定着しており,

「納期を守るべし」という号令の前にはすべての思考が停止してしまい,納期以上に大切

なものがたとえあっても,その損得勘定は議論の俎上に上らない雰囲気になっていた。

もっと言えば,あえて社員たちに「普通にやったのではできない仕事」を課し,突貫工事で

どうにか納期までに形を整えることができたら「そら見たことか,やればできるではないか」

という自己満足にひたるような,一種の中毒症状的な仕事の進め方が常態化していた。

言うまでもないが,これはあくまで個人的な印象にすぎない。実際はそうではないのかも

しれないし,「仮にそれが事実でも,それで会社が業績を上げているのだからよいでは

ないか」と言われるかもしれない。しかし品質管理の担当者なら,「納期が多少遅れても

最低限の品質は確保したい」と思うのも,また当然のことである。

 

ともあれ,近年制作物の量はますます増え,その割に社員の数は増えず,結果として

われわれの知らないところで怪しげな品質の商品が次々にリリースされているような

気がしていた。そして会社はどうやら,「質より量」という方向に明確に舵を切りつつある

ように思われた。そうなると「多少品質が下がっても作業単価の安い学生アルバイトを

使って商品を量産する方がよい」という発想が生まれるのは必然と言える。事実,今後

は大学生を有効活用するという方針は,数年前から出ていた。そういう状況の下で

自分の置かれた立場を考えるとき,「あいつは不必要だ」とは言わないまでも,「あいつ

の仕事の一部を単価の安い学生スタッフに回して,その分あいつに支払う報酬を削る

方が効率的だ」という判断がいつ下されても不思議ではないだろう,と思っていた。

 

そこで,「今の契約が変更されるとしたら,それはどんな形か?」と想像すると,一番

ありそうなのは,「固定給(年俸制)を廃止して,出来高払いに切り替える」ということ

だろうと予想していた。確かにその方が経費面だけから言えばコストパフォーマンス

が高くなるし,実際これまでにもそうした形で契約を切り替えられた先輩たちもいた。

先に挙げた第二・第三の仕事を会社が評価してくれていなければ,遅かれ早かれ

そういう形での契約変更はあるだろう,という覚悟はあった。ただ,向こうの会社から

一切仕事が来なくなるということは,ほとんど考えていなかった。

 

仮に,予想するような契約の切り替えが行われたら,どうするか?

専属契約が解消されれば,収入が減る分,掛け持ちでいろんな仕事をすることになる。

「いろんな仕事」は基本的に今の仕事の延長上で考えるとしても,デスクワーク以外の

仕事にも手を広げねばならないだろう。最悪の場合(と言ってはいけないが),学習塾

でも開くことになるか?ということも頭の隅にはあった。ただ,10年以上も同じペースで

仕事をしていると,頭ではわかっているのだが危機感が薄れてきて,「幸運にも在宅で

仕事をさせてもらっている勤め人」という感覚に限りなく近づいていく。役所に勤めていた

頃は「ローリスク・ローリターン」だったが,それに比べれば最近10数年の仕事は,

「ローリスク・ミドルリターン」的な感覚だった(実際はローリスクではなくミドルリスク

だったのだが)。最大の心配は,「契約の切り替えのタイミング」である。一番困るのは,

50代半ば過ぎくらいで収入が激減するケースだ。その年齢で次のクライアントを探す

のは容易ではないだろう。しかし,こればっかりは自分では決められない。どこかの

時点で「半リストラ」されるのは間違いないだろうが,そうなったらその時に身の振り方

を考えるしかあるまいと,わりに呑気に構えていたのだった。

 

 

親会社からもらう仕事自体は,総じてやり甲斐のあるものだった。しかし,自分の判断で

行う「専門職としての意見や提案」のような仕事は,残念ながらほとんどが無駄だった。

10年以上いろんな提案や企画を提出したが,こちらから提案したこと」が検討されたこと

は皆無と言っていい。したがって,「思いつきの(多くの場合は過激な)企画を,現場に

滞りなく周知・実行させる(つまりソフトランディングさせる)ための根回し」的な仕事が,

かなりの部分を占めていた。それらがどの程度評価されていたのかはわからない。

 

 


