最終更新日: 2015/8/23

雑記帳 (社会問題編-R)


 

◆ 2015/8/23(日) ある戦争待望論者のつぶやき

 

今年は戦後70年ということで,「戦争を再び起こしてはならない」という趣旨の記事や映像が

連日流れています。この風潮に対して,ある若者(架空の人物)が次のような感想を持ちました。

以下は,彼の思想を通して,戦争と現代の日本社会での人間の生きる意味を考察したものです。


 

ぼくは,「戦争が起きればいい」と思っている一人の若者だ。

ぼくはどちらかと言えば草食系の男子で,武器を持って戦いたいわけじゃない。

鉄砲をかついで地球の裏側へ行って戦死するとか,まっぴらごめんだ。

いわゆる愛国心なんか全くない。でもぼくは,よその国じゃなくて日本で戦争が起きてほしい。

そのとき徴兵制が敷かれて若者が戦争に駆り出されることになったら,ぼくも当然参加する。

そして戦争の間は「どうやって生き延びるか」しか考えない。

ぼくは上官の命令に従わずに隠れたり,逃げ回ったりするだろう。

それでもぼくは,日本で戦争が起きてほしいんだ。

 

ぼくは今年28歳になる派遣社員だ。地方の高校を卒業して関西の私立大学に入り,6年前に

ある会社の営業職の正社員として社会人としての生活を始めた。でもぼくの入った会社は,

典型的なブラック企業だった。長時間勤務に加えて社内で売り上げノルマ達成のために

自社製品の購入を強制され,実質的な手取り収入はコンビニのバイト以下だった。

3年後,ぼくは体を壊して2か月の入院生活を送り,復職したが上司のパワハラによって

退職に追い込まれた。次の就職先を探したが,病気の休業歴があるぼくを正社員として

雇ってくれる会社はなかった。やむなく人材派遣会社に登録した後,いくつかの職場を転々と

しながら現在に至っている。

 

こんなぼくが将来の夢を描くことを,今の社会は許してくれない。一度でも派遣社員としての

キャリアを経た者が,正社員のレールに戻れる可能性は限りなく低い。結婚したい気持ちは

あるけれど,当然彼女もできない。自分が女でも,派遣社員の夫はいやだろうと思う。

ぼくの人生はこれから先50年以上続くかもしれないが,その間ぼくは,何を心の支えにして

生きていけばいいのだろう。誰か教えてほしい。明日の生活の不安を抱えながら,家族を

持つこともできず,一人で寂しく死んでいくのを待つだけの人生に,何の意味があるだろうか。

 

そんなネガティブな気持ちになっていると,時々思うことがある。

今の社会が根っこからひっくり返るような,大きな変化が起きないだろうか。

それは具体的には,大災害か戦争のどちらかだろう。たとえば大地震で東京が壊滅するとか,

北朝鮮からミサイルが飛んできて日本中が焼け野原になるとかだ。

そうした大事件の後は必ず労働力が不足するはずだから,その時点で生き残っている者に

とっては大きなチャンスが生まれるはずだ。ぼくもどこかの会社の正社員になれるチャンスが

大きくなるだろうし,もしかしたら仲間を集めて自分たちで事業を起こせるかもしれない。

もちろん,その災害や戦争で死んだってかまわない。金持ちも貧乏人も同じように徴兵されたり

災害にあったりして,みんなに同じ確率で不幸が訪れるのなら,今よりずっと平等だし納得できる。

 

