小池直己さんのこと

 

※ このページは,2016年4月に一部をリライトしました。

 

Googleで「小池直己」を検索すると,このページがけっこう上位に入っているようです。

小池さんは有名人なので,どんな人なのか知りたいと思ってこのページを訪問される方が

多いかと思いますので,最初に申し上げておきます。 

 

このページを書いた私は,佐藤 誠司 と言います。小池さんとは,仕事仲間の関係です。

 

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私の職業は英語関係のフリーライターであり,このページは,私が個人的にいろいろ

お世話になった小池さんへの,私の感謝の気持ちを表すために作ったものです。

結果的に私の身の上話が中心になっていますが…

  小池直己さん


 

 

ある程度年齢を重ねて自分の経歴を振り返ってみると,「人との出会い」が

大きなターニングポイントであったことを痛感します。

私はいくつかの職場を渡り歩いて現在では一人で仕事をしていますが,

勤務したいくつかの職場の上司の方々には大変お世話になりました。

プライベートでも,釣りのHPを作るきっかけとなった「師匠」との出会いがありました。

しかし,私が自分の人生で最も恩を受けた人を一人だけ挙げろ,と言われたら,

迷わず小池直己さんの名前を挙げます。

私は「公務員→教員→会社員→自営業」と職を変えてきましたが,小池さんには

教員時代以降いろんな場面で,言葉では言い尽くせないほどお世話になりました。

 

小池さんと知り合ったのは,私が役所を辞めて広島の某予備校に入った年のことでした。

たまたまその年,その予備校の系列に当たる私立E高校が福山に新設され,

私は広島の予備校と福山の高校(およびその下の中学)を掛け持ちして英語を教えていました。

小池さんは,広島大大学院から広島の予備校を通じてその高校に就職したばかりでした。

もっとも小池さんは栃木のご出身で,いずれは大学で教鞭を取りたいと考えておられました。

私は,E高校の同僚として,小池さんと1年間一緒に仕事をしました。

小池さんの専門は英語教育学で,当時から本の出版や雑誌への論文の寄稿など,

幅広く活動しておられました。

 

当時(1980年代半ば)はバブル経済の最中であり,予備校業界も隆盛を誇っていました。

「リクルートの調査によれば,あと15年もすれば受験人口は今の3割程度に落ち込んでしまう」

といったデータも耳に入ってきてはいましたが,バブル当時の銀行経営者がそうであったように,

当時はそうした予測をあまり深刻に考えることはできませんでした。

 

小池さんから「本を出版しないか」と持ち掛けられたとき,私は驚くと同時に半信半疑でした。

「自分の書いた本が本屋さんの棚に並んでいる姿」が想像できなかったからです。

ともかく,自分で作った予備校の英文法参考書をベースにして,本の原稿執筆が始まりました。

当時仕事でワープロも使っていましたが,表や図が多いので原稿は手書きで作りました。

出版社は,東京の南雲堂。主に大学の教科書や副教材などを作っている会社です。

今から考えると信じられないことですが,私が最初に出した本は「活版印刷」によるものでした。

手作業で1文字ずつ活字を拾ってきて,組み合わせて版を作る方式です。

校正の要領もわからず,ずいぶんと時間がかかりました。

そうしてできた初めての本「英語頻出問題の総整理」の現物が送られてきたときの喜びは,

たとえようがありません。私の今までの人生で最大の喜び,と言っても過言ではありません。

一介の田舎の予備校講師である私には,自分の本を出すようなコネはありません。

小池さんの紹介がなかったら,私が自分の本を出すチャンスはなかったでしょう。

小池さんは本当に面倒見のよい方で,多くの出版社に対して強力な口添えを

していただきました。この出版不況のご時世に私ごとき無名の著者が本を出せるのも,

ひとえに小池さんのおかげなのです。


 

さて,小池さんが私と同じ勤務先の高校を退職され,東京の大学に就職された後も,

私は広島と福山との掛け持ち生活を送りつつ,結婚して子供も生まれていました。

私にとって仕事上の大きな転機が訪れたのは,1989年のことです。

この頃既に,私の職場である予備校の生徒数は毎年減り続けていました。

ここにいたのでは,職場が消滅するのは時間の問題です。

グループそのものは大きな組織ですから,たとえ予備校がなくなったとしても,

系列の高校の英語教師として学園に留まることは不可能ではありません。

しかし,その頃は私も若く,今よりも野心がありました。

もっと大きな世界で勝負したい,というわけです。

私は予備校の教壇に立っていたので,広島の河合塾や代々木ゼミナールなどの

大手予備校に移籍の道を求めることも考えはしました。

しかし,それまで敵として戦ってきた大手に移籍するのは,心理的な抵抗が大きすぎました。

いわば,沈みかけた船から自分一人だけ逃げ出して大きな船に飛び移るようなものです。

そんな職場の仲間を裏切るような真似は,私には到底できませんでした。

 