そうした「思いつきの企画」の一つが,
2004年4月にスタートした。

具体的なことを書くのは大人げないので,比喩を使って語ろう。

それは,「姉歯建築士的な立場に置かれた」仕事だった。
「違法建築の図面を引け」と言われたわけではない。予備校業界で違法行為と言えば

「大学合格者数の水増し」くらいのものだ。

シロウトの思いつきは専門職から見れば突飛(実現不能)な空論であることもままあるが,

少なくとも企画者は,シロウトではあっても自分なりの理念を持っている。しかし,そのとき

親会社から出された「思いつき」は,専門職としての自分の目から見て,あまりにも常軌を

逸していた。今までにもそうしたケースはあったが,どこかで軌道修正して表に出していた

のだが,その企画は結局,「生のアイデア」がそのまま世に出る形になった。

その企画の「図面を引く」のが,ぼくの仕事だった。
たとえて言えば「
窓のない家の図面を書け」と言われたようなものだ。
「窓のない家」は,違法とは言えない(建築法のことは知らないが)。
しかし,そこに住むであろう人々にとって,「
居心地の悪い家」になるだろうことは明らかだった。
そういう家の図面を書かされることは,設計屋としての自分にとって苦痛に満ちたことだった。
もちろんこのたとえは自分の立場から言っているのであって,向こうは「窓のない家」などとは

思っていない。「いい家」だと思っている。しかしそれは,根拠のない妄想である。

(「窓のない家」というたとえには合理的な根拠があるが,それは割愛する)

果たして,「窓のない家」の評判は,予想どおり悪かった。
そこで,「普通に窓のある家」の図面の案を別に作り,住人にアンケートを取って(もちろん

「窓のある家の方がいい」という回答が多数を占めた)「これこれの理由によって,今の

『窓のない家』は立て替えるべきだ」という企画書を,1年後に提出した。

しかし,例によってその企画書は,どこか知らないところで消滅したようだった。

 

この会社は基本的に,顧客へのアンケート調査というものをしたがらなかった。

その理由を端的に言えば,「批判は聞きたくない」ということである。

自分(ら)が正しいと思ったことをやり,それが成功したか失敗したかは自分らの感覚で

判断し,失敗したら速やかに撤退して次のアイデアを出す。そういう仕事の進め方だった。

言うまでもないが,「失敗した」とは即ち「お客様に迷惑をかけた」ということである。しかし,

それに対する反省は基本的にしない会社だった。ゼロから作っては壊し,またゼロから

積み上げるという,恐ろしくロスの大きい動き方をし,それでも(少なくとも見た目は)業績を

伸ばしているようだった。その分,ハードな仕事に耐えかねて辞めていく社員も多かったが,

それはどこの会社でも珍しくないことなのかもしれない(自分が関わった会社の中では

あそこは特異だったが,狭い経験に基づく断定はできない)。

ともあれ,2004年に売り出した「窓のない家」はその後も作られ続け,そのたびにぼくは

図面を引いた。その家に住むかどうかはお客の自由だが,一度住んだお客の多くは,

「こんな家には二度と住みたくない」と言って出て行った。入ってくるのは,その家に窓が

ないことを知らない気の毒なご新規様だけである。


「窓のない家を作り続けてお客様に苦痛を与えることには,もう我慢できない」

ぼくは親会社の現場担当者たちに相談し,「今年の春からは,窓のある家に立て替えよう」と

主張した。現場担当者たちも皆,同意見だった。しかし立て替えの企画案を何度出しても,

それは検討の俎上にも上げられなかった。その理由もはっきりしているが,ここには書かない。

「これでは,お客さんに対して無責任すぎる」
ぼくは,現場担当者に言った。
「建て替えよう。後で上から文句を言われたら,自分が責任を取る」

そして今年の2月,ぼくはその家の図面を引き直し,「窓のついた家」を設計した。

上の了解は取っていない。確信犯である。
その新しい家は,3月にリリースされた。窓のない家を売り出してから,約2年後のことだった。


4月1日,親会社の直属の上司から,電話がかかった。
「本部へ出頭してください」
有無を言わせぬ雰囲気だった。

数日後,本部へ行った。
「沙汰があるまで謹慎せよ」と言われた。
窓のない家に独断で窓をつけたことに対するペナルティである。
「3月にリリースした窓つきの家は取り壊して,
窓のない元の家に戻す」とも言われた。
「窓つきの家」が期待どおりの好結果を生んだことは数字が証明していたが,その数字は