ぼくのこの考えを「不謹慎だ」と批判する人がいるなら,その人に2つのことを言いたい。

まず1つ。たとえば福島の原発事故を受けて,「原発は全部なくすべきだ」と考えている人は

多いと思う。それを実現することはあまり難しくない。原発の立地や稼動には「地元の合意」が

必要だから,今原発が建っている「地元」がすべて原発の稼動に反対すれば,原発は動かない。

でも実際には,最近鹿児島県で原発の再稼動が決まった。地元の合意が得られたからだ。

その地元の人たちの多くは,「原発の安全性が100%でないことは自分らも知っている。

でも,原発がないとわが町の(あるいはわが家の)生活は成り立たない」と考えたのだろう。

ぼくを批判する人たちは,同じようにこの人たちを批判できるだろうか。

ぼくにとって,社会が平和かどうかなんてどうでもいい。

一番大切なのは自分の生活であり,自分の人生だ。

今のぼくの境遇がぼく自身の責任だというなら,まだあきらめもつく。

でもぼくは,生まれてから自分が歩んできた道のどこかが間違っていたとは思わない。

入った会社がたまたまブラック企業だったのは,ぼくの責任じゃない。

体を壊して休職したぼくがその後正社員になれなかったのも,自分自身が悪いんじゃなく,

社会の方が悪いんだとしかぼくには思えない。

でも結果的に将来の展望がまるで描けない今のぼくが,まともな人生のレールに復帰できる

チャンスがもしあるとしたら,それは戦争(か大災害)くらいしかなさそうだ。

原発のある町の住人が事故のリスクを承知で原発に動いてほしいと願う気持ちと,今のぼくが

自分や他人の死のリスクを承知で戦争が起きてほしいと願う気持ちは,全く同じものだ。

ぼくの考えを非難する人は,「原発のある町の住民は,原発事故のリスクをなくすという公共の

利益のために,自分の生活を犠牲にして原発の稼動に反対すべきだ」と主張するのだろうか。

 

もう1つの理由も,上のことと関係がある。反戦論者はみんな,「戦争ほど怖いものはない」と言う。

でも,ぼくはそうは思わない。ぼくと同い年くらいで先の戦争で死んだ兵隊たちは,むしろ今のぼく

よりも幸せだったんじゃないだろうか。彼らは「生きる意味(そして死ぬ意味)」を持っていたからだ。

洗脳されていたとはいえ,自分の生きる意味は天皇陛下に尽くすことであり,自分の死ぬ意味は

国や家族を守るためだと彼らは信じていた。少なくとも彼らには「自分は何のために生きるのか」と

いう悩みはなかった(そう断定はできなくても,自分を納得させられる「大義」があった)。

でも今のぼくや,ぼくと同じ境遇にある若者の多くは,自分の人生の意味を見つけることができない

(今さら右翼に洗脳されようとは思わない)。この悩みを抱えているぼくから見れば,平和とか戦争

とかを論じているすべての人たちが能天気にさえ思える。平和や戦争とか,権利や自由とかは

「社会の問題」だ。そういうことを考える余裕がある人はみんな「個人の悩み」から解放されている。

たとえばガンを宣告されて余命の短い人に「憲法9条をどう思いますか」なんて聞いても無意味だろう。

今のぼくがそうだ。いくら社会が平和でも,自分の人生の意味が見出せなければ死んでいるのと同じだ。

無期懲役であと50年以上牢獄に入れられる(ような生活を送る)くらいなら,今死んだほうがましだ。

また,ぼく(たち)の不幸は,自分とまわりの人々の幸福の度合いを比べてしまうことにも理由がある。

ぼくの悩みの根っこには,「まわりの人たちは幸せそうなのに,自分だけが不幸だ」という思いがある。

戦争に行った若者たちも死ぬのは怖かっただろうが,みんなも自分とじように死ぬと思えば,そこに

連帯感や安心感のようなものが生まれただろう。みんなが平等に不幸なら,自分の不幸は気にならない。

だからぼくは,日本が戦場になって,あの昭和20年の終戦直後のような混乱状態が訪れてほしい。

戦争の過程で徴兵されたら,ぼくはどんな手段を使ってもその戦争を生き延びる。

そして戦争が終わった後の混乱の中で,リセットされたぼくの人生がスタートするんだ。

 

もう一度言おう。「戦争反対」と今叫んでいる人たちは,そういうことを主張すること自体,自分がいかに

恵まれた境遇で生きているかの証であることを自覚してほしい。その「恵まれた境遇」の理由の1つは,

今の社会が平和だという事実にあるだろう。そこは否定しない。だけど,今の世の中にはぼくのような

若者もたくさんいるだろうし,ぼくらにとって生きづらい社会を作ったのは,上の世代の人たちの責任だ。

安保法案に反対している人たちを見ると,「何を今さら」という気がする。

自民党が絶対多数を取って安倍さんが総理になれば,今のような事態が起こることは想像できたはずだ。

それでも世間の人たち(比率から言えば多くは年寄り)は,選挙で自民党に勝たせて安倍政権を誕生させた。

結局あなたたちの言っていることはすべて,自分の生活基盤が安定しているという前提に立った,

上から目線のお説教なんだよ。明日食べる米の心配をしなくちゃならないぼくのような若者にとって,

安保法制も反戦運動も,自分自身の深刻な悩みを持たない恵まれた人たちのおままごとでしかない。

じいちゃんたち,そんなことをしているヒマがあるのなら,ぼくら普通の若者が正社員の職と安定した収入を

得られるような政策をもっと考えてくれよ。さもないと,ぼくみたいな戦争待望論者がますます増えちゃうよ。

 

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