日記帳(11年9月12日〜11月6日)

 

 


11月3日の祝日は,仕事の合間を縫って横島でかぶせ釣りをしてみた。

10時ごろの干潮にカキを調達して,10時半〜正午の間に横田港の大波止で竿を出し,

釣果はカワハギ2匹(18.5cmと20cm)。当たりはほとんどなく,魚の活性が低かった。

 

 

今日の日曜日(6日)も仕事をしながら途中で釣りに行きたかったが,あいにくの雨。

おかげで仕事ははかどり,6月以降延々と続いた原稿書きもどうにか先が見えてきた。

夏場は仕事に追われて全く休みが取れなかったが,今抱えている仕事が今度の週末

までに片付いたら,1年ぶりに蒲刈へ行こうかと思う。

 

 

で,ようやく精神的に多少ゆとりもできたので,いろいろ思っていたことを書く。

ここ1年ほどの間に同世代の親しい友達が2人亡くなった。倉敷のタクさんから

掲示板に寄せられたお便りでは,以前オフ会にも何度か参加していただいた

倉敷の山ちゃん(さん)が55歳で亡くなったという。

 

蒲刈オフ会(2003年4月19〜20日)

しまなみオフ会(2005年4月9〜10日)

 

−慎んでご冥福をお祈りします。−

 

オフ会で一緒に写真に写った人が今はこの世にいない,というのは実感がわきにくいが,

友人や知人の訃報に接するたびに,「自分,貴重な人生を無駄遣いしてないか?」という

思いが沸いてくる。

 

ただ,「無駄」って何?というところの考え方がむずかしい。今年は釣りに行くひまが

全然ないほど働きづめだったが,そういう生活に「無駄」がないかと考えると,むしろ

仕事仕事で好きなこともできない暮らしの方が無駄が多いんじゃないか?とも思う。

結局どういう人生を望むかという実存的な問題に行き着くわけで,それはつまり

「どういうふうに死にたいか?」ということになる。前からずっと思っていることだが,

幸福な死に方というのは,死期が近づくにつれて世俗的な欲望を少しずつ捨てていき,

死ぬときには「もう何も思い残すことはない」という境地に達することだろう。

死ぬ間際に「あれもやりたい」「これもやりたかった」と,この世に未練を残したくない。

仕事は好きでやっていることだし,やればやるほど金も入るわけだから全然苦には

ならないが,あんまり仕事にのめり込みすぎると,お金やら名誉やらの世俗的な欲が

膨らんでくる。それは「欲を捨てながら死期に近づく」というポリシーに逆行する。

だんだん仕事を減らして,死ぬ間際は趣味オンリーの生活になっているのが理想

ではあるが,なにしろ年金の支給開始年齢が70歳になろうかという時代なので,

まだ当分仕事中心の生活を続けるしかない。80歳くらいまで釣りができるくらい

元気で,最後は釣り場で海に落ちて事故死するのもいいかもしれん。

 

 

話は変わって。1年を振り返るにはちょっと早いが,今年は全く本を読まなかった。

もちろんマンガは除く。東北の震災と原発事故のことはずっと気になっていて,

本屋でも関連本をペラペラめくってみたが,自分が知りたいことを教えてくれる

本は残念ながら1冊もなかった。知りたいこととは,こういうことだ。

 

原発に反対する人たちが考えていることは,およそ想像できる。原発の危険性を

指摘する科学書も実際に読んではいないが,まあだいたいの中身は予想できる。

一方,原発に賛成する立場の人たちの考えは,残念ながら自分の想像のワクを

越えていて,説明してもらわないと理解できない(説明されても理解できるかどうか

怪しいが)。これは皮肉で言っているのではなくて,むしろ賛成派の方が正しいんじゃ

ないか?という漠然とした思いがあるからだ。(しかし自分は賛成派ではないが)

 

賛成派の全員が原発の利権に関係している人たちだということは,ありそうにない。

一般庶民で原発の現状維持を望む人の中には,「暮らしが不便になったら困る」と

いう理由を挙げる人もいるだろうが,もっとまじめに考える人たちは,「原発によって

維持されている電力の供給量が減ると,日本経済にとってマイナスだ」という理由を

おそらく挙げるだろう。そこのところを,もっと詳しく教えてほしい。電力の総量が

減れば,どういうメカニズムで,どれほどの影響が日本の経済に及ぶのか?