そのときたまたま中小予備校の会合で知り合ったのが,東京のK学館のK山校長です。

この方はいかにも都会的な発想と語り口で,「やり手のビジネスマン」という印象を受けました。

そこで,関係者の方を通じて話をしていただき,上京してK学館に就職しました。

ただし英語講師としてではなく,専門知識を生かした教務職員(要するに事務員)としてです。

私は学生時代を東京で過ごしましたが,東京で仕事をするのはこれが初めてでした。

東京での仕事と生活は広島とは全く違っていて,まず人の多さに圧倒されました。

道を歩くだけでエネルギーを消耗する,という感じです。

仕事のスケールも大きくなり,勤務時間も伸びました。

私がK学館に在籍した2年間(1989〜90年)は,受験生人口もピークを迎え,

業界はフィーバーの真っ最中でした。

ただ,将来の暗い影が多くの関係者の意識を覆うようになってきてもいました。

 

そんなとき,再び小池さんから突然電話をもらったのです。

だいたい,このような内容でした。

「自分は今,大学の授業のかたわらTという予備校でも教えている。

ここは急成長している会社で,規模の拡張に伴って人材を集めている最中だ。

大手予備校の有名講師も続々移籍している。ただ教務的な仕事のできる人材が

絶対的に足りないらしい。今の会社をやめて,ここに移籍しないか?待遇面は

今よりアップするようオレが交渉してやる」

 

これは,私にはとても魅力的な話に思えました。

というのは,私には考えねばならないもう一つの要素があったからです。

私は,一人っ子なのです。

長男が親の老後の面倒を見るのは,田舎では常識です。

私もいずれは実家の近くに住むことを計画していました。

しかし,K学館は東京近辺にしか校舎がなく,転勤はできません。

Tという予備校は当時全国展開を目指しており,大阪校が新設されたばかりでした。

これならもしかしたら,将来は広島校の職員として田舎へ帰れるかもしれない。

そう思い,小池さんの口添えを頼りにT予備校の専門社員になりました。

給料も,上がりました。すべて小池さんのおかげです。

 

私がT予備校の本部で仕事をしたのは,1991年の1年間だけです。

子供らがアトピー性の喘息で,空気のよくない都会では治りそうになかったため,

田舎に帰らざるを得なかったのです(幸い今ではほとんど治っています)。

このときはさすがに,再就職先としてはごく限られた選択肢しかありませんでした。

元の職場であるE学館は,既に予備校業務を停止していました。

この業界で仕事を続けるためには,大手予備校の講師募集に応募するしかありません。

それを考えながらT予備校のN社長に辞職を申し出たところ,思いもよらず「田舎に

オフィスを構えて,うちの仕事をすればよい」という有り難い申し出をいただいたのです。

私は今はT予備校の仕事はしていませんが,1992年に今のような形態の仕事を始める

ことができたことに対しては,今でもN社長には感謝しています。


 

私が田舎の福山に帰って来てから数年後,K学館は生徒募集を停止しました。

東京でも大手に次ぐ第2グループの筆頭格であり,100年を超える歴史を持つ老舗予備校で

あるK学館の最後は,あっけないものでした。

K学館が潰れた,という知らせを聞いたとき,私は改めて小池さんへの恩を思い知りました。

小池さんのおかげで私は沈みかけていた船から別の船に乗り換えることができたのですが,

それは1991年のことでした。この頃が受験生人口もほぼピークであり,その後は若年人口の

減少に伴い予備校業界も全体としては衰退の一途をたどっています。

つまり,あの時期を逃せば,私に移籍のチャンスはなかったことになります。

そのチャンスを私にくれたのが小池さんであることは,紛れもない事実です。

もし小池さんとの出会いがなく,私があのままK学館で仕事を続けていたとしたら,数年前に

東京でリストラならぬ勤務先倒産の憂き目に会い,途方に暮れていたことでしょう。

 

そしてさらに,小池さんには三たび救われることになりました。

2006年4月,私はT予備校とトラブルを起こして,ありていに言えば「クビ」になりました。

もともと身分の安定を求めてこの世界に入ったわけではないので,そういう事態が起こる

ことはある程度覚悟してはいました。ただ,さしあたり仕事がないのは困った問題でした。

そのとき,小池さんは私のためにあちこちの出版社に声をかけ,共著の仕事を回してください

ました。今の私はフリーライターとして多忙な日々を送っていますが,「失業」して2ヶ月ほどは

小池さんから紹介していただいた仕事で「食いつないでいた」というのが実情です。金銭的な

面もさることながら,当座の仕事があったことで精神的にずいぶん救われました。

 

 

私が小池さんに受けた恩は,大きく言って3つあります。

 

1つ目は,自分の本を出版するチャンスをもらったこと。

2つ目は,私の十数年間の勤務先となったT予備校を紹介してもらったこと。

3つ目は,現在も多くの仕事を紹介していただいていること。

 

この3つの事実がなかったら,私はおそらく田舎の高校教師として一生を終えていたか

(それはそれで一つの人生ですが),フリーになったら生活に困っていたかもしれません。

私は今の仕事と生活に満足しており,そういう私の現在は,何度も小池さんにお世話になった

という事実を抜きにしては考えられません。

 

私が死んでも,私が書いたモノは私が生きた証として残ります。

私がそういう仕事を続けられるのは,小池直己さんのおかげなのです。

 

※ 小池さんは岡山のS大学の教授を定年退職され現在は東京に住んでおられますが,

私は今でも大変お世話になっています。

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