目を通してさえもらえなかった。「無断で建て替えたことが悪い」の一点張りである。

ぼくは,こう主張した。

「独断でやったことの非は認める。しかし,今までこちらが手順を踏んで,合理的な理由まで

つけて改善案を提出しても,それが検討された形跡は一度もない。これ以上同じことを

続けても前には進めないので,お客様の利益のために止むに止まれぬ気持ちでしたことだ。

自分が処分されるのはかまわない。しかし,新たに作った『窓のある家』が,以前のいびつな

家に比べてどれだけ改善されたかに関しては,きちんと議論していただきたい」

 

要するに「自分のクビと引き換えに,今後は窓のある家に建て替えてくれ」ということだ。

返答は,「君から提出された資料は,見ないで廃棄した」というものだった。門前払いである。

そのとき感じた「この人たちにとっては,『お客様の利益』などどうでもよいことだったのか」

という何とも言えない絶望感は,とうてい言葉で表現できない。

 

 

謹慎とは言っても,仕事は待ってはくれない。

建前上は親会社との接触を断ってはいたが,自分が担当する仕事は続けねばならない。

その仕事とは,再び「窓のない家」の図面を引くことである。

辛い仕事だったが,そんなことは言っておられない。

締切に遅れないよう,毎日少しずつ原稿を書いて送った。

 

どんな処分が下されるかについては,あれこれ考えた。
「いくら何でも,クビはないんじゃないか?」という気持ちも,半分はあった。

なぜなら,親会社のマンパワーの現状を考えたとき,専門スタッフが一人でも欠けるのは

大きな痛手になることは間違いないからだ。もちろん,自らに課す要求水準を大幅に下げ,

ぼくの仕事を全部大学生のアルバイトに回せば,モノが作れないことはない。しかし,いくら

あの会社でも,そこまではしないだろう。損得勘定を合理的に考えれば,自分が向こうの

人事担当者なら,「関係を一切断ち切る」という判断はしないはずだ,と思った。

しかし,何しろこの件は,そういう合理的判断とは次元が違う面があるのも確かだった。

おそらく向こうは「頭に血が上った」状態だろうから,どんな結論が出ても不思議ではない。

 

ただ,仮にどんな結果が出るにせよ,自分のしたことを後悔してはいなかった

ぼくらの仕事は基本的に「職人芸」の世界であり,職人にはプライドというものがある。

金がもらえないのは困るが,金さえもらえれば何でもやる,というわけではない。

姉歯は金に困ってプライドを捨てたのかもしれないが,普通の職人はそんなことはしない。

「雨の漏る家を建ててくれ」と言われて,平気でそういう家を建てられる大工はいない。

住む人が苦痛に感じるであろうに違いない「窓のない家」の図面を書くことは,建築士と

しての自分のプライドが許さないのである

キザなことを言うようだが,そういう誇りを失った職人には,職人としての価値はない。

お客を不愉快にさせないことは,職人としての最低限のモラルである。

「家の窓がないくらい,大した問題ではない。壊れて人が死ぬわけじゃないのだから」

という人も当然いるだろう。それは,そうかもしれない。自分の場合は,窓のない家に

お客を住まわせことはできない。その「専門職としての判断」が間違っている,と

言われるのであれば,「勝手に処分してくれ」と答えるしかない。

 

 

とにかく今の自分にできることは,待ってはくれない仕事をこなすことだけである。

処遇のことは向こうが決めるのだから,考えても仕方がない。

・・・と頭では割り切っていても,体は正直だった。

 

寝付けない。夜中に目が覚める。代わりに昼間眠くなるかと言えば,それもない。

睡眠時間は短いが,頭は覚醒している。しかし,仕事以外は何もやる気が起きない。

食欲もない。米はノドを通らず,口に入る飲食物は4種類だった。

バナナ・牛乳・コンビニのソーメン・スーパーで買った巻き寿司。

これ以外のものは,ほとんど食べなかった。

酒も飲む気にならず,缶ビールを半分ほど飲んで残りは捨てる繰り返しだった。

体重が,1週間で3キロ減った。

 

親会社の社員とは接触は禁じられていたが,心配した何人かが個人的にメールをくれた。

「ここまで話が大きくなるとは思っていなかった」
「現場としては,あなたが欠けると大いに困る」
「非常識な結論が出ないことを祈っている」

 


そして,最後の原稿がちょうど完成した日,その電話が入った。


電話の主は,こう告げた。

4月以降,あなたの会社との業務委託契約を行わないことに決定しました

ありていに言えば,解雇通告である。

4月14日,春のオフ会の前日のことだった。


〜 後編はこちら 〜