そしてそれをカバーする方法は本当にないのか?ということを論じた本,つまりは

「科学者が書いた原発関連本」ではなくて,「経済の専門家が書いた原発関連本」

が読みたいと思うのだが,うちの近所の本屋の棚にはそういう本は1つもない。

 

同じことはTPPにも言える。ただしこの件は,賛成派の言い分の方がわかりやすい。

「経済のグローバル化は避けられないのだから,その中で日本が生き残っていく

ためには,小規模農家には犠牲になってもらうしかない」というのが賛成派の

言い分だ。これはTPPに限ったことではなく,日本政府は今までそのようにして

あらゆる局面で農林水産業よりも製造業を優先し,結果的に効率のよい経済成長を

遂げてきたという歴史がある。したがって賛成派の人々はリアリストであり,彼らの

主張は実利主義的だ。

これに対して反対派の主張は,多分に情緒的・感傷的な色彩が濃い。たとえば

反対派はTPPへの参加によって食糧の自給率が下がることを問題視するが,

「戦争が起きて外国からの食糧輸入がストップしたらどうするか?」という仮定は

現実味が少なすぎて説得力がない。別に自給率が下がってもいいじゃん?と思う

人は納得しないだろう。反対派の主張の根っこには,ある種のノスタルジー,

あるいはユートピア的な発想があるように思える。それは格好良く言えば哲学で

あり,皮肉っぽく言えば思考が停止した状態だ。

 

話が少し外れるが,東京にオリンピックを誘致すべきかというアンケートでは,

賛成する人が一定数いる。その人たちの賛成理由のほとんどは,「経済効果が

期待できるから」というものだ。これを見てもわかるとおり,世の中には「景気の動向」

にしか関心がないように思える人たちが一定の割合で存在する。その人たちの

政治や政治家に対するほとんど唯一の期待は,「景気をよくしてくれること」だろう。

幸か不幸か,自分はそういう立場の人間ではない。しかし,そちら側の人々の

意見には関心がある。原発についてもそうだ。ざっくり言えば,原発もTPPも,

あるいは鞆の埋め立ての問題も,世の中で意見が対立するほとんどすべての

問題の根底にあるのは,実利ではなく観念の対立だと言っていいだろう。

たとえば原発の必要性を論じる場合,「日本が現在の経済力を維持するためには」

という前提で話をすれば,たぶん賛成派が勝つだろう。しかし反対派は,「別に

経済力を維持しなくてもいいんじゃないの?」と腹の中ではおそらく思っている。

それは,彼らが「スポーツには何の興味もないが,景気対策としてオリンピックを

東京で開いてほしい」と望む人々のグループに属していないからだ。この場合,

反対派が知らねばならないのは「別に経済力を維持しなくてもいいんじゃないの?」

という考え方が本当に成り立つのか?という点に関する判断材料だ。そこは

ある程度合理的に物を考える必要があると思う。その思考プロセスをスキップして

「昔みたいに自給自足の生活を送ればいいじゃないか」と言っていれば一番楽では

あるのだが,それはやっぱり社会人としてダメだろう。とりとめのない話でスマン。

 

結局言いたいことは,実利主義者である自分は,いわゆる「識者」(評論家や作家ら)

が口にする,「私たちはそろそろ経済成長路線を見直して,人間的に豊かな暮らしを

目指すべきではないか」というような,当事者意識を欠いた何の中身もない綿菓子の

ようなコメントが嫌いだ,ということなのです。

 

日記帳の目次へ戻る